森の魔女①

 翌朝、ルシルはゆっくりとまぶたを開いた。ふわりと夢の記憶が頭をよぎるが、すぐにそれは消えていく。良い夢だったのか、悪い夢だったのか、それすらはっきりしない。ただ、不思議と気分は悪くなく、どこか心地よさが体に残っていた。


 彼女はまだぼんやりとした意識のまま、天井を見つめる。すると、カーテンの隙間から差し込む光が、静かに部屋を照らしていることに気づいた。


 ルシルはゆっくりと身体を起こし、カーテンを少しだけ開けて、窓の外に目をやる。すでに太陽は空高く昇り、朝の時間はとうに過ぎていた。


「ん……」


 隣のベッドで寝ていたハナコのうなり声が聞こえた。そして、ルシルの動きに気づいてか、彼女は眠たげに目をこすりながら起き上がった。


「ハナ、おはよ」

「……おはようございます」


 ふたりの間に短い挨拶が交わされたが、すぐに部屋には静けさが戻った。朝の空気を共有しながら、言葉のない時間が流れる。しかし、このままゆったりしているわけにはいかない。やがて意識がはっきりとし始め、二人はそれぞれのリズムで朝の準備を進めていった。


 ルシルたちがダイニングに下りると、トーマスはもうすでに農作業に出かけており、家の中は静かだった。だが、ヘレンは二人を待っていたかのように、遅めの朝食を用意してくれていた。昨晩の残りか、温かいスープの香りが広がり、パンが焼けた匂いがルシルの鼻をくすぐる。彼女たちは静かに朝食をとりながら、これから始まる一日を思い浮かべていた。


 今日は、アンナが以前から話していた《先生》の元へ向かう日だった。ルシルにとってはどんな人物なのか想像がつかないが、アンナがあれほど信頼を寄せる人だというだけで、期待と緊張が膨らんでいく。


 そして朝食が終わりかけた頃、奥の方からアンナの明るい声が二人を呼んだ。


「二人とも、準備できた?」


 その声に、ルシルとハナコは顔を見合わせ、静かにうなずいた。そして、傍らに置いていた荷物を肩にかけると、最後のパンを口に運び、ヘレンに感謝の言葉を残して家を出た。


 外に一歩足を踏み出すと、ひんやりとした秋の風が頬に触れ、遠くにはノルヴァン山脈の鋭い稜線が青空にくっきりと浮かび上がっている。


「じゃあ、二人とも、いざ出発!」

「お、おー?」

「はい!」


 アンナが先頭に立ち、弾むように声をあげる。ルシルとハナコはその声に少し遅れて反応し、三人はゆっくりと森の入口へと向かって歩き出した。




 森に足を踏み入れると、道らしい道はほとんど見当たらず、頼れるのはわずかに残された獣道だけだった。アンナはその道を迷うことなく進み、軽やかな足取りで二人を導く。彼女の動きには一切の迷いがなかった。


 一方、ルシルは次第に前日の疲労が戻ってくるのを感じ、息がやや荒くなり始めていた。それでも、彼女は必死にアンナに遅れまいと足を速めた。


 森の中はひどく静寂に包まれていた。木々の間から差し込む光がかすかに足元を照らし、時折、葉が揺れる音と鳥たちのさえずりが遠く響く以外、三人の足音だけが森の空気をわずかにかき乱していた。秋の深まりを感じさせる赤や黄の落ち葉が足元を覆い、針葉樹の濃い緑は、どこか冷たく凛とした空気を漂わせている。


 そんな中を、しばらく歩いていると、突然、アンナが立ち止まった。道のりに疲れたのか、ルシルとハナコも自然と足を止める。途端に、これまで意識していなかった足の疲れがじわりと全身に広がり、ルシルは小さく息を吐き出した。


「はあ……アンナ、どうかしたの?」


 ルシルは息を整えながら、膝に手をついてアンナに尋ねた。すると彼女は振り返り、少し困ったような笑みを浮かべる。その表情に、不安が胸に広がるのをルシルは感じた。


「えへへ……実はね、ちょっと道に迷っちゃったかも?」

「……え?」


 その言葉は、まるで無音の森の中に大きく響いたかのように聞こえた。ルシルとハナコは瞬間的に顔を見合わせる。


 そして次の瞬間、二人の声が重なった。


「えええーっ!」


 あれほど自信満々だったアンナの態度は一体何だったのか――その思いが、ルシルの体から一気に力を奪い、彼女はその場に倒れそうになった。


「ルーシーさん、大丈夫ですか!」


 ハナコが慌てて手を差し伸べるが、ルシルはかすかに笑って首を振る。


「大丈夫、ハナ。ただ、ちょっとね……疲れたみたい」


 足元の落ち葉がさらりと音を立てる中、アンナは申し訳なさそうに二人を見つめ、すぐさま懐から杖を取り出した。


「二人とも、ごめん! でも心配しないで! ちゃんと道を見つけるから」


 そう言うと、アンナは杖を軽やかに振り、慎重に呪文を唱える。


「――《光の導者よルキス・ドクス》」


 その瞬間、杖の先から淡い光が生まれ、それは柔らかな光の蝶となって姿を現した。森の空気を纏ったように、蝶は静かに羽ばたき、木々の間を優雅に漂いながら進んでいく。蝶が向かって右へ導くように飛んでいくのを見て、アンナは安心したように微笑みながら振り返った。


