籠鳥の想い

 ルシルがホーキンスについて行くと、見えてきたのはあの庭園だ。ホーキンスはルシルに振り返らず、奥へとどんどん進んでいく。その足が止まったのは、あの温室の前だった。入口の前に立ち、ルシルへと初めて振り返る。


「ここ、入ったことはあるかい?」


 ルシルが素直に首を横に振ると、満足げにうなずく。


「そうか。それは良かった」


 ホーキンスは扉の張り紙を気にすることなく、中へと踏み入っていく。ルシルもその後へと続いた。


 温室の中には、魔法なのか見た目以上に広い空間が広がっていた。半透明なガラスの天井からは柔らかな日差しが降り注ぎ、温室を明るく照らし出している。様々な緑の植物たちが、その光を浴びて瑞々しく生い茂り、花々は色鮮やかに咲き誇っていた。どこからか水の流れる音や鳥たちのさえずりも聞こえてくる。


 ルシルはその美しさに圧倒され、しばし立ち止まって見入ってしまったが、ホーキンスは休むことなく進み続ける。ルシルはさすがに不安になってきたが、その背中を見失わないよう、気を強く持ち、追いかける。彼女には、聞かなくてはならないことがあった。


 やがて二人は開けた場所に出た。どうやら奥まで来たようだ。本来は授業を行うために設けられた場所のようで、広々とした空間を囲うように水路が巡り、奥には半透明のガラスの壁が白々と光っている。

 ホーキンスはその中央で立ち止まり、振り返らずに話し始めた。


「昨日の試合、見事だったよ。たまたま時間ができたから、私も観戦させてもらったんだが、あのグランツ君に勝つなんて、流石だね」

「……ありがとうございます」


 ルシルは少し離れた位置で立ち止まり、小さく息を吐く。ここに来たのは雑談をするためではないのだ。彼女は早速本題に入ることにした。


「けど、ホーキンス先生。本当は私が勝つとは思っていなかったんじゃないですか?」

「……どういう意味だい?」


 ホーキンスはようやく振り返り、その口元には不敵な笑みが浮かんでいた。しかし、ルシルは臆することなく続ける。


「エドガー君に言ったそうじゃないですか。――私が魔法を使ったことがないって」

「………」

「どうしてそれを知っていたんですか?」


 ホーキンスは一瞬、黙り込んだ後、大きなため息をついた。


「……なんだ、知っていたのか。――グランツ君め。あの子は普段、悪ぶってるくせに、変なところで律儀だな」


 すると、ホーキンスはおもむろに帽子とゴーグルを外す。その姿に、ルシルは少なからず驚いた。若々しい黒髪に、精悍な目つき。声のイメージとは異なり、まだ三十代前半のような印象だ。しかし、特にルシルが驚いたのは、その瞳の色だった。ホーキンスの瞳は、濃い緑色をしていた。その瞳に、ルシルは見覚えがあった。


「やっぱり……あの時の黒猫なんですね」


 ルシルが魔法をろくに使ったことがないことを知っている人物は限られている。自分から話したアンナやハナコ、アランにギルバート。そして大陸で出会っているカーラ。そしてお父さん。その誰でもないのだとしたら、残りはあの時の黒猫以外には思い当たらない。あの黒猫はカーラではなかったのだ。


「なんとなく勘付いてはいたんだな。まあ、そういうことだ。あの時はひどい目にあったぜ。レイヴン先生がいきなり攻撃してきたんだからな。――あの人には動物愛護の観点がないのかねえ。しばらく動けなかったんだぜ」


 ホーキンスはやれやれと首を振りながら、芝居がかった仕草を見せた。その動作の一つ一つが、どこか演技じみているように見える。


「……私にどうして接触してきたんですか?」

「あれ、レイヴン先生から何も聞いていないのかい?」


 ルシルは眉を顰める。ホーキンスの言葉に不安が膨らむ。そういえばカーラはなぜ自分に何も話さなかったのか。


「なるほど……なら気になるよな」


 ホーキンスは、ルシルの表情の変化に、先ほどまでの笑みを収め、真剣な眼差しで軽くうなずく。


「だが、それを話す前に一つ言っておきたいことがある。俺はあの時も、そして今も、君に危害を加えるつもりはないんだ。上の命令で仕方なく君を連れて行かなくちゃいけないが、本来、魔法使い同士が争うことは、俺たちの目的に反していると、個人的には思ってるんでね」

