旅立ちの日

 夕食のテーブルには、シーフードたっぷりのクリームシチュー、サーモンと野菜のグリル、そしてお手製のライ麦パンが並べられた。一目でわかる豪華なメニューは、この夜の特別な意味を物語っているようだった。


 マイケルは、母アマンダについて、好きなもの、性格、二人の出会いの話など、さまざまな話をしてくれた。どうやら母は、かなり勝気な性格だったようで、アプローチも母からだったようだ。写真で見ていた母の楚々とした印象とは、かなり離れていた。それでも、ルシルは嬉々として、母についての話に耳を傾けていた。

 母について語る父の姿は、いつも以上に明るく、時には学生時代に戻ったかのような子供っぽい笑顔を見せた。父もずっと話したかったのではないか。ルシルにはそう思えた。そして、母のことを知るにつれて、父のこともより深く知ることができたような気がした。


「――そういえば、さっきから話してたけど、島っていうのはどういう意味なの? 魔法使いの島、というか国があるっていうこと?」


 ルシルの問いに、マイケルは目を瞬かせる。


「ああ、そうか。まずは、そこから話さくっちゃいけなかったのか」


 何かに気がついたのか、マイケルは、「少し待ってろ」と言い残すと、まだ食べかけのシチューを残し、裏庭へと急ぎ足で出て行った。

 どうしたのか、とルシルは疑問に思ったが、マイケルは思いのほかすぐに戻ってきた。その脇には一冊の絵本のような、大判の本が抱えられていた。


「倉庫にしまっておいたんだ。お前が昔好きだった絵本。これを読めば、魔法使いの世界について、俺が一から説明するよりも理解しやすいだろう」


 そう言ってマイケルはルシルへと絵本を差し出す。

 ルシルはその絵本を受け取ると、その表紙を眺めた。表紙には大きな島と、そこに立つ五つの人影が、油絵のようなタッチで描かれていた。


「私が昔好きだった? ……初めて見るけど?」

「それは……お前はまだ小さかったからな。覚えてないのも無理はない」


 マイケルは少し眉尻を下げる。


「寝る前にでも読んでみな。何か思い出すかもしれないしな」


 ルシルは絵本を慎重に脇に挟むと、自分の分の食器をキッチンへと運ぶ。


「あ、シチューもパンもおいしかったよ」


 そう一声かけ、急ぎ足に自分の部屋へ向かう。そのまま部屋に戻ると、勉強机へと向かった。

 何か思い出すかもしれない。ルシルはそんな期待を胸に、もう一度絵本を見てみるが、やはり見たことのない絵本だった。だが、絵本の表紙は古く、何度も読まれたような形跡があった。

 折り目など付かないように、ルシルはページを慎重にめくっていく。

 挿絵はどれも色鮮やかで、魔法の世界と魔法使いたちが生き生きと描かれていた。


 

 昔々、遥か昔、魔法使いたちは人々とともに生き、日々の暮らしを豊かにしていました。彼らはまるで星のように輝く存在で、人々を助け、正しき道へ導き、人々からは尊敬と畏敬の念をもって見上げられていたのです。魔法使いたちは、その力で病を癒やし、豊かな収穫をもたらし、時には大きな災害から人々を救い出すことさえありました。


 しかし、この平和は永遠に続くものではありませんでした。今から三百年前のこと、人々の心に変化が訪れ始めました。魔法使いたちへの畏敬の念は、次第に恐れと疑念に変わり、彼らの存在は脅威と見なされるようになりました。人々は魔法使いを理解しようとせず、彼らの力を恐れ、疎ましく思うようになったのです。


 各地で魔法使いたちへの排斥運動が横行し始めました。彼らは迫害され、隅に追いやられ、やがてはその存在すら許されなくなりました。魔法使いたちは成す術がなく、人々とともに生きることが困難になりました。彼らには逃げるしか道は残されていなかったのです。


 この悲劇の中で、我々の祖先たちは重大な決断を下しました。彼らは人々と決別し、新たな未来を模索することを選んだのです。彼らは海の向こうに、人々とは別の世界、新たな大地を創造しました。そこでは魔法が日常であり、人々の不寛容や恐れから解放された場所だったのです。


 我々の祖先は、彼らと関わりのあった生物たち、魔法の生き物や神秘的な存在たちも一緒に連れて行きました。彼らは人々とのすべての縁を断ち切り、新たな大地で新しい生活を始めたのです。彼らはその地を「ネブラディア」と名付け、魔法使いたちの新たな故郷として栄えさせました。


 そして今もなお、「ネブラディア」は我々の故郷であり、私たちは祖先たちが築いた魔法の世界で生きているのです。しかし、いつの日か、人々の心が再び魔法を受け入れる時が来るでしょう。その時、我々の世界と人々の世界は再び交わることができるのです。それまでは、私たちはこの大地で、魔法を守り、育て、繁栄させていくのです。



 内容はシンプルなものだった。魔法使いと人々の決別の話。最後こそ前向きなものとなっていたが、それが返って、かつての魔法使いたちの切なさを漂わせる。

 「ネブラディア」――やはり初めて知る内容だった。

 ルシルはベッドに飛び込むと、今日の一連の出来事を思い出す。わからないことばかりだ。何から考えればいいのかもわからない。部屋の静けさが、ルシルの心の動揺と対照的だった。

 そして父の言葉が、ルシルの心の中で反芻される。


 ――自分が好きな道。


 そんなこと言われても、わかるはずもない。未来は漠然としすぎて、考えるだけで頭は混乱していく。昨日までは、自由研究のことだけを考え、それで満足していた。普通の日々が流れる中で、自分はただ流されていればいいと思っていた。


「私の好きな道」という言葉を思い浮かべ、ルシルは静かに目を閉じる。


 ――今、自分がやりたいこと。


 未来は不確かで、現在の自分状況すらもはっきりしない。しかし、今の自分が望むことは、心のどこかで確かに存在している。


 ――お母さんについてもっと知りたい。


 その思いだけは確かだった。その先に、ルシルは新たな自分を見つける可能性を感じていた。

 部屋の壁には薄暗い月の光が差し込み、夜は静かに深まっていく。それを見つめながら、ルシルは小さな部屋で一つの決意を固めるのだった。


 ルシルが目を覚ましたとき、夜はすっかり明けていた。部屋には朝の柔らかな光が満ち、外では新しい一日が始まろうとしていた。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。夢を見ていたような感覚があったが、その内容は思い出せず、ただ心地よい余韻だけが胸の内に残っていた。

 彼女は身体をゆっくりと起こし、一階へと降りていった。階段を軽やかに下りる彼女の足取りには、昨日までの重さがどこかに消え去っていたかのようだった。朝の光が家中に溢れ、日常の中に新たな始まりを予感させる。

 リビングに足を踏み入れると、マイケルがソファに座り、新聞を広げながらコーヒーをすすっているのが見えた。静かな朝の時間を楽しんでいるようだった。


「お父さん、私、魔法学校に行く!」


 ルシルはその静けさを破るように、力強く宣言した。

 マイケルは娘の突然の宣言に驚き、思わずコーヒーを少し噴き出してしまった。


「お母さんが待っている気がするから」


 ルシルは一瞬の間を置かずに続けた。その瞳には昨日までの迷いは消え、決意と期待に輝いていた。マイケルは咳き込みながらも、その真剣な眼差しに、「そうか」と柔らかく微笑んだ。




 今日はお店を開けないことにしたらしい。二人はゆっくりと朝食の時間を楽しんだ。

 ルシルは朝食を終えると、急いで旅支度を始めた。しかし、いざ荷物をまとめようと思うと、意外と持っていきたいものが少ないことに気がついた。やりかけの自由研究も、積んだままの本も、きっと新しい生活には必要ない。それらを手に取り、一瞬の迷いを感じたが、すぐに手放す決心をした。

 最終的には、小さなサッチェルバッグ一つで全てを収めることができた。新たな旅立ちに本当に必要なのは、物よりも心の準備なのかもしれない、とルシルは一人納得した。そして最後に一度深呼吸をし、自分の決意を再確認するように静かに頷いた。


 支度を終え、裏庭で待っていると、正午をわずかに前にして、カーラは空の彼方から現れた。昨日と同じく、真っ黒なローブを身に纏っている。ルシルはふと、そのローブで空を飛ぶのは暑くて、かつ目立つのではないかと疑問に思ったが、カーラは顔に汗一つかかず、優雅に裏庭に降り立った。


「どうなりましたか?」


 開口一番にカーラが尋ねると、マイケルは微笑みながら「行くってよ」と答え、隣に立つルシルの頭に手を置いた。ルシルは父の大きな手の温もりを頭で感じ、その温かさに胸がじんわりと満たされる。


「俺も後で向かう。頑張ってこい」

「……うん」


 マイケルはカーラに改めて向き直ると、「よろしくな」と一言添える。


「はい。わかっています。――さあ、ルシル。こっちに来て」


 カーラは先に箒にまたがると、ルシルを自分の後ろに促す。ルシルはバックを背中に回し、カーラの後ろから箒にまたがる。


「しっかり掴まっておいてね」

「はい」


 ルシルはカーラの腰をしっかりと腕を回し、体を密着させる。カーラはそれを確認すると姿勢を正し、改めて箒をしっかりと握り直す。


「行くよ」


 その声とともに体がふわりと浮かぶ。昨日とは違い、箒に乗せられているというよりも、箒とともに体が浮かんでいるような感覚だった。


 ――不思議。これが魔法か。


 ルシルが小さく感動していると、地上からマイケルが声をかける。


「気を付けて行けよ」


 ルシルが見下ろすと、マイケルが両手を振っていた。

 それに応えるように、ルシルは片手を振る。


「私、頑張るから!」


 高度が上がるにつれて、マイケルの姿は遠のいていった。

 最後に言い忘れたことはないか、伝えておきたいことはないか。ルシルは自分に問いかけ、すぐに一つの答えを思いつく。


「――お父さん! 私、お父さんのこと、大好きだから!」


 なぜか声が語尾にかけて震え、視界がぼやける。高度がどんどん上がっていき、もう箒からはマイケルの表情は判然としない。それでも地上から響いてくる声は、はっきりとルシルの耳に届いてきた。


「俺もおまえが大好きだぁぁぁ!」


 その声に、ルシルはそっと目元を拭い、小さく笑みをこぼした。


「……ルシル、もう行くけど、大丈夫?」


 カーラが背後のルシルに向かって声をかける。


「……はい。大丈夫です」


 ルシルはなんとか返事をした。そこに確かな決意を込めて。

 それを確認すると、カーラはゆっくりと箒を進め始めた。

 眼下では自分が育ってきた街並みが流れていく。日常の風景が、慣れ親しんだ日々が、今は遠く後ろに残されていく。

 サラは自由研究をどうするだろうか。一人でもやり遂げてくれるだろうか。今はそう思うことにしておこう。

 箒はさらに速度を上げ、アールフォードを遠く後にし、ついには海へと出る。海風が顔を撫で、遠くの新しい世界への期待を高める。この海の向こうには、想像を超えた新たな冒険が待っているのだろうか。

 そんな思いを胸に、ルシルは魔法使いの島へと向かった。

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