行きたい場所
気づけば教室の生徒のほとんどが帰途につき、ルシルたちも教室を後にした。
アランとギルバートに軽く手を振って別れを告げ、ルシル、アンナ、ハナコの三人は、アンナが先ほど言いかけていた「行きたい場所」に向かって足を進めることにした。
アンナは楽しげな足取りで、サイドに編み込まれた髪をぴょんぴょんと跳ねさせながら先頭を進んでいく。ルシルとハナコはやや戸惑いながらも、彼女の後ろ姿に引き寄せられるようにして、黙ってその後を追った。
「――ねえ、アン。そろそろ行き先教えてよ」
階段を上りながら、ルシルは少し息を弾ませて尋ねた。すると、アンナは踊り場で立ち止まり、くるりとルシルたちへ振り返る。その顔には、秘密を抱えた子供のような、いたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
「『魔法生物部』の部室よ!」
「……『魔法生物部』?」
ルシルとハナコは顔を見合わせた。彼女たちの反応に、アンナは嬉しそうに笑みを深める。
「そう、『魔法生物部』! 前に話したことがあったでしょ?」
アンナの言葉に、ルシルは首を傾げた。そんなことがあっただろうか、と記憶を探っていると、ハナコが微笑みながら答える。
「そういえば、お話されていましたね。顧問の先生が少し変わっていらっしゃると」
「そうそう」
アンナは嬉しそうにうなずいた。
ルシルは記憶の片隅に、アンナとギルバートがそんな話をしていたことをぼんやりと思い出す。しかし、そのときはあまり関心を持っていなかったため、詳しい内容は曖昧なままだ。
「だから今日はその見学に行きたいの!」
アンナの声が一段と弾むが、ルシルは少し意外に思っていた。
この二週間、アンナはクラブ活動について一切触れていなかった。通常なら、この期間にほとんどの生徒が見学を済ませ、入部を決めるものだ。几帳面なアンナがそれをしていないとなると、クラブへの関心を失ったのではないかと思っていた。しかし、今の彼女の期待に満ちた足取りを見る限り、それは完全な勘違いだったようだ。
「そういうことなら先に言ってくれてもいいのに」
ルシルが軽く肩をすくめると、アンナは「ごめんね」と微笑みながら、小さく眉を下げた。
「別にいいけどさー」
「ありがと」
アンナはえへへと笑い、再び楽しそうに歩き出した。ルシルとハナコは顔を見合わせ、互いに小さく笑ってその後を追った。
実のところ、ルシルはあまりクラブ活動には興味がなかった。母のことや八年前の出来事について調べたいという思いがあったからだ。しかし、この二週間、図書館で何度調べても、その手がかりはほとんど得られず、焦燥感ばかりが募っていた。
――まあ、見学なんだし、気分転換だと思えばいいか。
自分に言い訳するように、ルシルは心の中でつぶやく。
――それに……。
ルシルは前を歩くアンナへと視線を向けた。
「二人とも早くー」
先の階段からアンナが楽しげに声をかけてくる。
その表情と態度を前に、ルシルには誘いを断る自信がなかった。
――でも、なんで『魔法生物部』なんだろう?
ルシルの胸に、ふと疑問が湧きあがった。彼女が図書館に通っていたこの二週間、校内ではさまざまなクラブが勧誘を兼ねたパフォーマンスを行っていた。『ブルームレース部』などは、校内を縦横無尽に飛び回り、何度も教師に注意される光景を目にしたものだ。しかし、『魔法生物部』が勧誘活動をしている姿は一度も見たことがなかった。事実、ルシルは『魔法生物部』についてほとんど何も知らなかった。
少し考えた後、ルシルはその疑問を胸の内にそっとしまい込んだ。楽しげに歩くアンナに、その疑問を口に出すのは少々野暮に思えたのだ。彼女はただ、前を歩くアンナの背中を見つめながら、黙って歩みを進め続けた。
◇◇◇
ルシルたちが目指していた部屋は、階段を上り切った先、廊下の最奥にひっそりと位置していた。廊下の窓は光をほとんど取り込まず、日差しはかすかに壁をかすめるだけで、薄暗い空間が静かに広がっている。高いアーチ状の天井には、長い年月をかけて張り巡らされた蜘蛛の巣が重なり合い、誰もが無意識に足を遠ざけてしまうかのような陰鬱さが漂っていた。
「ここ……ですね」
ハナコが確認するように、隣のルシルを見た。
アンナを先頭に、三人はその部屋の前に立っていた。扉には『魔法生物研究室』と刻まれたプレートが掲げられている。その下には、手作り感のある木製のプレートが無造作に掛けられており、かろうじて『魔法生物部』の文字が見えた。
「……そうみたい」
ルシルは何とか笑って見せる。三人はその不気味な静けさに一瞬言葉を失うが、やがてアンナが口を開いた。
