逃げた先で

 結局、ルシルたちが選んだ逃げ場所は、食堂でも談話室でもなく、図書室でもなかった。彼らが辿り着いたのは、庭園のさらに奥まった場所、喧騒から遠く離れた静かな一角だった。木々の間から差し込む柔らかな日差しが、地面に揺れる影を落とし、緑の葉が風にそよぐ音が心地よく耳に届いてくる。


 その静寂の中に、年季の入ったベンチとテーブルがひっそりと佇んでいた。アンナによると、今朝の散歩のときに見つけた場所だという。木製のベンチとテーブルは長い年月を雨風にさらされ、表面はひび割れ、小口や角の部分には苔が生えており、所々に劣化が見られた。手入れが行き届いていないため、その古びた風合いが一層際立ち、どこか寂しげな雰囲気を醸し出している。


 ギルバートは最初こそ、ベンチに座ることを渋っていたが、他の面々が次々と座っていくのを見て、しぶしぶ腰を下ろした。すると早速、アンナが声を上げた。


「ルーシー! 超かっこよかったよ!」


その言葉に、ルシルは苦笑いを浮かべる。


「やめてよ、アン」

「いえいえ、本当に素敵でした!」

「もう、ハナまで……」


 ハナコも同調すると、ルシルの顔が赤らんだ。逃げる道中、アンナとハナコはずっとこの調子だった。エドガーの言葉を二人があまり気にしていないと分かり、ルシルはホッとしたが、さすがに褒められすぎるのも居心地が悪い。


「いやいや、実際、かっこよかったぜ。無口な奴かと思ってたけど、ここぞってときはやるんだな。――マジで見直したぜ」


 ギルバートは例の独特な笑みを浮かべている。無口という言葉は余計だが、その目には真剣さが宿っているようで、からかっている様子ではなかった。


「そうだよな。他人がどうこうじゃないよな。俺たちは自分のためにここにいる。自分の意思でこの魔法学校に来たんだからな……」


 ギルバートはしみじみと語り、目を遠くに向けた。先ほどアンナの頭をリンゴに例えたのは誰だったのか、とルシルは胸の中で問いかけたが、言葉にはしなかった。


「本当にね。どこかの男子なんかより断然かっこよかったわ」


 アンナのその言葉に、ギルバートとアランは顔を見合わせると、バツの悪そうに笑みを浮かべた。そして互いに目を逸らし、何とも居心地の悪い様子で肩をすくめた。




 ひとしきり落ち着いたところで、ルシルたちは本来の目的であった自己紹介を済ませることにした。アンナ、ハナコ、ルシルが順に行い、次はギルバートとアランの番だった。しかし、二人は名前と「これからよろしく」という、簡単でそっけない挨拶だけで済ませてしまった。男子とは生来こういうものなのか、とルシルは少し呆気にとられた。


 その後、軽い雑談を交わしたものの、自然と話題は先ほどのエドガーの一件へと戻った。


「――てか、結局なんだったんだ、あいつ。エドガーって言ったっけか。やけに突っかかってきたな。アレンの知り合いなんだろ。裏切者ってどういう意味なんだ」


 ギルバートが疑問を投げかけた。その視線はアランに向けられている。ルシルもアンナも、その答えを知りたそうに耳を傾けた。

 アランは一瞬黙り込んだが、やがて静かに答えた。


「あいつの名前はエドガー・グランツ。俺の元・同級生だよ」

「あいつは内部生だろ。なんで同級生なんだ?」

「――俺も去年まで、この学園にいたんだよ」


 その言葉に、アラン以外の四人が驚いたように顔を見合わせた。


「それはあれか。中等部もこの学校ってことか?」

「まあ、そういうことだ」


 アランは短く答え、小さくため息をついた。


「前々から何かに付けて突っかかってくる奴だったが、今日は少し度を越していたな。家の事情で学校をやめた俺のことを、今はどうやら裏切り者だと思っているらしい」

「なんだそれ。えらく粘着質な奴だな。というか、今回の一件も、もしかしたらお前に突っかかるために近づいてきたんじゃないか?」


 ギルバートが冗談交じりに指摘するが、アランは何も答えず、遠くの方を見つめていた。その沈黙に、ルシルはふと感じた。今回の一件には、アランとエドガーの間に過去の因縁に問題があるのかもしれない、と。


