第一章 平穏な日常
夏の終わり
温室での出来事から二週間が過ぎた。夏の残り香は微かに漂うものの、秋の足音が確実に忍び寄り、空気は次第に冷たく澄んでいった。そんな季節の移ろいの中で、ルシルたちもようやく魔法学校での生活に慣れ始めていた。
「――では最後に、先日の小テストを返却します」
『薬草学』のデミアン・ハーバート教諭は、氷のように冷たい声で告げると、手元の杖を一振りした。その瞬間、ダークブラウンの髪が、波打つように微かに揺れ、教壇に積まれていたテスト用紙の束が一斉に宙を舞った。一枚一枚、風に運ばれる葉のように、生徒たちの前へと飛ばされる。
ルシルの目の前にも、テスト用紙が静かに舞い込んできた。彼女はその紙をそっと掴み、その内容に視線を走らせた瞬間、慌てて二つに折りたたむ。
「全体的によくできていましたが、中にはあまり出来が良くなかった生徒もいるようです」
ハーバートの視線が教室内を鋭く走り抜ける。右目に掛けられたモノクルが、一瞬、光を捉え、チェーンがその動きに合わせて顔の輪郭をなぞるように揺れた。その奥の青みがかった瞳は、見つめるだけで人の心の奥底まで見透かしてしまうかのようで、その視線が自身に向けられた瞬間、ルシルは反射的に目を逸らし、教科書の文字をじっと見つめた。
「――自覚のある者は、しっかり復習しておくように。では、今日はここまでにします」
そう言い残し、ハーバートは教室を後にした。心なしか扉を閉めるその音は、いつも以上に大きく響いたが、ルシルは気づかないふりをした。小さく息を吐き、再び手元のテスト用紙を見つめる。どこからどう見てもひどい点数だ。今度は大きくため息がこぼれる。
「……ルーシー、大丈夫?」
隣に座るアンナが、心配そうに顔をのぞかせた。奥の席で控えめに様子を伺っているハナコも、その顔に同じように心配の色を滲ませている。
「……全然だめ」
ルシルは観念して、二人にテスト用紙を見せた。アンナはそこに書かれた点数を見て息を呑み、ハナコは無理やり笑顔を浮かべたものの、その笑顔はどこかぎこちない。ふと、アンナの手元にあるテスト用紙が目に入る。そこにはほぼ満点の数字が書かれていた。
もう一度ため息がこぼれそうになると、今度は背後の席から声が聞こえた。
「うわ、ひっでえ」
その声にルシルが振り返ると、ギルバートが猫のように細めた目で、片頬を上げておかしそうに笑っていた。
「実技はともかく、勉強はからっきしみたいだな。ルシル」
「別にいいでしょ。――そういうギルバートはどうなの?」
悔しさから思わず口をついて出たが、言葉が口を離れた瞬間に、ルシルはすぐに後悔した。わざわざ自分からこんなことを言ってきているのだ。彼も自分の点数が聞かれることを想定しているに違いない。
――しまった。
それでも一度口にした言葉は取り消せない。気づいた時には、ギルバートは得意げに自分の用紙を見せていた。
「残念、俺の勝ちだな」
そこにはアンナほどではないにしろ、それなりに良い点数が書かれていた。それをひらひらと掲げるギルバートの笑顔は、勝ち誇った様子で、何とも憎たらしく映った。
ルシルは案の定という気持ちと、同類の仲間だと思っていた者の裏切りにがっかりする気持ちが胸の内に混ざり合う。
「まあ、まだ小テストだ。中間テストまでにしっかり復習しておけばいいさ」
ギルバートの隣に座るアランが、肩を落としたルシルに声をかけた。彼の顔には少々呆れたような表情が浮かんでいたが、その中にもどこか温かみが感じられる。
「そうだよ、ルーシー。これはまだ小テストなんだから。それに『薬草学』だったら、またあたしが教えてあげるしさ」
「……そうだね。ありがと」
ルシルは曖昧に笑ってみせたが、その笑顔はどこか力が入っていない。どうしても自分の力不足を痛感せずにはいられなかった。
アンナは故郷の『先生』に教えてもらっていたこともあり、『薬草学』に関しては、すでに一通りの知識があるようで、ルシルは小テストの前日もハナコとともに勉強を見てもらっていた。それにも関わらず、こんな点数しか取れなかったことに、申し訳ない気持ちになる。
どうにも薬草に関しては得意になれそうにない。薬草の絵を見ても、細かな違いがどうしても頭に入らなかった。まるで意図的に惑わされているかのように、小テストではよく似た薬草が出題され、ついには白黒の薬草の絵がただの模様に見えてしまう始末だ。
ルシルは、作問したハーバートの顔を脳裏に思い浮かべたが、その冷徹な瞳がこちらを覗く瞬間、頭を振り、想像を打ち切った。
そのとき、ハナコが両手を軽く叩く。
「では、これから図書館で復習するのはどうですか?」
その声音はいつも通り明るいものの、どこか気遣わしげな硬さが感じられた。ハナコの優しさがじんわりと伝わってくるが、それがかえって自分の不甲斐なさを一層強く感じさせた。ルシルは、わずかに視線を落とし、どう答えようかと迷う。
