第35話

 晴の言葉が胸に深く刺さったまま、杏子はなかなか寝付けなかった。


 いつもは抱き枕になれと言ってくっついて離れない晴が、反対を向いて寝てしまったのも不安に拍車をかける。


 晴だけはずっと、自分にだけ愛情を向けてくれていると勘違いしてしまっていた。彼の揺るがない気持ちに舞い上がっていたのは、むしろ自分のほうなのかもしれない。


 自分勝手なことしか考えていなかったことに気付き、杏子は自己嫌悪で押しつぶされそうだった。


 翌朝。


「杏子、なにその顔!」


 出社すると美奈子に化粧室に引っ張られる。クマ隠しの化粧水を吹きかけ、あっという間にメイクを直してくれた。


「昨日あんなに喜んで帰ったのに……わんこくんとなにかあったの?」


「それがね……」


 事情を話すと、美奈子はあきれたと溜息を吐いた。


「相手がずっと自分を好きでいてくれる保証なんてないのよ。わんこくんは杏子に執着しているけど、お相手ができたらお互いに離れるのが正解でしょ」


「晴がどっか行っちゃうなんて、考えてもみなかったから」


「わんこくんに彼女ができたとしても、杏子にも新しい彼氏ができれば、その問題は解決する?」


 杏子は眉根を寄せた。新しい恋人によって満たされるものはあるが、晴がいなくなった穴を埋めるものではない。


 それに、そんな大きな穴は、埋められるわけがない。


「勝負するのをやめて、大人しくわんこくんのいうこと聞く?」


「それだとなんか悔しい」


「なら、わんこくんを誰かに取られてもいいの?」


「それも嫌」


「……あきれた。杏子のほうがとんだわがままだったわけね。溺愛されすぎちゃって、わんこくんの重要性にいまさら気が付くとは」


 美奈子はふう、と息を吐いた。


「まあ、わんこくんへの気持ちに気付いたのも進歩よ。これからどうするかしっかり考えてね」


 頷いてから鏡を見て、美奈子のテクニックに杏子は驚愕した。クマがきれいに隠れ、肌がつやつやになっている。


「前を向いて過去を捨て去るのもよし。溺愛され続けるもよし。どっちを選んだって正解よ」


「美奈子……」


「人生に不正解なんて無いし、間違ったらやり直せばいいだけ。でも、焦らなくても急ぎなよ。逃した魚は大きかったなんて報告、聞きたくないからね」


「うん、ありがとう、美奈子」


 杏子はパンと頬を叩くと、気合を入れてフロアへ戻った。

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