封された過去

 ルシルが次に目を開いたとき、部屋は薄暗がりに包まれていた。

 どれくらい眠っていたのだろうか。部屋に差し込む光はだいぶ弱くなっているが、窓に目を向けると外はまだ日没前のようだ。リビングからの呼び声がないことから、二人の話はまだ続いているのかもしれない。乱れた髪を手で整えながら、ルシルは少し躊躇いつつも、リビングへと足を進めた。


 しかし、リビングに降りてみると、そこにカーラの姿はなく、マイケルだけが残されていた。午後営業について考える余裕もないかのように、椅子に深く腰掛け、思索に耽っていた。机の上には、二人が使用したと思しきカップが置かれている。


「お父さん、カーラさんは?」


 マイケルはゆっくりと顔をルシルに向ける。表情は朗らかだったが、疲れの色が隠しきれていない。


「あぁ、ルシルか。降りてきたんだな」

「……お店どうするの?」


 ルシルが心配そうに問うと、マイケルは小さくため息をついた。


「あぁ、店か。今日は……まあ、いいだろ」


 その声の疲れに、ルシルは何も言えなかった。父を気にしながらも、ルシルは空のカップをキッチンに運んでおく。


「それで、カーラさんとの話はどうなったの?」


 ルシルが遠慮がちに尋ねると、マイケルは黙り込んだ。緊張が部屋に充満し、沈黙が続いた。これで今日は何度目の沈黙なのだろう。ルシルは心の内で苦笑した。


「ねえ、聞こえて――」

「昼に話したことを覚えているか?」


 ルシルが言い終わらないうちにマイケルが言葉を投げかける。

 昼というのは、あの遅すぎる朝食のことだろうか。その時の話と言えば――。


「自由研究の話?」


 ルシルの答えに、マイケルは一瞬困惑したような表情を見せたが、すぐに笑顔をこぼす。


「まぁ、それもある意味では関連しているかもな」


 そこで言葉を切ると、一呼吸置いて静かに付け加えた。


「――母さんのことだ。今晩、聞かせてやるって言っただろ」




 ルシルは対面の、先ほどまでカーラがいたはずの椅子に促されるまま腰を下ろす。


「どこから話せばいいんだか……」


 マイケルは煩わしそうに頭を掻きながら、懐から一枚の茶色の封筒を取り出した。その封筒は中心に赤い封蝋が押され、紋章が刻まれている。雨にでも濡れたのか、紙の表面は所々ボロボロになっている。


「これを渡しておく」


 マイケルはその封筒をテーブルに置き、ルシルに向けて差し出した。


「えーと、これ、何?」

「……学校の入学状だ。カーラはこれを届けに来たんだ」

「入学状?」


 状況が読み込めず、ルシルは繰り返すように質問する。戸惑いを表情で表しているつもりでいたが、目の前の父は気にする様子はなかった。


「ああ、俺とアマンダ――お前の母さんが学生時代を過ごした学校からのものだ」


 その言葉に、ルシルの心は一瞬で引き締まった。――お母さんが過ごした学校。

 ルシルは机に差し出された封筒を慎重に手に取る。


『ローワンベリー魔法学校   ルシル・ベイカー様宛』

 

 その文字は、ボロボロになった封筒の表面に、黒いインクではっきりと記されていた。


「魔法……学校?」

「そうだ。文字通り、魔法を学ぶための学校。——お前は魔法使いの子だ」


 マイケルは強くうなずくと、改めてルシルを見つめる。その真剣な目は、これがなにかの冗談ではないことを存分に物語っていた。

 ルシルは驚きよりも、どこか冷静さを保ちながらマイケルの言葉を受け入れた。カーラの姿を事前に見ていたことが影響しているのかもしれないが、それ以上に、この一日で起こった数多くの出来事で、自分の脳がもはや新たな情報に驚く余裕さえなくなっているからだろう。

 人は予想外の出来事が連続すると、いつしかその理解を諦めてしまうものなのか。ルシルはこの日一日で、その事実を深く実感した。普段なら驚きから声を上げるようなことも、今日に限っては、その気すら湧いてこなかった。


「……魔法使いの子ってことは、お父さんも魔法使いなの?」

「そうだ」


 マイケルはそう答えるが、その姿はどう見ても、ごく普通のどこにでもいるような中年のおじさんだった。そんなルシルの疑問など気にすることなく、マイケルは話を続ける。


「アマンダとは、その魔法学校で出会ったんだ」


 その目は懐かしい記憶に浸っているかのように優しく、遠い過去へと向けられていた。


「彼女は学校の人気者でな。俺なんかとは比べものにならないほど優秀だった。立場も、クラスも、色々なことが何もかも違った。それでも彼女は俺を選んだ」


 ルシルは父の話に黙って耳を傾ける。


「俺たちは魔法学校を卒業し、その後すぐに結婚した。その後、しばらくしてお前が生まれた」


 マイケルは話を続ける。その目は再び遠くを見つめ、「本当に幸せだった」と、まるでその時の思い出を再び味わうかのようにつぶやく。


「……じゃあ、お母さんはどうしたの?」


 ルシルは待ちきれずに尋ねてしまう。するとマイケルの表情に、一瞬にして暗い影が差す。


「八年前、お前が六歳の時だ。魔法使いたちの間で、ちょっとした諍いが起こった。……いや、ちょっとしたものじゃなかったな。それは島全体を巻き込むような争いに発展しかねない大きな問題だった。そして、アマンダはその解決に尽力する立場にあったんだ」


 マイケルはそこで言葉を一度区切ると、訂正するように首を横に振った。


 ――島? 争い? 


