第22話


 *



 唇が離れていって、そして杏子は思い出す。あの時どうして晴が婚姻届けを無理やり杏子に書かせたのか……。


 責任を取ると言った、真剣な晴のまなざしは今も変わっていない。


「あんこは、今もこれからもずっと、俺だけのものだから」


 抱きしめられると安心する。晴は杏子にとって唯一無二の存在だ。しかし、もうあの頃とは違って、二人とも大人になった。


「ありがとう。でも、もう私は晴がいなくても大丈夫だよ」


 わがままな愛情表現にホッとしている場合ではない。ちゃんと自分の人生を立て直さなくちゃならないはずだ。


 晴も、いつまでも杏子にばかり構っていていいはずがない。


「晴も、もうあの時のことは気にしなくていいから。ほかに好きな人つくって、その人と恋して――」


「俺、ここに引っ越してくるから」


「……ん?」


 杏子は晴を押しやった。


「どういうこと?」


「だから、一緒に住む」


「なんで?」


 むっとした顔をして、晴が杏子の鼻をつまんだ。


「痛っ!」


「口答えすんな、あんこのくせに。俺がここに住むって言ったら住むんだよ。家賃も半分出す、なにしろ俺は役職手当てがつくからな」


 つまんで引っ張ってから杏子の鼻を離すと、晴は靴を脱いですたすたと部屋へ上がり込む。


「ちょっと待って、なんで急に」


「うるさいな。泣かすぞ」


 前を向こうという決意が、シュルシュルと音を立てて萎んでいきそうになる。


「バカ男の荷物全部段ボールに詰めておけよ。俺が捨ててくる」


「晴、本当に引っ越してくるの?」


「もう決めた。荷物少ないから車借りて週末には引っ越す。それまでに荷物片づけておけよ、ひとつ残らずだからな」


 晴は言い出したら一切聞かない。それは杏子が一番理解していた。


「ねぇ晴。私だっていつまでも過去の恋愛引きずりたくないし、前を向きたい。小さい時みたいに晴とずっと一緒にいられるわけじゃないんだってば」


「なら、俺よりいい男が見つかった時は婚姻届けを捨ててやる」


「ほんとに? 絶対? 約束できる?」


「俺は嘘はつかない。でも、彼氏ができなかったら……」


 杏子は嫌な予感がした。晴の勝ち誇ったような表情に寒気さえする。


「あんこは俺のものだ。ちなみに拒否権なし。その時は役所に出すからな。期限は三ヶ月」


「婚姻届けってどこにあるの?」


「それを言ったら、勝負にならないだろ」


 それさえ破ってしまえば、杏子は晴に怯えずに済む。


 若い時にしでかした過ちへの責任感を持ってくれていたとしても、今の杏子にしてみたら、お互いが過去にとらわれているように感じてしまう。


 それに、大人になった今、子どもの時のことを引きあいに出されて脅されるなんて思ってもみなかった。


「いい、婚姻届けは自分で探す」


「探すだけ無駄。それより、俺よりもいい男探したら?」


 言われて杏子はむきになった。


「彼氏つくって破棄させてみせるから! そしたら私から離れてよね!」


「俺以上にいい男じゃなきゃダメだぞ……まあ、勝負している間、他の男のことなんか考える余裕無いくらい俺でいっぱいにしてやるけどな」


「そんなこと、させないからっ!」


 売り言葉に買い言葉なのはわかっていたのだが、杏子は引くに引けなくなって、晴との勝負に乗っかった。

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