「目的……ですか?」

「ああ、そうだ」


 ホーキンスの話しぶりから、彼は単独で行動しているわけではないことがわかる。では彼らの目的とは――。


「それって一体……?」


 ルシルが躊躇いがちに問うと、ホーキンスは「よくぞ聞いてくれた」と再び笑みを浮かべ、腕を大きく広げた。その背後の半透明なガラスからの光が降り注ぐ。


「俺たちの目的は、この島で暮らす全魔法使いの悲願を果たすことさ」

「……悲願?」


 ホーキンスは強くうなずき、一呼吸置くと力強く宣言する。


「――大陸の奪還さ」


 ルシルは驚けなかった。いや、実際にはその言葉の意味を掴みかねていた。しかし、ホーキンスは陶然とした様子で話を続ける。


「昨日の君の演説、とても良かったよ。世界に否定されるなら、世界に抵抗しなければならない、だったかな。本当にその通りだ。かつての魔法使いは、世界から、人々から否定され、この小さな島を作り上げた。ここを新たな故郷だと自分たちに言い聞かせ、世界に抗うことから逃げ出したんだ」


 ホーキンスはここで言葉を切ると、ルシルに一瞬、視線を向ける。


「俺たち子孫は、たまったもんじゃないよな。世界はもっと広いはずなのに、俺たちは世界を自由に飛びまわる力を持っているはずなのに……こんな小さな島に閉じ込められている。まるで、この温室で飼われている哀れな鳥たちみたいじゃないか」


 その緑の瞳に宿るのは、悲しみか、それとも怒りか、あるいはその両方か、ルシルには判然としなかった。ただ柔らかな日差しがガラスを通して差し込む中、その眼差しはどこか遠くを見つめていた。


「……だから俺たちは、世界に、そして過去を忘れて平穏に暮らす大陸の恩知らずどもに、教えてやらないといけないんだ。俺たちはここにいるぞってな。――多少、手荒なことになるだろうが、先祖たちの屈辱と、俺たち子孫の奪われてきた過去のことを思えば、それも仕方ないことさ」


 ルシルはそこでやっと、声を上げることができた。


「私が言ったのは、そういう意味じゃない。まずは自分の想いを主張して、相手を受け入れ、互いに理解していくってこと。力づくに相手を屈服させる方法じゃ、同じ過ちの繰り返しになるだけ……」

「君が大陸の奴らの肩を持つ理由もわかるさ。数年間、君は彼らの側にいたんだからね。俺たちの気持ちが理解できないのもわかる」


 ホーキンスは悲しそうな、憐れむような表情でルシルを見る。


「――だから、俺は最初から君にわかってもらおうとは思っていないんだよ」


 その時、ホーキンスは突然、杖を取り出し、ルシルに突きつけた。


「君は大人しく付いてこればいい。そうすれば怪我をすることもない。君は大切なだそうだからね」


 杖を向けられた瞬間、冷たい感覚がルシルの胸を締め付ける。


「私が……保険?」

「ああ、そう聞いてるぜ。君のお母様は、残念ながら行方不明。手がかりも皆無。今はどこで何をしているのか。――そこで白羽の矢が立ったのが君、ということだ」


 ルシルはその言葉の意味を理解するのに数秒の時間が必要だった。心臓が一度大きく跳ね、おもわず息を呑む。


「……じゃあ、あなたたちの本当の狙いは……私のお母さんなの?」

「君のお母様というより、彼女の……いや、少し喋り過ぎたな」


 そこで言葉を止めると、ホーキンスが杖を振る。


「《蛇縛の鎖ネードル・クランプ》」


 瞬間、ホーキンスの杖から、おびただしい数の蛇が波のように現れ、ルシルの体を拘束する。蛇の鱗が肌に擦れ、その冷たさが骨の髄まで伝わる。ルシルは必死に抵抗しようとするが、冷たい蛇たちが四肢を締め上げ、動きが次第に制限されていく。足が地面から持ち上がり、ついには完全に動けなくなった。