 疑問は次々と溢れてくるが、ルシルはそれをぐっと堪え、父の言葉を待つ。


「俺たちは、お前がその争いに巻き込まれることがないように、お前が大きくなるまで、――お前が魔法を学ぶのに十分な年になって、自分の将来を自分で考えることができるようになるまで、お前を魔法から、あの島から離れさせることにしたんだ。……当時の俺たちには、お前をあの島で守るだけの余裕がなかったんだ」


 解答を避けるようなマイケルの遠回しな言葉に、ルシルは少し苛立ちを覚える。


「それで結局、どうなったの? お母さんは?」

「……幸いにも争いは収束したが、それと同時にアマンダの行方は分からなくなったそうだ」


 マイケルの声は痛みを帯びていた。語る言葉から苦悩がひしひしと伝わってくる。

 そんな父の様子に、ルシルは「そう、なんだ」と返すことしかできなかった。


「……まあ、これが俺たちの現状だ」


 マイケルは言い切ると、ルシルに優し気な表情を向ける。しかし、ルシルは父のそんな表情に、真っ向から向き合うことができなかった。 


「……私、魔法使いになるの?」

「それは……お前が決めればいい。仮にならなくったって、俺がお前を守ってやる」

「でも、カーラさんはこの入学状をわざわざ……」


 ルシルが言いかけると、マイケルは再び笑顔を見せた。


「昼にも言っただろ。お前の人生なんだ。お前の好きな道に進めばいい。だが、どんな道を選ぶにしても、それは自分で決めていくものだ」


 再び、温かな言葉を投げかけられる。その父の気遣いに、その優しさに、ルシルは涙が出そうになる。しかし、やはり答えに迷ってしまう。


 ――魔法使い。魔法学校。 


 現実離れした話に、ルシルはまだ心の準備ができていなかった。いろいろと考えを整理する時間が欲しかった。


「……それって、いつまでに決めればいいの?」


 ルシルがやっとの思いで尋ねると、マイケルは一瞬、身体を強張らせた。外敵から身を守るように腕を組み、深く椅子にもたれかかると、何やら神妙な表情を浮かべる。そんな父の様子に、ルシルも思わず息をのむ。

 そして少し沈黙の後、マイケルはようやく口を開いた。


「あ……ただ」


 口の中をもごもごさせて話すその言葉を、ルシルは聞き取ることができなかった。


「……え? なんて?」

「明……」

「え?」


 ルシルがもう一度聞き返すと、マイケルは開き直ったように声を上げる。


「明日だ! 明日の昼過ぎに、カーラがお前を迎えに来る」


 一瞬の静寂が二人の間に漂う。しかし、すぐにルシルは驚きから声を上げた。


「えええぇぇぇー」


 叫ぶ元気など湧いてこないと思っていたが、それは気のせいだった。


「明日って、急すぎじゃない!」


 人生の重要な決断に与えられた猶予が一日もないのか。

 ルシルは、不満と困惑からマイケルを見つめる。

 しかし、マイケルの目は硬く閉じられ、ルシルと視線を交わすことを拒絶していた。その口元は気まずさからか微かに歪み、顔は明後日の方向へと向けられていた。その様子は、ルシルからの追及を完全に拒否する構えだった。

 そんな父の姿は、先ほどまで感じていた威厳や信頼感のようなものは一切霧散し、今は悪戯がばれた大型犬のように、どこかぎこちなさを漂わせていた。

 ルシルは、それ以上追及する気を失くしてしまった。


「……もう、わかったよ」


 何もわかっていなかったが、自分がそう言わなければ話が進まないのだろう。ルシルはわざとらしく大袈裟にため息をついた。

 現金なことに、その言葉でマイケルはやっと目線をルシルと交わす。


「今晩、もう一度考えてみるよ。でもその前に、母さんの話をもっと聞かせてほしいな」

「あ……ああ、そうだな。そうだよな。母さんの話の方が気になるよな」


 マイケルは、ほっとしたように顔の強張りを解いた。


「だが、続きは夕食の時にしよう。吐き出すものを吐き出したら、少し腹がすいてきた」


 そう言い残すと、マイケルは立ち上がり、夕食の準備のためにキッチンに向かう。ルシルは慌ただしい父の様子に、もう一度、今度は小さくため息をつく。


「私も手伝うよ」


 そして、ルシルも立ち上がり、父の背中を追った。

 不意に窓の外に視線を泳がす。太陽は完全に落ち切り、すっかり夜の景色となっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る