「……じゃあ、行くよ」
その声には、期待と緊張が入り混じり、まるで自分自身を鼓舞するかのような響きがあった。ルシルとハナコは無言でうなずき、彼女の背中を見守る。
アンナは躊躇いながらも扉に手を伸ばし、そのノックの音が廊下に響き渡った。
「す、すみませーん」
その声もまた、薄暗い廊下に空しく響く。しかし、しばらくしても返事はない。再び、無言の静寂が三人を包み込む。
「……すみませーん。クラブの見学にしましたー」
ノックとともに、アンナは一段と声を大きくして再度呼びかけたが、やはり反応はなかった。三人は不安げに顔を見合わせる。
「誰もいないのでしょうか?」
ハナコが声を潜めて言った。
「……また今度にする?」
ルシルも声を潜めて言うと、二人の視線がアンナに注がれる。
アンナは考え込むように視線を宙に泳がせたが、すぐに意を決したように扉のノブに手を伸ばした。すると、ノブがガチャリと回る。
「……空いてる」
アンナが息を呑むのが、ルシルにもわかった。ドアがわずかに開き、室内から漏れ出すわずかな光が、三人の足元をぼんやりと照らし出す。
アンナはルシルたちを一瞥し、わずかに笑顔を浮かべると、次の瞬間には部屋へと一歩踏み出した。
「失礼しまーす。見学に来ましたー!」
彼女の声が、扉の軋む音と共に廊下の静寂を切り裂くように響き渡る。ルシルとハナコもその声に続いて、アンナの背中を追うように部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋の中は、廊下の薄暗さとは対照的に、思いのほか明るい空間が広がっていた。
ルシルは一瞬、視界が白み、思わず目を細める。そして、やがて目が慣れてくると、部屋全体の様子がゆっくりと浮かび上がってきた。
「うわぁ……」
誰からともなく感嘆の声が漏れた。高い天井の下、古びた木の香りが漂うその部屋は、窓から差し込む柔らかな夕日に包まれていた。
壁一面の本棚には、古い書物が所狭しと並び、その背表紙は年月を経て色褪せ、それがむしろ時間と知識の重みを感じさせた。ところどころに植物の蔓が絡みつき、まるで本棚自体が生きているかのようで、それらが部屋全体に独特の生命力を漂わせている。
「すごい……」
アンナはつぶやきながら歩みを進める。しかし、その足はすぐに止まった。研究の痕跡であろう無数の紙が、床一面に散らばっていたのだ。よく見ると、それらの紙には解読不能な文字や複雑な模様が走り書きされており、まだ乾ききっていないインクの香りがかすかに漂っている。
「うん……すごいね」
ルシルも同じように呟き、他の二人もその言葉に静かにうなずいた。
三人はその場で改めて部屋全体を探るように見渡す。その視線は自然と部屋の中央へと引き寄せられた。そこには、二つのソファが木製のローテーブルを挟んで向かい合うように配置されていたが、三人の目を引いたのは、その片側に毛布にくるまって眠る人影だった。
――部員だろうか?
ルシルがどうすべきか悩んでいると、アンナが床に散乱する紙を慎重に避けながら、その人物へと歩み寄っていた。
「ちょっと、アン!」
ルシルが小さく呼びかけるもアンナの歩みは止まらない。残された二人は急いでその後を追った。
毛布に顔を深く埋めたその人物は、短い金髪をわずかに覗かせ、穏やかな横顔の一部だけが見えていた。年齢は三十代後半くらいだろうか。男のまぶたの下には薄い影が落ち、表情には疲労の色が浮かんでいる。少し窮屈そうな姿勢ではあるが、どうやらうたた寝をしているようだ。ローテーブルの上には、使いかけの羽ペンとインク壺、開いたままの本、そして銀縁の丸メガネが無造作に置かれている。。
「噂の先生でしょうか……?」
ハナコがささやくように言うと、アンナは「そうかも」と静かにうなずく。そして、さらに顔を覗き込もうと一歩前へ踏み出した。だがその瞬間、突然グガッと鼻を鳴らす音がして、男の目がぱっと見開かれた。ルシルたちは驚き、反射的に一歩後ずさる。
その直後、背後から部屋の扉が軋む音がした。
「先生、起きてますかー?」
同時に、間延びした声で呼びかけながら、女子生徒が部屋に入ってきた。
その声に応じて、毛布の中の男がゆっくりと身を起こし、ぼんやりとした視線でルシルたち三人を見つめる。
女子生徒も彼女たちに気づき、部屋の中に視線が交わった。
「……どちら様?」
男と女子生徒の声がぴったりと重なり合い、部屋の温もりの中へと溶け込んでいった。
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