森の魔女②

 扉の向こう側に広がっていたのは、外観の奇抜さとは裏腹に、意外にも落ち着いた空間だった。緑と白を基調にした壁紙が柔らかな印象を与え、アンティーク調の照明が控えめに光を放っている。


 しかし、足元にはうっすらと埃が積もり、掃除が行き届いていない様子が一目でわかる。アンナの小さな足跡が、その埃の中にくっきりと残っていた。


 ルシルとハナコは、互いに言葉を交わすことなく、その足跡をたどりながら奥へと進んだ。廊下には不思議な置物や古びたタペストリーが並んでおり、それらがまるで自分たちに囁きかけるかのようだった。彼女たちはそれらに目を向けないようにしつつ、早足に歩みを進める。


 やがて二人は広間のような空間にたどり着いた。


 そこはまるで物置のように、雑多な物が乱雑に積み上げられていた。部屋全体からツンと鼻をつく薬品のような匂いと、生ごみのような臭気が混じり合い、ルシルは思わず顔をしかめた。


 壁際の古びた棚には、無造作に積まれた書物や奇妙な器具が並び、ガラス瓶の中には何か不気味な液体が揺らめいている。壁際には骨のようなものや、乾燥した植物が無造作に吊るされていて、不気味な光景が広間を支配していた。


「先生、起きてください。もう、先生ったら!」


 アンナの苛立ちを帯びた声が、その部屋の一角に向けられていた。


 ルシルが目を凝らして見ると、物の山の向こうに古びたソファがあった。広間の雑然とした雰囲気にそぐわない、深紅のクッションが付いた豪華なソファだ。その上には、大きな毛布にくるまれた塊が、不自然な形で横たわっている。


「先生、もう昼ですよ!」


 アンナはその毛布を軽く叩きながら、声を張り続けていた。しかし、毛布の下からは小さな唸り声が漏れるばかりだ。ルシルとハナコは顔を見合わせ、慎重に足元の物をよけながらさらに近づいていく。


 すると、毛布がもぞもぞと動き出し、中から小さな声が響いた。


「うう、うるさいねぇ……誰だい、こんな時間に騒いでるのは……」


 その声は、予想を裏切るように高く、次の瞬間、毛布の隙間からゆっくりとが現れた。


 ――うん?


 ルシルは思わず目を見開いた。予想外の人物――いや、予想外の風貌に、一瞬、彼女の思考が停止した。


 銀色の髪がまるで月光を纏うようにさらさらと流れ落ち、透き通るような肌が夢幻的な輝きを放っている。その紫がかった瞳には、眠気と不機嫌さが混じり合い、ぼんやりと空をさまよっていた。


 ルシルの視線は、自然とその姿に釘付けになった。それは、その独特な美しさのためでも、この空間を支配するような存在感のためでもなかった。


 毛布の隙間から覗いた顔は――どう見ても幼いにしか見えなかったのだ。


「もう昼ですってば、先生!」


 アンナがなおも声を張り上げると、その「先生」と呼ばれる少女は、数度、まぶたをしばたたき、曖昧な視線をアンナに向けた。しばらくして、ようやくその瞳に驚きの色が浮かんだ。