「……良かった。二人とも、こっちみたい!」


 アンナは自信を取り戻したようにその蝶を追い、軽やかな足取りで進み出す。彼女の後ろ姿を見つめながら、ルシルとハナコは一瞬立ち尽くしてしまう。だが、ハナコがふと微笑んでルシルに視線を向けると、そっと手を差し出した。


「ルーシーさん、行きましょう!」


 ハナコの優しい声に、ルシルはふっと笑みをこぼし、彼女の手を取った。


「……うん。まあ、仕方ないね」


 手の温もりが、冷え始めた秋の空気に溶け込むように伝わってくる。その小さなぬくもりに、ルシルは不思議と心が安らぐのを感じながら、再び歩みを進めた。


 今日のアンナは、どこかいつもと違う。彼女の軽やかで弾むような足取りは、テンションの高さを物語っていたが、時折空回りしている様子が見え隠れする。それがかえって微笑ましくもあり、普段はしっかり者のアンナに、こんな一面があるのだと感じると、少しばかり新鮮だった。


 ――たまになら、こういうのも悪くないよね……。

 

 ルシルは、そう思うことにした。


 森は相変わらず静かで、三人の足音だけがかすかに響く。その音が、森の静寂に溶け込むようにリズムを刻んでいった。




 どれほど歩いただろうか、森はさらにその色を濃くしていた。木々がさらに密集し、周囲の光は薄れ始めている。しかしその時、不意に一筋の風が木々の間をすり抜け、ルシルは何かが変わったのを感じ取った。密集していた木々が急に途切れ、視界が一気に開けたのだ。


 そして彼女の目の前に広がっていたのは、まるでの風景だった。目が眩むほど鮮やかな赤や青、黄色の花々が一面に咲き誇り、春の訪れを思わせる温かさがそこにはあった。森の冷たさが嘘のように消え、穏やかな風がルシルの頬を撫でていく。


「見て! あれが先生の家だよ!」


 アンナが指差した先には、一軒の家がぽつんと佇んでいた。遠目にも、その歪んだ外観が異様さを放ち、幻想的な魅力を感じさせる。花々に囲まれ、草原の真ん中にぽつんと立つその家は、アンナの家とはまた違う、どこか夢の中でしか見られないような非現実的な美しさを醸し出していた。


「すごい……」


 ルシルは思わずその光景に見入る。隣のハナコも、目を輝かせながら感嘆の声を漏らす。


「ええ、本当に……素敵です」


 その反応に満足したのか、アンナはにっこりと笑い、「さあ、行こう!」と急に走り出した。


「ちょ、ちょっと待ってよ、アン!」


 ルシルは慌ててアンナの後を追い、その姿が遠ざかる前に急いで足を動かした。

 

 草花が揺れる音、彼女たちの笑い声が静かな草原に溶け込むように広がり、草原を駆け抜けるその感覚は、まるで幼い頃の無邪気な冒険心を呼び覚ますかのようだった。その瞬間、ルシルは疲れを忘れ、足が軽やかに動くのを感じた。


 そして家に近づくにつれ、その異様さがさらに鮮明になった。


 その三階建ての建物は、どこかアンバランスで歪んでいるように見えた。窓は不規則に配置され、それぞれが微妙に傾き、植物が這い上がる外壁は、直線的な形状を保つことなく緩やかに揺れているかのようだった。屋根も真っ直ぐな線を描かず、ところどころ沈み込んだり、草木に押し上げられて隆起したりと、不規則な形が続いている。見方を変えれば廃墟のように見えなくもない様相だった。


 家の傍らには小さなベンチと古びたテーブルが置かれていたが、どちらも苔が生え、枝が絡みついて、すでにその機能を失っているようだ。

 

 ルシルが家の前に立った瞬間、足元がふわりと揺れるような錯覚に陥った。まるで地面が液状になったかのような感覚――いや、家自体が生き物のように、わずかに揺れているように感じられたのだ。平衡感覚が狂うようなその不思議な感覚に、一瞬彼女は立ちすくんだ。


 だが、アンナはそんな不安定さを全く感じていないかのように、軽やかに歩み寄り、その扉を迷いなく叩いた。


「先生、帰ったよー!」


 その声には親しみが込められており、彼女がこの家に何度も訪れていることがうかがえる。そして彼女は返事も待たずに、慣れた手つきでその扉を開け放った。


「もう、また散らかしてる……」


 ため息混じりにそう呟きながら、アンナは何事もなかったかのように家の中へと消えていった。


 その様子に、ルシルは驚きつつ、隣にいるハナコに視線を送る。すると、彼女の手が自分の腕をぎゅっと握りしめているのがわかった。彼女の緊張が伝わってきたが、その感触が逆にルシルを落ち着かせるようでもあった。


「……私たちも行こっか」


 ルシルは軽く息を吸い込みながらハナコにそう声をかけると、ハナコは


「……はい。仕方ありませんよね」


 そう言うと、彼女はいたずらっぽい笑みを返した。そして、二人は一緒に扉に向かい、わずかな躊躇を振り払う。


「じゃあ、行くよ。――お邪魔します!」


 小さな声で挨拶をしながら、二人は恐る恐るその家の中に足を踏み入れた。

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