第四章 逃げられない競争
試合当日の朝①
目を開けると、流石にもう見慣れた天井がぼんやりと浮かんでいた。ここはルシルたちの寮室。部屋全体はまだ薄暗く、外の陽が完全に昇りきっていないことを物語っていた。
ルシルはゆっくりと体を起こし、窓の外の様子を確かめようと振り向くと、机で眠るアンナの姿が目に入った。窓から差し込む微かな光がアンナの髪に当たり、その鮮やかな赤色が薄暗い部屋の中で一際目立たせている。
ルシルは、アンナの「どこにいても見つけられる」という言葉を思い出し、そっと笑みを浮かべる。ベッドから立ち上がり、アンナの肩からずれ落ちそうなブランケットを直してあげると、机の上には広げられた本とノートが無造作に置かれていた。自分が眠った後も勉強を続けていた彼女に、ルシルは心から感心すると同時に、ずっと練習に付き合ってもらっていたことに、少し申し訳ない気持ちが胸に広がる。
昨日は結局、陽が落ちるまで練習を続けた。その甲斐あって、《
しかし、昨日のうちにできたのはそこまでだった。作戦を話し合う時間を取れなかったことをアランは悔やんでいたが、食堂の閉鎖時間もあり解散となった次第だ。ルシルも疲れ切っていたため、寮室に戻るとすぐに眠りについてしまった。
窓から見える景色はまだ薄暗く、霧が薄く漂い、夜の余韻を感じさせている。目覚めの時間にはまだ早い。だが、ベッドに戻っても眠れそうにはなかった。今日は試合当日――そう意識すると、ますます目が冴えてきた。
ルシルはぼんやりと窓を眺めながら、昨日の練習を思い返す。あの感触、あの瞬間、魔法が自分の手で制御できた喜び。そして、アンナ、ハナコの励ましの言葉が今も耳に残る。
ふと霧の先、視界の端に白く光るものが見えた。少し目を凝らしてみると、その正体はすぐに判明した。庭園にある温室だ。半透明なガラスが、昇りかけの陽に照らされて白く輝いている。
「――よしっ」
食堂が開くまでには、まだ時間がある。
ルシルは自分のブランケットを手に取り、それを肩に羽織ると、寮室のドアノブに手をかけた。気分転換も兼ねて、外の新鮮な空気を吸いに行こう。その行き先は、あの庭園だ。
外に出ると、朝の冷たい空気が肌に触れた。ブランケットを羽織っていても、なお感じるこの肌寒さは、むしろ心地よい刺激となり、ルシルの覚めかけていた頭を完全に覚醒させてくれた。
庭園までの道では、夜露に濡れた草木がきらきらと光り、鳥たちのさえずりがどこからか聞こえてくる。何度も歩いた道だが、いつもの喧騒と活気とは異なる静寂に、ルシルはまるで別世界に迷い込んだような感覚を覚える。時間もゆっくりと流れ、世界が静かに息をしているようだった。
その道を今日は倍以上の時間をかけて歩いていると、目的の庭園がようやく見えてきた。庭園は道中のどこよりも霧が濃く立ち込め、太陽の光に照らされてきらきらと輝いている。いつもの丹念に整えられた美しさとは異なる、幻想的な美しさが漂っていた。
シルは庭園の入口の前で立ち止まり、霧に包まれた幻想的な景色に見惚れた。
「――綺麗……」
思わずつぶやいたその瞬間、霧の中から人影が一つ、こちらに向かって近づいてくるのが見えた。例の恥ずかしがり屋の管理人だろうかと身構えたが、よく見るとその人影は管理人ではなかった。
霧の中から現れたのは、見覚えのある亜麻色の髪を揺らして歩く少女だった。彼女の髪は普段のようにきちんとまとめられておらず、自然な流れに任せて下ろされていた。朝の光に照らされたその髪は、まるで金色の霧の中で輝くように見える。
ルシルと同じくブランケットを肩に羽織り、どこかぼんやりとした足取りで歩いてくる彼女は、まるで夢の中から抜け出してきたような雰囲気を漂わせている。
「……エレナ?」
ルシルの声に気付いたエレノアは、立ち止まり、驚いた表情で目を大きく見開いた。今まさに夢から覚めたかのようなその姿に、ルシルは微笑みながら声をかける。
「おはよう、エレナ。朝、早いんだね」
ルシルが歩み寄ると、エレノアは心底驚いた様子で「ええ……」という言葉をこぼした。
「一人だと思っていたから、エレナがいて驚いたよ」
「……それはお互い様ね。私の方こそ心臓が止まるかと思ったわ」
「あはは、それはごめんね」
エレノアは驚きから解放されたようで、ようやく表情を崩し、ルシルも自然に頬が緩むのを感じた。
「エレナはよくここに来るの?」
「ええ、それなりに。今日みたいに早く目が覚めたとき、不意に時間ができたときには、つい来てしまうわ」
「そうなんだ」
エレノアは庭園の風景に目をやる。ルシルもそれに合わせるように視線を移した。
「あなたと……初めて会ったときもこの場所だったでしょう?」
「そういえばそうだったね」
ルシルはエレノアとの初めて出会った、つい数日前のことを思い出す。そのときも、今のように柔らかい、優しげな表情を浮かべていた。エドガーとの一件で見せた、あの冷たい表情が今では噓のように感じる。
「エレナは花が好きなの?」
「……そうね。花もそうだけど、この庭園の雰囲気が好きなんだと思うわ」
エレノアは仄かに笑って見せる。その瞳には優しい光が宿っていた。
――あの時と今、どちらが本当のエレナなのだろう。
ルシルはそんな疑問を抱えながらも、目の前にいるエレノアの笑顔は嘘でない気がした。
「――時間があるなら、少し話さない?」
エレノアの提案に、ルシルは一瞬驚いたものの、すぐに頷いて応えた。
「うん、いいよ。私、ちょうどいい場所を知ってるから、そこで話そうよ」
そう言うとルシルはエレノアの手を取り、「こっちだよ」と先導する。
庭園は霧のせいか、土と草花の香りがいつも以上に立ち上り、奥へ進むにつれてその香りはさらに強くなっていった。
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