「ああ……アンナか。よく帰ったな」


 彼女はアンナを認めると、眠そうに目をこすりながら身体を起こした。その仕草は、まさに少女のそれであり、ルシルはさらに困惑する。


「そうですよ、アンナです。休みになったから帰ってきたんです!」


 アンナは満面の笑みで答えるが、少女は苦々しそうに顔をしかめる。


「……お前は相変わらず騒々しいな。嵐でも来たのかと思ったぞ」

「ふふ、先生も――どうやらお変わりないようで、安心しました!」


 アンナは部屋のあり様を見渡しながら微笑み、冗談交じりに言葉を返す。すると、少女もニヤリといたずらっぽい笑みを浮かべた。


「うーん、アンナ。お前、少し痩せ……いや、太ったんじゃないか?」

「え! ちょ、ちょっと、先生、冗談でもやめてくださいよ!」


 軽口を叩き合うアンナと少女のやり取りに、ルシルとハナコもつい微笑んでしまいそうだったが、やはり不思議な違和感が残る。


 アンナが「先生」と呼ぶこの人物は、どう見ても自分より幼く見えた。隣に立つハナコも、戸惑いを隠しきれない様子でおずおずと声をかけた。


「ア、アンさん、そちらの方が……」


 その言葉で、少女のアメジストのような瞳がルシルたちを捉えた。一方、アンナは、はっとしたような表情で、改めて二人に向き直る。


「ああ、二人とも、ごめん。――そうだよ、この人が私の先生!」


 アンナが誇らしげに紹介するが、少女はやれやれという表情で、大きくため息をつく。


「アンナ、何度言ったらわかる? 私を先生と呼ぶなと――」

「それでね、先生。二人が手紙で話した友達、ルーシーとハナだよ!」


 アンナが彼女の言葉を遮るように続けると、少女は肩をすくめ、あきらめたように軽く頭を振った。


「……もう、いい。――二人とも、こんな辺鄙な場所によく来てくれたね。私の名前は、ナイレル・アストリア・エン・ヴァラリエル。まあ、『先生』以外なら、好きに呼んでくれればいいよ。ここでひとり、気ままに暮らしている――まあ、いわゆる『引きこもり』ってやつだな」


 その飄々とした言葉に、ルシルとハナコは思わず「よ、よろしくお願いします……」と早口に返す。ナイレルはそれを聞いて、わずかに笑みを浮かべた。


 そこでルシルは改めて彼女を見つめる。


 ――この人が……先生?


 ルシルは頭の中で何度もその言葉を反芻したが、現実感をつかみかねていた。ナイレルはどう見ても少女にしか見えない。

 

 しかし、彼女の瞳には、その見た目とは裏腹に、はるかに深い知識と威厳が宿っているように感じられた。


 彼女の身にまとっている黒と白を基調にした衣装も、精緻なデザインが施され、冷たい銀髪と美しく調和している。その胸元には深紅の装飾があしらわれ、まるで彼女がこの場所に存在する異質な存在であることを強調しているかのようだ。


 その時、アンナが突然、くすくすと笑い声を漏らした。ナイレルは無表情のまま、わずかに眉を上げる。


「なんだい、アンナ。気味が悪いね」

「ふふ、先生が自分で『引きこもり』なんて言うから。――二人とも、先生は本当はすごい研究者なんだよ。魔法だけじゃなくて、薬学、生物学、哲学――色んなことに精通してるんだから!」


 アンナが少し興奮気味に語るが、ナイレルは肩を軽くすくめ、面倒くさそうに鼻を鳴らした。


「まあ、そんなことはどうでもいいさ。それより、立たせておくのもなんだな。そこらにでも座ったらどうだ……いや、その前に掃除をしなきゃならないな。アンナ、それに二人とも、少し手伝ってくれるかい?」

「はーい!」


 アンナは元気よく手を挙げ、早速部屋の片付けに取り掛かった。


「あ、はい」


 ルシルとハナコも少し遅れて返事をすると、何から始めるべきかと、足元に散らかった物を見つめる。


 しかし、ふとナイレルの方を見やると、彼女は再びソファにどっかりと身を沈めていた。まるで彼女自身がこの空間の一部であるかのように、リラックスした様子だ。


 ――あれ、手伝ってって言わなかったっけ……。


 ルシルはやや戸惑ったが、とりあえず手近にある窓へ歩み寄り、重い窓枠を持ち上げて窓を開け放った。


 冷たい外の風が滞っていた空気を押し流し、部屋の中へと新鮮な空気が流れ込んでくる。微かな埃が舞い、薄暗かった部屋に太陽の光が差し込んだ。それはまるで、長らく忘れ去られていたこの空間が、目を覚まし始めたかのように感じられた。

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ルシル・ベイカーの追想 瀬戸智 @SetoSato

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