追想は続く
ルシルが次に目覚めたとき、見知らぬベッドに横たわっていた。目を開けると、アーチが交差する白い天井が視界に入り、淡い薬品の香りが鼻をかすめる。意識がぼんやりと戻り、目を瞬かせた。
「目を覚ましたわね。気分はどう?」
柔らかな声が耳に届く。視界の端にいた女性がルシルに話しかけてきた。
「……カーラ?」
「ええ、そうよ」
カーラの黒い瞳が、優しくルシルを見つめている。
「ついさっきまで、あなたのお友達たちもいたのだけど、授業に戻ってもらったわ」
カーラはベッドのすぐ横の椅子に座っていた。膝の上には、大判の本が開かれている。ルシルの視線は自然と部屋を巡り、周りにはベッドが整然と並んでいることに気がついた。ここが医務室であることを認識した瞬間、自分がここにいる理由が脳裏に浮かび、ルシルは慌ててベッドから起き上がろうとする。
「ホーキンス先生は? アランは無事?」
ルシルの声には焦りが滲む。カーラは一瞬驚いたように肩をびくつかせたが、すぐにその動きを制し、ルシルをやんわりとベッドに戻させる。
「少し落ち着きなさい。今からちゃんと説明してあげるから」
急に動いたことで頭がくらくらし、ルシルは促されるままに、再びベッドに身を沈めた。
「まず、アランは無事よ。授業に戻ったわ。ホーキンス先生は……残念ながら行方をくらませたわ」
カーラは開かれた本を閉じると、一連の出来事のその後を落ち着いて説明し始めた。アランが意識を失ったルシルを心配している隙に、ホーキンスは逃走したようだ。ガラスの飛び散った温室内には、ホーキンスの姿は発見されなかったのだ。
「まさか学園内にまで入り込んでいるなんて思わなかったわ。ごめんなさい」
「謝らないでよ。カーラは悪くないでしょ」
「いえ、本来であれば私が……」
ルシルは頭を下げようとするカーラを制止し、急いで言葉を紡ぐ。
「それより、彼、いや……彼らは何者なの? なんでお母さんは狙われているの? カーラは知っているんでしょ?」
ルシルの問いに、カーラは一瞬躊躇いを見せた。その目には微かな迷いが浮かんでいる。
「それは……まだ教えてあげられないわ」
「ど、どうして?」
ルシルは戸惑いを隠せないまま尋ねる。
「色々なことを知ることで、あなたがより危険な立場に陥ることにつながりかねないからよ。あなたは、まだそれを退けるだけの力を身に付けられていないから。それに……」
「……それに?」
先を急かすように問い詰めるルシルに、カーラは曖昧に笑ってみせた。
「それに、あなたが記憶を取り戻して、自分自身で突き止めることを、おそらくアマンダさんは望んでいるだろうから」
「……私が記憶を取り戻す?」
「ええ、そうよ」
ルシルは首を傾げた。カーラの言葉の意味を掴みかねていた。
カーラは慎重に言葉を選ぶようにゆっくりと説明を続ける。
「……あなたの記憶は、意図的に封印されているわ。――そのペンダントの石にね」
「ペンダントに……記憶?」
カーラは静かにうなずき、小さくため息をついた。
「『記憶の結晶化』――アマンダさんの仕業ね。私も最初は気がつかなかったわ。マイケルさんから、あなたが記憶をなくしていることは聞いていたのだけど……」
その表情は相変わらず優しげだが、少し呆れたような微笑だった。
ルシルは、無言でサイドテーブルに置かれていた自分のペンダントを取り上げる。石は亀裂が入っていたが、相変わらず見る角度によって色を変え、きらきらと輝いていた。よく見ると、その首紐は途中で千切れている。
「これに……私の記憶が……」
ルシルが疑わしげにつぶやく。いまだに説明を完全には飲み込み切れていなかった。
「その魔法を解く方法は、あなたの魔力を一定量以上注ぎ込むこと。その亀裂は、その兆候ね。――あなたが魔法を使うたびに、その魔力の一部が吸収されているわ」
「え?」
ルシルは驚きの声を上げ、改めて身を起こす。
「じゃあ、もしかして私が魔法を上手く扱えなかったのは、このペンダントの影響だったの?」
「そういうことね」
カーラはもう一度うなずいた。
ルシルは再びペンダントを見つめ、その輝きの中に封じられた自分の過去を思い描く。緑から赤、青と変化するその輝きに、なぜだか胸を締め付けられるようだった。
「……お母さんは何でそんなことをしたんだろう」
その言葉にカーラは優しく微笑む。
「あなたが大陸で平和に暮らしていけるように、でしょうね。大陸での生活には、魔力も魔法に関する知識も、きっと障害になってしまうでしょうから」
「……そっか」
ルシルの母が自分の記憶を封印していた。しかし、それはルシル自身を案じてのことだった。それを思うと、ルシルは複雑な感情に包まれた。その表情を察したのか、カーラが慰めるように言葉を続けた。
「この魔法は何もしなくとも、いつかは解かれることが決まっているものよ。大人になるにつれ、魔力量は自然と増えていくものだからね。あなたが成長して、いろいろなことに向き合えるようになったタイミングで、自分の出生に向き合えるようにと考えたのだと思うわ。――マイケルさんが、そのことをあなたに伝えなかったのも、アマンダさんの気持ちを尊重したのかもしれないわね」
ルシルは父の呑気な顔を思い出した。あの父親のことだから、ただ単に忘れていただけではないのかと疑う気持ちが芽生えたが、そうでないことを願った。
「じゃあ、これから私は少しずつ子どもの頃の記憶とか……お母さんのことを思い出していくってこと?」
「そういうことになるわね」
ルシルは実感が湧かなかった。だが、カーラの静かな声の重みに、真実なのだろうと自分に言い聞かせ、枕に頭を埋めた。その時、ふと疑問が心に浮かんだ。
「そういえば、カーラはそのことにペンダントを見せたときには気が付いていたんでしょ。どうしてその時には教えてくれなかったの?」
すると、カーラは「そうね」と困ったように小さく笑う。
「確かに、私はあの時、ペンダントのことに気が付いたわ。それがあなたの魔法を阻害していることにもね。けれど、それをあの時、あなたに伝えたら、あなたはペンダントを外して試合に挑むかもしれないと思ったの。言ったでしょ、ペンダントには防御魔法も施されているって。――だから、たとえあなたが試合に負けることになったとしても、ペンダントは身に付けていてほしかったの」
カーラは、最後に「ごめんなさいね」と一言添えた。
ルシルはその言葉を否定できなかった。カーラの懸念はもっともであり、実際にホーキンスの魔法から自分を守ったのは、このペンダントの防御魔法だったのだろう。
「別にいいよ」
ルシルが優しく笑いかけると、カーラも少し安心したように微笑んだ。
その後もカーラは説明を続けた。温室の有様は、温度調節を図っていた魔法の誤作動によるものということになったこと、ルシルが医務室に運ばれたのは、前日の試合の疲労によるものだということになっていること。これら一連の事件の後処理は、カーラが上手く対応してくれたようだ。
カーラは一通りの説明を終えると「安静にね」と優しく釘を刺し、静かに医務室を後にした。彼女の足音が遠ざかると、部屋には静寂が漂う。
ルシルは天井をじっと見つめながら、今回の事件を振り返った。危ない目にもあったが、それ以上に得たものもあった。
――お母さんは、間違いなくこの島の中で生きている。
この島へ来て、やっとその確信を得ることができた。霧を捕まえるような思いだったが、今はそれがしっかりと輪郭を成したように思える。
――必ずお母さんに会ってみせる。
ルシルは医務室の小さなベッドに横たわりながら、心に誓った。
◇◇◇
温室の事件から数日後、ある晴れた昼下がり。ルシルたちは広々としたグラウンドに集まっていた。空は澄み渡り、陽光が柔らかな芝の絨毯を照らしている。箒にまたがるルシルを、少し離れた位置でアンナ、ハナコ、アラン、ギルバートが見守っていた。
「ルーシー、『浮く』イメージだよ! 『浮く』イメージ!」
「ルーシーさん、頑張ってください!」
ルシルは深く息を吸い込み、箒を握る手の力を少し緩めて心を落ち着かせた。
「失敗しても気にすんなよ。絶対に笑ったりはしないからな」
ギルバートの軽口が風に乗ってルシルの耳に届き、自然と肩の力が抜ける。目を向けると、ギルバートの隣に立つアランが胸の前で小さく拳を握り、ガッツポーズを見せた。ルシルは彼にうなずき返し、再び前を向いた。
――『浮く』イメージ。
ルシルはこの島に初めて来た時の感覚を思い出していた。カーラに箒に乗せてもらい、この地に足を踏み入れたあの瞬間を。
あの時と今は違う。今度は――自分の意思で飛び立つんだ。その決意が心に宿ると同時に、体がふわりと浮かび上がる。地面から足が離れ、重力に逆らうように身体が上昇していった。
――成功だ!
ルシルはそれを知らせるように、見守るみんなに手を振った。アラン、ハナコ、アンナ、そしてギルバートがそれぞれの方法で成功を喜んでくれていた。
これからも自分はどこまでも飛んでいける、どこまでも成長できる。ルシルは彼らの笑顔を見ながら、そう強く思えた。
――お母さん、待っていて。必ず会いに行くから。
ルシルは心にもう一度誓う。
その胸には、結び直されたペンダントが陽光に照らされて美しく輝いていた。
ルシルの自分の記憶と母の想いを追う――ルシル・ベイカーの追想の物語は始まったばかりだ。
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