誰かの故郷
町を抜けて歩き続けると、すでに刈り取られた荒涼とした麦畑が広がり、乾いた風が吹き抜けていった。
時間を聞いたときには途方に暮れるような気持ちになったが、三人で会話しながら歩いていると、思ったよりも疲れは感じない。とはいえ、道には目印らしいものはなく、ただひたすら足を進めるのは心細い。次第に日が傾き始めると、自然と三人の口数も少なくなっていった。
「もう少しだから、二人とも頑張って」
アンナが励ましの声をかけたが、彼女自身にも疲れが見え始めている。すると、前方からゆっくりと荷馬車が近づいてくるのが見えた。三人は道端に寄ろうとしたが、荷馬車から響く声が彼女たちを呼び止める。
「おーい!」
耳を澄ますと、さらに続く声が聞こえた。
「おーい、アンナー!」
よく目を凝らすと、遠くから響く低い声とともに、荷馬車の上で誰かが大きく手を振っていた。ぼんやりと揺れる影は、まだはっきりとは見えないが、アンナはすぐにその声に反応し、笑顔を浮かべて手を振り返す。
そして、「お父さん!」と声を上げた。
荷馬車は三人の前でゆっくりと止まった。それは農作物を運ぶための、どこにでもあるような木製の荷車だったが、車輪が少しきしみ、長年の使用による古びた風合いが伝わってくる。荷台には無造作に積まれた麻袋が見えていた。
アンナはすぐに荷馬車へ駆け寄り、小さなロバの頭を嬉しそうに撫でると、荷台に乗る父親に声をかけた。
「お父さん、どうしてこんなところにいるの?」
彼女の問いに、アンナの父は少し呆れたような表情を浮かべつつ、どこか愛おしそうに娘を見つめていた。
「どうしてって……迎えに来たんだよ。遅くなると心配だからな」
彼はそう言いながら、ルシルとハナコにも目を向け、にっこりと笑みを浮かべた。日に焼けた健康的な肌に、アンナとお揃いの麦わら帽子がよく似合っている。その柔らかな笑顔には、温かい歓迎の気持ちが滲んでいた。
「君たちがルシルさんとハナコさんだね。手紙で話を聞いていたよ。遠いところをよく来てくれた。疲れただろう?」
その声に二人は顔を見合わせ、ほっとしたように笑みを交わした。
「いえ、道中も楽しかったです」
彼女たちがそう答えると、彼は麦わら帽子を手で軽く抑えながら、「そうか」と軽く笑い声を上げた。
「じゃあ、三人とも乗っておくれ。ここからはまだ少しあるからな」
「はい!」
三人は感謝の言葉を口にしながら、荷馬車に乗り込んだ。すると古びた木製の荷車は、ぎしぎしと音を立てながら動き始め、のんびりと道を進んでいく。荷台の揺れが全身に伝わり、微かな振動が骨の奥深くまで響いた。時折、荷車が軽く跳ね、三人は互いにバランスを取りながら、その揺れに身を委ねた。
風が顔を撫で、空気は次第に新鮮さを増していくようだった。遠くに見えていたノルヴァン山脈が徐々に近づいていく。ルシルは車輪の回転音に耳を傾けながら、景色がゆっくりと流れゆくのをただ眺めていた。
しばらくの間、言葉もなく道を進んでいたが、アンナの父が唐突に声を上げた。
「ほら、見えてきたよ」
その声に促され、ルシルは遠くの景色に目を凝らした。すると、丘を越えた先に、小さな村が姿を現していた。赤い屋根の家々が点在し、細い煙がいくつかの煙突から空へと昇っていく。中央には集会所らしき建物、その隣には古びた鐘楼がかすかに見えた。
「あれが、スウェール村だよ」
アンナは誇らしげに、しかし控えめに小さな声でそう告げる。その顔には嬉しそうな笑みが浮かんでおり、ルシルも自然と微笑みを返した。
荷馬車はさらに村へと近づき、家々の輪郭がくっきりと浮かび上がってくる。こぢんまりとした家がいくつも並び、家々の脇には小さな菜園や馬小屋が見えた。村全体に素朴な生活の気配が感じられる。
だが、いざ村に足を踏み入れた途端、ルシルはその雰囲気に違和感を覚えた。
窓は閉ざされ、家の扉も固く閉まっている。人々の姿はほとんど見えず、聞こえるのは風の音と、遠くでこだまする鐘楼のかすかな音だけだった。遠くから誰かがこちらを窺っているような気配はするものの、表に出てくる人は誰もいない。まるで陰に息を潜めているようだった。
――よそ者を警戒している……?
