第二章 学生たちの休養
窓からの風景
列車が静かに走り出すと、窓の外の風景は徐々に変わり始めた。ウィストン駅を後にして、石造りの家々や商店が次第に遠ざかり、石畳の道を行き交う人々や馬車の姿も視界から薄れていく。町中の喧騒がゆっくりと消え去り、広がっていくのは穏やかな田園地帯だった。
畑や牧草地が一面に広がり、白い塀で囲まれた石造りの家がぽつぽつと見え隠れしている。その向こうには、羊がのんびりと草を食んでいる姿があった。曲がりくねった小道が丘を越えてどこまでも続いているようで、遠くに低く波打つ丘陵地帯が広がっている。
まるで時間が緩やかに流れ出し、ゆったりとした風が車内にも穏やかな空気を運び込んでくるようだった。差し込む柔らかな陽光も、列車の古びた木製の内装を優しく照らし、ルシルの肌に心地よい温もりを伝えてくれる。
彼女は深緑色のクッションが張られた座席に身を預け、ぼんやりと外の景色を眺めていた。広がる風景は静かな安らぎを与えてくれるようだったが、それでも胸にわだかまる思いが消えない。
――どうして私はここにいるんだっけ。
窓枠がかすかにきしむ音が、静まり返った車内に響き、ルシルは漏れそうになる吐息を飲み込んだ。
「ルーシー、疲れちゃった?」
向かいの席に座るアンナが、心配そうに声をかけてきた。膝の上には、列車に乗るまで被っていた麦わら帽子が無造作に置かれている。
「酔われましたか?」
隣に座るハナコも、揺れる車内に体を合わせながら、同じく心配そうにルシルを覗き込んでいた。
「ううん、大丈夫」
ルシルは首を振り、軽く笑顔を作ってみせた。しかし、やはり消えない重さが胸に残っていた。慣れない列車の旅に少し疲れたのか、彼女は静かに目を閉じ、列車の揺れに身を委ねながらゆっくりと息を吐いた。そうしていると、自然と先日の記憶が蘇ってきた。
◇◇◇
学校はハーフタームに入り、生徒たちは一週間の休暇を迎えようとしていた。秋が深まる空気の中、ルシルは図書館での調べ物に専念するつもりで、休暇期間も学校に残る計画を立てていた。ハナコも故郷のアサカに帰るのが難しく、二人で静かに過ごすつもりだった。
だが、計画が変わることになるのは、いつもほんの一瞬の出来事だ。
出発を目前にしたある日の夕暮れ時、ルシルたちはいつものように寮室でくつろいでいた。アンナは椅子に座り、陽が差し込む窓辺で編み込んだ赤い髪が夕陽に照らされ、輝くように見えていた。一方、ルシルはベッドに腰かけ、本をめくっていたその時、突然アンナが声を上げた。
「ねえ、二人とも、良かったらうちに来ない? せっかくの休みだし、一緒に過ごそうよ!」
「――え?」
ルシルは思わず本を手から落としそうになった。何度か瞬きを繰り返し、対面の二段ベッドに座るハナコに目を向けると、彼女もまた驚いたように目を見開いていた。だが、すぐにハナコの顔には楽しげな表情が浮かび、すかさず彼女は笑顔で答えた。
「行きます!」
「――え!」
ハナコの即答に、ルシルは軽い衝撃を受けた。一緒に過ごすはずだった彼女が、こんなにあっさりと承諾するとは思いもよらなかった。
――ハ、ハナの裏切り者!