「少しの間、静かにしていてくれ。すぐに俺の仲間が迎えに来る」


 ホーキンスは動けないルシルのもとへと静かに歩み寄ってきた。口元には笑みを浮かべていたが、その瞳は獲物を睨む蛇のようにどこまでも冷たい。

 ルシルは、その射すくめるような視線から逃れるように顔を背け、何とかこの場を逃れる方法を考えていた。しかし、何も思い付かない。

 拘束がどんどん強くなり、諦めかけたその時、突然背後から声が響いた。

 

「――《魔法解除セアルドル》!」


 それと同時にルシルを縛っていた蛇たちが消え去る。解放されたルシルは地面に落ち、激しく咳き込んだ。


「……やれやれ、魔法で開かないようにしていたんだがね」


 ホーキンスがため息をつき、呆れた様子でつぶやいた。


「ルシル、大丈夫か」


 ルシルが顔を上げると、アランの心配そうな顔が目の前にあった。


「……アラン、どうしてここに?」

「やっぱり少し気になってな。後を追ったんだ。そうしたら慌てたブラウニーがこの場所を教えてくれたんだよ」


 アランはそう言って、ルシルの背中に手を置く。その手の温かさが、ルシルの不安を和らげる。


「レイヴン君か。君たち姉弟は、とことん俺の邪魔をしてくれるな」

「……ホーキンス先生」


 アランは一瞬、驚きと動揺を見せたが、すぐにその感情を押し殺し、冷静さを取り戻すと、握る杖をホーキンスに向ける。


「《絶雷撃スタンレック》!」


 アランの魔法は強力な電撃を放ち、その閃光は一瞬で周囲を照らした。青白い光がホーキンスに向かって一直線に走る。しかし、ホーキンスは動じることなく冷静に対処した。


「――《迷いの導ウェーレアド》」


 ホーキンスの口から呪文が紡がれた瞬間、アランの電撃はまるで意志を持ったかのように方向を変え、背後の高木へと命中した。木の表面が焦げ、煙が立ち上る。軽く削り取られる音が響き渡る。


「もうその魔法はこりごりなんでね。――《蛇縛の鎖ネードル・クランプ》」

「――っ!」


 アランは反応する間もなく、全身を無数の蛇が縛り上げられた。


「アラン!」

「人の心配をしている場合かな。――《蛇縛の鎖ネードル・クランプ》」

「――!」


 ルシルもまた、瞬く間に縛り上げられる。


「そのままじっとしといてくれよ」


 ホーキンスの言葉が冷たく響く中、ルシルの視界がぼやけていく。体の締め付けが先ほどよりも強くなり、次第に呼吸も苦しくなる。心の中で必死に抵抗しようとするが、力がどんどん抜けていく。


 ――誰か助けて……お母さん。


 ルシルの意識が遠のきかけたその時、何かが切れる音がした。その直後、ルシルの身体を包む光が現れる。そして、体の拘束が解け、ルシルは地面に落ちた。


「今度はなんだ……くっ!」


 ホーキンスの驚きと怒りが混じった声が響く。咳き込みながらも、ルシルは声の方向を見る。そこには、自らが放ったはずの蛇に縛られ苦しむホーキンスの姿があった。

 迷っている暇はなかった。ルシルは急いで杖を取り出すと、精いっぱいの声と力で魔法名を叫ぶ。


「《衝波ブレスト》!」

「――っ!」


 その瞬間、ホーキンスは蛇に縛られたまま、後方のガラス壁に強く打ち付けられた。ガラスは大きな音を立てて砕け散り、その破片が光に乱反射して眩しく輝いた。


 そこでルシルは限界を迎え、膝をついた。意識が朦朧とし、まるで重力に引きずられるようにその場に倒れ込む。視界は霞み、世界がぼんやりと歪んで見えた。


「ルシル、大丈夫か!」


 頭上からアランの声が響く。その声は遠く、夢の中から聞こえるように感じられた。それに何とか答えようと口を開くが、言葉はうまく出ない。

 アランは急いで駆け寄り、ルシルを抱きかかえた。


「おい、ルシル。しっかりしろ。――ルーシー」


 アランの声がますます遠ざかる。


 ふと頬を撫でる懐かしい風の感触が一瞬蘇るが、それを確かめる間もなく、ルシルは完全に意識を手放した。


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