ルシルは無言のまま、そんな感覚を胸に抱く。アンナが話していた穏やかな村のイメージとは違い、どこか冷たく、よそよそしい空気が漂っている。無意識に背筋を伸ばし、ルシルは視線をさまよわせた。
「このまま通り過ぎるよ。我が家はもっと先なんだ」
ふとアンナの父親の声が、その不安をかき消すように響いた。その言葉には、何事もないかのような落ち着きが漂っていたが、ルシルの胸の疑念は消えなかった。それでも彼女は言葉を飲み込み、黙って荷馬車に揺られ続ける。
やがて村の中心を抜け、さらに周囲の風景が変わり始める。木々が生い茂り、ノルヴァン山脈がますます迫力を増し、まるで目の前に迫ってくるようだった。家々も次第に少なくなり、麓の森が目立ち始めた頃、アンナが突然、指を差しながら声を弾ませた。
「あそこだよ!」
彼女が指さす先――ほとんど森林との際に、石造りの家が見えた。
「素敵……」
ルシルは思わずそう呟いた。
その建物はL字型に広がり、庭には色とりどりの花々が咲き誇っている。赤茶色の屋根は、夕焼けに映えて鮮やかに輝き、白い壁にはツタが絡まっていた。窓からは温かな灯りがこぼれ、まるで絵画の一部のような、暖かみと魅力に溢れた家だった。
「ここが私の家、ミード家のお屋敷だよ」
アンナは冗談めかして言ったが、その表情には、やはり少し誇らしげな色が浮かんでいた。そして荷馬車が完全に止まる前に、彼女は軽やかに荷台から飛び降りる。ルシルとハナコも、それに続いて荷台を降りた。
「さあ、中に入って。僕は荷馬車を置いてくるから。母さんも待ってるぞ」
アンナの父が促すと、三人はゆっくりと家の方へ向かって歩き出した。
家の扉を開けた瞬間、ルシルの鼻をくすぐったのは、懐かしさを感じさせる温かい夕食の香りだった。思わず肩の力が抜け、彼女はほっと息をつく。外で感じた涼しさが、家の中のぬくもりによってすぐに和らいでいく。
「いらっしゃい!」
その瞬間、奥から弾むような声が響き渡り、明るい笑顔を浮かべた女性が現れた。ルシルには、一目で彼女がアンナの母親だとわかった。その笑顔は親しみ深く、どこかアンナに似ている。
「お邪魔します。えっと、私は――」
ルシルが慌てて挨拶をしようと口を開くも、その声は軽く手を振られて遮られた。
「いいのよ、いいのよ! 挨拶なんて堅苦しいことは抜きにしてね」
そう言うと、彼女は一歩ルシルに近づき、肩に優しく手を置く。
「あなたがルシルさんでしょ? アンナから色々聞いてるわ。魔法が得意なんですってね! 試合で活躍したんでしょ? それに機転もきくって。ええ、ええ、そういうのは本当に大事。どんな世界でも、機転がきく人が一番よ。どんな才能を持っていても――」
「えっと……」
ルシルが戸惑って言葉を探すも、彼女は勢いよく話を続ける。言葉が絶え間なく押し寄せ、ルシルが割り込む余地はなかった。そしてその勢いは、すぐに隣のハナコにも向けられる。
「まあまあ、あなたがハナコさんね? 聞いていた通りの美人さんねぇ。黒髪がとても綺麗だわ。アサカ出身って聞いたけど、どんなところかしら? いつか行ってみたいわ。本島とは違うんでしょ? うんうん、本島だって自治区によっていろいろ違うものね。やっぱり――」
「あ、あの……」
ハナコが困惑した様子で何とか返事をしようとしたが、その間も母親の言葉は止まらない。その様子に、とうとう耐えかねたのか、アンナが顔を赤らめ、小さな声で母親を制止した。