心の中で軽く叫びつつも、ルシルは迷う。アンナの誘いに応じるのはもちろん悪いことではないが、遠慮する気持ちが大きかった。それに、調べなければならないこともある。
「で、でも、こんな直前だと迷惑じゃない?」
ルシルは少し躊躇いがちに問いかけた。
「ほら、急な訪問って準備とか大変でしょ?」
ルシルはわずかに言葉を濁しながら、丁寧に断る理由を探し始めた。だが、アンナは即座に首を横に振った。彼女の編み込みの髪が軽く揺れ、ルシルの目の前でしなやかに動く。
「そんなことないよ! 大歓迎だから!」
彼女の言葉には一切の迷いがなかった。そして、アンナは急にしおらしい表情を浮かべ、「それにね……」と少し声を落とした。
「パパとママに紹介したいの。その……二人は初めての友達だから」
「うっ……」
その言葉を聞いた瞬間、ルシルの胸の奥に静かだった感情が大きく波立ち、つい声が漏れてしまった。断ろうとしていた自分の言葉がどれだけ表面的だったかを痛感した。自分が理由を探していたのは、ただ遠慮していただけで、本当に断りたかったわけではない。
初めての友達――それがアンナにとってどれほど大切な意味を持つのか、ルシルにはその一言で十分に伝わってきた。
「でも……私、どうしても調べたいことがあって……」
最後の抵抗を見せるように絞り出したルシルの声。しかし、その言葉を打ち消すかのように、アンナはすかさず微笑んだ。
「それなら大丈夫! 《先生》を紹介してあげるから。歴史も魔法もなんでも知ってる人だから、きっとルーシーの役に立ってくれるよ!」
アンナの提案は、まさにルシルの最後の抵抗を打ち砕くものだった。話にたびたび登場する《先生》の存在は、ルシルの興味を引きつけずにはいられなかった。アンナの知識の大半がその《先生》由来だという話を、何度か聞いたことがある。そして、調べ物を続けられる環境があるのであれば、もうルシルに断る理由は残されていなかった。
少しの沈黙の後、ルシルは小さく微笑んで頷いた。
「じゃあ……お世話になろうかな」
その言葉を口にした瞬間、アンナの顔が輝いたように明るくなり、両手をパチンと打ち合わせる音が部屋に響いた。
「やった! 二人とも本当にありがとう! パパもママも、きっとすっごく喜ぶよ!」
アンナはその場で跳ねるように喜び、彼女の編み込みがぴょんぴょんと弾む。ルシルはその無邪気な姿を見て、胸の中にあった迷いを抑え込み、温かさが広がるのを感じた。
ハナコも、すでにすっかり乗り気のようで、ルシルに向かって穏やかに微笑みながら言った。
「一緒に楽しみましょう!」
その静かな言葉に、軽く息を吐きながら「うん」と笑顔で答えたのだ。
◇◇◇
列車がガタンと大きく揺れた瞬間、ルシルはふっと現実に引き戻された。外の景色は緩やかに流れ、ぼんやりとした思考が消え去っていく。彼女はもう一度、静かに息を吐いた。
――私、もしかして二人に甘いのかも。
そんな考えが、ふと胸の中に浮かび上がり、ルシルは小さく苦笑した。窓の外では、広がる緑と澄み渡る青空が鮮やかなコントラストを描いており、アンナの故郷がもうすぐそこだと告げているようだった。
アンナの故郷、スウェール村は、ブリーズベールとラズベルクの二つの自治区の境界に近い場所に位置していた。小さく、静かでのどかな村――アンナがそう語っていたその土地は、ルシルにとってどこか遠い場所のように感じられていた。だが、実際に近づいてくにつれ、その土地に足を踏み入れることを、今では少し楽しみにしている自分がいた。
すると、アンナが窓の外を指さす。
「見えてきた。あれがノルヴァン山脈だよ。あの麓に村があるの」
彼女の指の先には、雄大なノルヴァン山脈がその圧倒的な存在感を見せていた。ラズベルクの大半を占めるノルヴァン山脈――まるで古の竜が眠るかのように横たわり、その頂は雲に覆われ、はっきりと見ることができない。しかし、白く雪をまとった姿が遠くからでもはっきりと見て取れる。荒々しい岩肌の隙間には、生命力溢れる緑の木々が根を張り、自然の雄大さと力強さを感じさせた。
――竜が住むという山脈……確かにお宝でも守ってそうだ。
ルシルは心の中でそう呟き、その風景の美しさに惹かれると同時に、どこか神秘的で異世界のような感覚を覚えた。現実にいるはずなのに、非現実に足を踏み入れているような、不思議な錯覚だった。
そんなことを考えているうちに、列車は駅へと滑り込んでいった。
駅のホームに降り立つと、意外なほど賑やかな駅周辺の様子にルシルは少し驚いた。アンナの話から描いていたイメージは、もっと閑散とした田舎の駅だったのだが、ここは予想以上に活気に満ちている。人々が行き交い、荷車や馬車がせわしなく動き回り、小さな商業の中心地としての様相を呈していた。
おそらくラズベルクに向かう物資の集積地としての役割を果たしているのだろう、とルシルはぼんやりと考えていた。
そして、ふと、彼女は遠くを見上げた。まだまだ目的地は遠いのか、ノルヴァン山脈はその雄大な姿を変えることなく、なおも遠くにそびえ立っている。
「ここからは歩くよ」
アンナが軽く伸びをしながら、あっけらかんと告げた。彼女の鮮やかな赤髪は麦わら帽子の下にすっぽりと隠れているが、帽子の縁から編み込みがわずかに覗いている。
ルシルはその無邪気な様子に少し不安を感じつつ、恐る恐る尋ねた。
「えっと……ちなみにどれくらい?」
「うーん、まあ三時間くらいかな」
「……そっか」
ルシルは一瞬言葉を失うが、アンナはいつもの明るい笑顔を浮かべている。
「大丈夫だって! 話してたらすぐだよ、すぐ!」
その元気な声に、隣のハナコも笑顔で同調する。「ですね!」と声を弾ませた二人の様子に、ルシルは小さくため息をつきながらも、口元には自然と微笑みが浮かんだ。
――やっぱり、二人には敵わない。
涼しい秋の風が頬を撫で、三人は肩を並べて歩き始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます