黒猫と魔女
遅めの朝食を終え、ルシルは自分の食器と父のカップを丁寧に洗い始めた。キッチンのシンクに立ち、慣れた手つきで泡立つ水の中で器を回転させる。
一方、マイケルはリビングのソファに移動し、古びたラジオのノブを回していた。その動作は慎重で、時折止まっては深く考え込むような様子を見せている。
そんな中、ルシルは不意に思い立ち、その背中に話しかけた。
「そういえばさあ。お母さんってどんな人だったの?」
今朝見た夢が心に残り、ふとした好奇心からその質問が口をついたのだ。
その声を聞いたマイケルは、ラジオのノブを回す手を止め、ゆっくりと振り返った。
「なんだって?」
「いや、お母さんってどんな人だったかなって」
「……どうしたんだよ、唐突に」
マイケルの表情には確かに動揺の色が見られる。
「最近、夜更かしをしているせいなのか、よくお母さんの夢を見るの。だからどんな人だったんだろうって思って。改めて聞いたことなかったから」
その言葉に父が一瞬顔をしかめたのが、ルシルには遠目からでも感じ取れた。
そうしてマイケルは数秒沈黙し、思索に耽るように、ルシルから視線を逸らした。
「……そうだったな。ルシルも、もう十四になるだもんな」
マイケルはまるで自分自身に言い聞かせるようにつぶやき、ラジオから手を離すと、テーブルの上の写真立てを手に取った。それはこの家にある母の唯一の写真だった。ルシルが夢の女性を母だと認識できたのも、この写真を見ていたからだった。その白黒写真には、木製の椅子に座り、優しく微笑む母。その表情は若々しく、見るたびに生きているのではないかと錯覚させる。
その後の沈黙は深く、部屋にはただ蛇口から流れる水の音だけが響いていた。そして、マイケルがようやく口を開く。
「とにかく強い人だったよ」
キッチンからは、その背中しか見えないため、その表情がどのようなものか、ルシルには見えなかった。それでもルシルは、その言葉の重みを感じながら、自分が知らない母親を想像していた。
「夕食後にでもゆっくり話を聞かせてやるさ。今日はこの後、図書館に行くんだろ」
マイケルは立ち上がる。その表情は予想よりも明るく、ルシルは安堵の息をついた。続いて疑問が湧いた。
――図書館、 なんだったか?
ルシルが考え込んでいると、マイケルがさらに付け加えた。
「昨日言ってただろ、午後から図書館に行くって。だから昼前に起こしたんじゃないか」
その言葉で、ルシルははっとした。完全に忘れていた。今日はサラと図書館で待ち合わせていたのだ。その目的は、先程の自由研究の飛行機に関する資料を集めること。
ルシルは急いで手元の洗い物を片付け、自分の部屋へと戻ると、すぐに準備を始めた。机の上に広がる資料を筆箱と一緒にカバンに入れ、適当な服装――白のブラウスと淡い茶色の柔らかいスカートをクローゼットから選んだ。そして、足元には頑丈な革製のシューズを選び、鏡の前でくるりと一周してみた。少し地味だが動きやすい格好だ。
そして急いで一階へ降り、父に出かける前に声をかけた。
「じゃあ行ってくるね」
「おう、気を付けてな」
裏口に向かうルシルに、マイケルが最後の確認をした。
「ペンダントはちゃんと持ってるか?」
「うん、大丈夫。行ってきます」
ルシルはそう答えながら裏口のドアに手をかけた。裏庭の空気は朝の静けさなどすっかり消え去り、まだ残る夏の暑さと昼時の活気を感じさせる。
そして、ルシルは裏庭から表通りに抜ける小道へと足を進める。その胸にはペンダントが緑色に光っていた。
◇◇◇
急いで出てきたものの約束の時間までは、まだ十分な余裕があった。そのため、ルシルがゆっくりとした足取りで町の中心地に向かって歩いていく。
ルシルの家は、町の中心から少し離れた高台に位置していた。この立地のため、一階にある父のパン屋は毎日大勢の客で賑わうわけではなかったが、その穏やかさがルシルにはなんだか心地よかった。その隠れ家のような雰囲気が、自分たちのパン屋の魅力なのだ、とルシルは密かに思っていた。
目的の図書館は、町の中心とルシルの家のちょうど中間地点に場所に位置しており、歩いてもたった数十分程度で到着する距離だ。ルシルは変わらずゆっくりと歩き、目の前に広がる自分が暮らす町の景色を眺める。
ルシルたちの暮らす町――アルフォードは、かつて貿易で栄えた港町だ。その歴史は今も町の至る所で感じられる。町の中央を流れる川には、小さな船が行き交い、石とレンガで建てられた家々、そして赤い屋根が特徴的な建物が、町の古さと美しさを際立たせていた。
ルシルは、学校のクラスメイトの一人がこの町の歴史について調べていたことを思い出すが、その子の名前は思い出せなかった。
彼女自身は、この街への強い愛着を感じているわけではなかった。気づいた時にはすでにこの街で暮らしており、母はすでにいなかった。その事情も相まって、彼女のこの街への感情を曖昧なものにしていた。
そんなことを考えながら歩いていると、町の中心地に近づいてきた。車の通りが増え、人々の声や店の賑わいがより一層生き生きとしていく。人々の声が交錯し、店からの誘いの声や子供たちの笑い声が耳に飛び込んでくる。
ゆっくりと歩いたつもりでいたが、やはり約束の時間まだには早かった。先に図書館に行って、参考になる本を探す選択もあったが、なぜだか今日はもう少し街を歩いてみたいと思った。
図書館は、古い町の一角にひっそりと佇んでいた。その石造りの外壁は時代を超えた風格を漂わせ、小さな窓からは暖かい光が漏れ出ている。ルシルは結局、その横を通り過ぎ、まだ街を歩き続けることを選んだ。
最終的に、ルシルが立ち止まったのは、アールフォードで最も大きな橋、フェール橋の中央だった。橋の縁に寄りかかり、ルシルは川の流れをじっと眺める。この川は、山から海へと続き、町の生活にとって欠かせない命脈となっている。
ルシルの視線は自然と海へと流れ、その先に広がる未知の世界へと思いを馳せた。
――飛行機や船で行ける遠い場所。そこにはどんな世界が広がっているのだろう。
ルシルは父の言葉を思い出していた。
――どうして空を飛びたいと思ったのだろうか。
それはきっと、この場所を離れ、誰も自分を知らない未知の地へ旅立ちたいという、誰しもが心の奥底に抱く願望から来るのかもしれない。
この日、ルシルの心はどこか落ち着かず、朝に見た夢の影響か、感傷的な気持ちに包まれていた。それでも、彼女の周りでは人々が行き交い、日常の喧騒は変わらず続いている。
ルシルはふと胸に下がるペンダントに目を落とした。太陽の光を受けて、ペンダントの石は緑や赤、青へと輝きを変えていた。その光り輝く石から、彼女は心の動揺を静めるような安らぎを見出すことができた。
『やっと見つけた』
突然、低く地を這うような声が、ルシルの耳に響いた。その声は周囲の騒音を貫いて、はっきりと背後からルシルに届いたのだ。
ルシルは首だけをゆっくり後ろへと向ける。すると、そこには一匹の黒猫が、歩道と車道の境界線上に腰を落とし、その上品な毛並みを光らせながら緑の瞳で彼女をじっと見つめていた。周囲を見回しても、他にルシルを見つめる者はいなかった。
――寝不足で疲れているんだ。
ルシルは大きくため息をつき、再び海の方へと向き直ろうとする。しかし、その瞬間に不可解な声が再び彼女の耳に届いた。
『少し一緒に来てもらうよ』
幻聴ではなかった。それは確かにルシルの耳へと響いてくる。
ルシルは再度、黒猫に視線を向ける。今度は、ただ首を向けるだけでなく、全身を黒猫へ向けた。
通り過ぎる人々は、一人と一匹の奇妙な対峙に気づかず、ただ自分の目的地に向かって歩いていた。
時間がどれほど経ったか分からない。ルシルはまだ自分が現実と夢の境界にいるような不思議な感覚に包まれていた。
しかし、黒猫が一歩踏み出すのを見て、ルシルは急いでもと来た方向へ引き返し始めた。
『え、ちょっと待っ――』
背後から戸惑いの声が聞こえた気がした。
――何なのあれ!
ルシルは頭の中は疑問を振り切り、必死で足を動かした。硬い地面の衝撃が足に響いてくる。どうすればいいのか、このまま逃げればいいのか、ルシルにはわからなかった。振り返るのも怖いが、このまま何も考えず走り続けるのも怖かった
意を決してルシルが振り返ろうと速度を落としたその時、突如として橋の向こうから海の強い風が吹き付けてきた。
やばい。そう思うと同時に、その突風はルシルをわずかに持ち上げ、一瞬で彼女の足の自由を奪った。ルシルはバランスを取ろうと必死になるものの、不意に地面の段差に足を取られ、思わず地面に倒れこんでしまう。
そこでやっと、ルシルは我に返る。そこは車道だった。そして目の前には、白い新型のフォード車の顔があった。
――ああ、ここで終わりなのか。
ただあきらめの声が自らの胸の内にこだました。
しかしその瞬間、後ろから再び声が聞こえた。
「
その声は、先ほど聞こえた低く不気味な声から、透き通るような高い声に変っていた。
ルシルが声の主を確かめる暇もなく、彼女の体は再び浮かび上がり、視界の全てが揺らぎ始めた。彼女は目を閉じ、その状況に身を任せるしかなかった。
「……危なかったわね」
やがて、静かな声がこちらに話しかけてきた。
目を開けたルシルの視界に映ったのは、黒い長髪を風になびかせた女性だった。逆光でその表情はよく見えない。ルシルはその女性に抱きかかえられていた。
――この人がさっきの黒猫?
「何が……どうなって……」
「あまり動かないでね」
女性が優しく窘める。
その時、風が優しくルシルの頬を撫でた。ルシルは不思議に思い、視線を周囲へと向ける。そこにはアールフォードの家々、その屋根が一面に広がっていた。
ここでルシルは、自分が彼女に支えられ、空の上にいることに気が付いた。彼女は箒に乗っていたのだ。
「えええぇぇぇー」
「――っ、ちょっと、暴れないでっ」
ルシルの不意の抵抗に、箒は傾き、高度を急速に下げ始めた。
「すこし落ち着きなさい!」
ルシルの心臓は一瞬にして喉元まで飛び上がった。
恐怖と驚愕が混ざり合う中で、箒は一直線に高度を落とし、川面ギリギリで持ち直した。しかし、いまだに制御しきれていないのか、速度を上げながら水面を這うように進んでいく。
そのまま箒はフェール橋のアーチをくぐり抜け、市街地へと曲がる。建物の屋根のすぐ上を滑るように飛び、狭い路地や古い建物の間を巧みに縫うように進んだ。ルシルの目には、歴史的な建物のファサード、色とりどりの看板、そしてアールフォードで暮らす人々の日常が、一瞬にして、それでいてスローモーションのように流れていった。
時折、女性から「このっ!」と必死に制御しようとするような声が聞こえたが、ルシルはただ彼女に捕まっていることしかできなかった。
しばらくの格闘の末、上下左右に激しく揺られながらも、箒は再び安定し、元の高さまで上昇した。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です……」
女性の問いかけに、ルシルは震える声で答えた。色々なことが起こりすぎて、ルシルは若干の放心状態にあった。
「とりあえず、落ち着ける場所に行きましょうか」
ルシルはただ黙ってうなずくことしかできない。
女性はそれを確認すると、箒を進ませる。それは先ほどの激しい動きとは違い、静かに空を滑るようなゆっくりとしたものだった。
ルシルとその女性が降り立ったのは、先ほどまでいた自分の家の裏庭だった。そして、そこには花に水をやっているマイケルの姿があった。娘の突然の出現に心配と驚きを隠せない様子がその顔から伝わってくる。
夕方営業の準備はどうしたのか。そんな場違いな疑問をルシルが思っていると、マイケルは急いで彼女に駆け寄り、腕を強くつかみながら問いかける。
「ルシル、どうかしたのか」
「いや、私にもよくわからなくて……」
その気迫にルシルが戸惑っていると、背後から女性が声をかけてくる。
「お久しぶりです。マイケルさん」
「……カーラ、か?」
マイケルは彼女を見ると、その目を大きく見開かせた。
「はい」
「……大きくなったな」
言葉の意味とは裏腹に、その声音には感情の混ざり合った硬さがあった。
ルシルもその時、初めて彼女の姿をしっかりと見ることができた。
腰にまで届きそうな黒髪、吸い込まれそうな黒い瞳。そして黒いローブで全身を覆い隠した姿は、まるで物語の中から飛び出してきた魔法使いのようだった。
「そうですね。八年ぶりですから」
マイケルは沈黙し、ただカーラを見つめるだけだった。
八年前というと母が亡くなった頃の話なのか。ルシルはもう一度、カーラを見てみる。その長身と異様な装いから気が付かなかったが、改めて良く見るとまだ若く、二十代前半くらいに見えた。
「……とりあえず中で話そう」
マイケルが重く口を開き、裏口からリビングへと入っていく。ルシルとカーラもそれに続いた。
リビングには、今朝と変わらず、ほのかにパンの香りが漂い、その香りがルシルに安心感を与えた。しかし、この日常的な空間にカーラの姿があることは、非現実的でありながらも、これが現実であることをはっきりと思わせるものだった。
「コーヒー、入れようか?」
ルシルが明るく申し出たが、その声はリビングの空間に静かに響き渡り、そして消えていった。
ルシルには、これからどのような会話が繰り広げられるか、その内容や長さを判断することができなかった。とりあえずカーラに何か飲み物を提供しようとキッチンに向かおうとしたが、マイケルの静止の声に動きを止める。
「……ルシルは二階にいなさい」
「わ、わかった」
マイケルの声音にはルシルに反論の隙を与えない威圧感があった。
ルシルは言われた通りにリビングを後にし、二階への階段へ向かう。
「先ほど……」
「……が……ことなのか」
その途中でルシルの耳には、下から聞こえてくるマイケルとカーラの会話の断片が飛び込んできたが、その会話の全貌を捉えることはできなかった。
その内容に興味はあった。先ほどの出来事やカーラの存在。聞きたいことは山積みだが、知りたいと同時に、恐怖心に似た感情に抱いていた。これを聞いてしまえば日常にもう戻れない。そんな感覚を抱かせるのだ。
ルシルは聞きたい誘惑を断ち切り、大人しく二階へ上がり、自室に戻った。
そして、部屋の扉を閉めると、そのままベッドに飛び込んだ。
重たい体が沈んでいく感覚が心地いい。考えないといけないことは山ほどある気がするのに、頭が働かない。このまま眠ってしまいたい。
「……もう、何がどうなっているの」
その言葉は部屋の静寂に溶け込んだ。そして、彼女はサラとの約束を破ってしまったことに思い至った。何かしら言い訳を考えなければならない。
「ああ、もう、めんどくさい!」
そう叫ぶとルシルは毛布にくるまり、目を閉じ、そのまま思考も閉じた。毛布が現実の重みと未知の世界への不安から切り離すように、体を優しく包み込んでくれるようだった。
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