アンナはそんな二人の様子を見つめ、少し考えるようにうーんと唸った。
「それもいいけど、あたし、この後二人と行きたい場所が……」
アンナがそこまで言いかけたとき、「よお、ベイカー」と背後から声が響いてきた。低く抑えた声には、どこか挑発的な響きを帯びている。その声の主が誰なのか、ルシルはすぐに悟った。背中に近づく不穏な気配に、ルシルはゆっくりと振り返る。
「マギー……」
そこには予想通り、マーガレット・アンダーソンが立っていた。肩にかかる黒髪が微かに揺れ、三白眼気味の瞳が鋭く光っていた。
「なによ、マギー。またルーシーに絡む気?」
アンナが警戒心を露わにして、マーガレットに言葉を投げる。
しかし、マーガレットは特に気にも留めず、肩をすくめるだけだ。
「そんな邪険にするなよな。あたしは、ただベイカーに、調子はどうか聞きに来ただけなんだからな」
彼女こそ、エドガーとの試合前にルシルたちに話しかけてきた少女だった。試合後から度々ルシルに絡んでくるようになり、何かにつけてルシルと競う姿勢を見せていた。
どうやら自分の名前が好きではないらしく、「マーガレット」とも「アンダーソン」とも呼ばれるのを拒み、ルシルたちにも彼女から直々に「マギー」と呼ぶように言い渡されていた。
「それでだ。さっきの小テスト、どうだったんだよ?」
――やっぱりだ。
ルシルは中途半端にあしらっても意味がないことを、この二週間で痛感していた。仕方がないと、小さく息を吐き、テスト用紙をひらひらと振りかざして見せた。
「どうぞ。存分に見てよ」
マーガレットはその用紙をすかさず奪い取り、目を細めてじっくりと眺めた。その口元には、薄いが確かに満足げな笑みが浮かんでいた。
「あはは、ひっでえ」
マーガレットの無遠慮な態度は、いっそ清々しいほどで、むしろ気が楽になる。
「……マギー、笑ったら悪いよ」
ふと彼女を窘める声が聞こえた。ルシルがそちらに目を向けると、マーガレットの後ろからセシリア・スタンホープが顔をのぞかせていた。相変わらず、巻き毛気味の薄いブロンドの髪はふわふわと輝き、その触り心地がいかにも柔らかそうだった。長い前髪に隠れた瞳はくりくりと大きく、その愛らしい外見と小柄な体格が、彼女をいっそう幼く見せていた。
「だってよ、シス。見てみろよ。これはさすがにひどいだろ」
「……」
その大きな瞳が戸惑いに揺れるのが、微かに見えた。
マーガレットのどこか爽快ささえ感じさせる無遠慮さは、もはやルシルにとって気にならない。むしろセシリアのように、どう反応してよいかわからずに戸惑う姿の方が、何とも言えない感情を胸に抱かせる。
さすがに恥ずかしくなり、ルシルはマーガレットからテスト用紙を奪い返した。手元に戻った紙には、依然として容赦のない点数が記されており、ルシルはもう一度丁寧にそれを二つ折りにする。
「もういいでしょ。それよりマギーの方はどうだったの?」
言葉が口をついて出た瞬間、ルシルは自分が数分前に犯したのと同じ過ちを繰り返していることに気がついた。
――またやってしまった。
ルシルは思わず目を伏せ、そしてもう一度マーガレットに視線を寄せた。案の定、彼女は待っていましたと言わんばかりに、鞄から自分のテスト用紙を取り出し、得意げにルシルに見せつけていた。
やれやれという気持ちと、この展開を予測できなかった自分の想像力のなさに、ルシルは再びため息が出そうになる。そして、その息をすぐに呑みこんだ。目の前に示された点数は、なんと満点だった。アンナがわずかに減点されたと思われる記述問題ですら、マーガレットは完璧に正解していた。
その数字を目にしたルシルは、悔しさを感じるどころか、ただその出来栄えに感心せざるを得なかった。
「これじゃあ、勝負にならないな」
「……最初から勝負してないんだけどな」
ルシルは弱々しく反論したが、その言葉には力がなかった。マーガレットはそれを聞いて、さらに笑みを深める。
「中間試験までには、もう少しはましな点数取れるようにしておけよな」
マーガレットは最後のひと言を投げかけると、満足げな表情を浮かべながら、ルシルたちの机を離れていった。セシリアも、その後をちょこちょこと追い、二人は教室の扉を静かに閉めて出て行った。
マーガレットが去った後、教室には一瞬だけ静寂が戻る。嵐のような人だ、とルシルは胸の中でそっと息を吐いた。
「……女の戦いってのは、こええもんだな」
すると背後から聞こえたギルバートの声が、教室の静けさを破る。それに続いて、アランが無言で頷いたのが、背中越しに感じ取れた。
ルシルはゆっくりと振り返り、二人を睨みつける。二人は、何事もなかったかのように視線を逸らし、素知らぬふりを決め込んでいた。
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