「もう、お母さん、恥ずかしいからやめてよ」
そんな娘の控えめな抗議にも、母親は楽しそうに笑い、軽く手をひらひらと振った。
「ごめんなさいね、ついお喋りが過ぎちゃって。――遠いところをよく来てくれたわ。疲れたでしょう? 顔に出てるもの。私、そういうのに敏感なのよ。アンナが小さい頃なんか、しょっちゅう――」
「もう、お母さん!」
アンナはさらに顔を赤らめ、大きな声を上げたが、その表情はどこか嬉しそうでもあった。
ルシルは、その微笑ましいやり取りを眺めながら、自然と自分も微笑んでいることに気づいた。表情や仕草など、やはり親子は似るものだと、なぜだか心地よい思いが胸に広がる。
その時、背後から穏やかな声がかかった。
「ヘレン、少し落ち付いたらどうだい。とりあえず座らせてあげな」
振り返ると、荷車を置いて戻ってきたアンナの父が、呆れたような笑みを浮かべながら立っていた。彼のその言葉に、彼女は「あら、そうね」と軽くうなずいたものの、まだ話し足りなさそうな表情だった。それでもすぐに気を取り直し、再び笑みを浮かべた。
「さあさあ、夕食の準備は整ってるわ。さっそく座ってちょうだい。――お話は後でもゆっくりできるものね」
彼女の明るい笑顔に導かれ、ルシルたちは互いに軽く目配せをしながら、食卓へと歩みを進めた。
夕食の席は、まさに賑やかで心温まる時間だった。アンナの両親――トーマスとヘレナは、ルシルたちをまるで家族の一員のように迎え入れ、絶え間なく笑い声と温かな会話が飛び交っていた。また、料理はどれも心のこもったもので、焼きたてのパンに、香ばしいローストチキン、そしてたっぷりの野菜が入ったスープが食卓を彩っていた。
ルシルは、一口ごとにその料理から、この家族の温もりや優しさが伝わってくるように感じた。特に最後に登場したアンナの大好物であるアップルパイは、その香りだけで彼女の心を和ませた。食卓を囲むひとときには、本当に時間を忘れてしまうほどの心地よさがあった。
そして夕食が終わると、ルシルとハナコは広々とした客室に案内された。そこには二つのベッドが整えられており、シンプルだが心地よさを感じさせる。窓の外には穏やかな夜の風景が広がり、夜風がカーテンを優しく揺らしていた。
しばらくすると、アンナが自分の部屋から抜け出し、三人はベッドに腰掛けながら、いつものように他愛のない話を始めた。学校の授業のことや、日常の些細な出来事、そしてこれからの休暇の過ごし方について話し合ううちに、少しずつ笑い声も途切れ始める。
「そろそろ寝ようか」
アンナのその一言で、三人は明日のために休むことに決めた。
ルシルはベッドに身を沈め、ふかふかの枕に顔を埋めながら、目を閉じる。心地よい眠気が徐々に体全体を覆い、静かな眠りに落ちようとしていた。
しかし、ふと、彼女の頭に小さな疑問が浮かぶ。
――そういえば、二人とも赤髪じゃなかったな。
アンナは鮮やかな赤髪だが、彼女の両親はそのどちらでもない。トーマスとヘレナの髪はそれぞれ落ち着いた色合いで、決して赤髪ではなかった。
眠りに落ちる前の朦朧とした意識の中で、その違和感が心に引っかかったが、すぐにその考えも深い眠りの中へと溶けて消えていった。
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