「――それにしても面倒なことになったな」


 場の空気が重くなり、いたたまれなくなったのか、アランは話題を変えようとするかのように口を開いた。


「面倒、ですか?」


 ハナコが首を傾げる。


「ああ、エドガーが言っていただろ。『決闘』のことだ」


「そういえばそんなこと言っていたな。そもそも、その『決闘』って何なんだ?」


 ギルバートが問いかけると、アランは静かに説明を始めた。


「この学校伝統の試合形式で行われる魔法技試合のことだ。一対一で魔法技による模擬戦を行って、先に相手を無力化した方の勝ちというものだ」


 ギルバートはあまり興味がなさげに、ふーん、と気の抜けた相槌を打つ。


「でもよ。そんなのエドガーの奴が、その場しのぎの言い訳に使っただけで、別に気にする必要ないんじゃないか」

「……いや、あいつのことだ。絶対に申し込んでくるだろう」


 アランがため息をつきながら言うと、アンナが眉をひそめる。


「申し込みに手続きがいるんでしょ。そんなことしてまで挑んでくるものなの?」

「手続きと言っても。そう複雑なものじゃないんだ。場所と監督官の確保が必要だから、事前に学校に申請するってだけで、申請自体はそれほど難しくない。指定の用紙に両者の名前を記入して提出するだけだ。そうしたら試合場所と日時が、試合前日までに掲示される」

「掲示される?」


 ルシルが驚いたように問いかけると、アランは「そうだ」とうなずく。


「決闘は教育の一環として行われる。だから全校生徒が観戦できるようにと、学校中の掲示板に掲示されるんだ」

「この学校特有の一大イベントってわけだ」


 ギルバートは皮肉そうに笑ったが、一方でハナコの顔には明らかな不安の色が浮かんでいた。


「……事前に断るということはできないものなのですか?」

「もちろんできる。用紙に名前を記入しなければいいだけだ」

「なーんだ。なら断っちゃえばいいじゃん。ルーシー、もし申し込まれても無理に戦う必要なんかないよ。あんな奴、放っておけばいいんだから。無視よ、無視!」


 アンナが声を上げると、アランもその意見に同調した。


「俺も今回はやめた方がいいと思う。エドガーはあんな奴だが、魔法戦闘の腕は内部生の中でも優秀な部類に入る。監督官がいるといっても、怪我することはありえなくはない」


 怪我、と言う単語にハナコが反応し、顔を一瞬強張らせる。


「ルーシーさん……」


 その声とともに、四人の視線がルシルに集まる。しかし、すでにルシルの心は決まっていた。


「――いや、私は受けるよ。あんなにいろいろ言われたんだもん。このまま引き下がることはしたくない」


 ルシルがそう宣言するが、その言葉に、アンナの瞳は不安げに揺れる。


「ルーシー、あたしは別に、あいつの言葉なんて気にしてないよ」


 その瞳は、まるでルシルを引き留めるかのようだった。


「アンナ、そんな目で見ないでよ。みんなのためだけってわけじゃないの。――上手く言葉にできないんだけど、なんかこのまま逃げたくないんだよね。」


 ルシルがそう言っても、アンナはまだ心配そうに見つめていた。


「私なりの――意地みたいな?」


 ルシルは自分の気持ちを上手く伝えられずに、かすかに視線をそらした。これ以上見つめられたら、自分の決意が揺らいでしまいそうだった。だが、幸いにもアンナの方が先に折れてくれたようで、さくため息を漏らすと、優しく頷いた。


「……怪我だけはしないでね」

「うん。わかってる」


 二人の様子を見ていたアランも、あきらめたようにため息をつく。


「――覚悟を決めているなら俺も止めはない。だが、相手はあのエドガーだ。ある程度の準備なり、作戦なりは考えておいた方がいい。何ができるかわからないが、それでも俺なりに何か考えてみよう」


 ギルバートが肩をすくめながら、右頬を上げて笑った。


「まあ、まだ時間はあるんだから、やれることをやっていこうぜ。俺も同じ班の『お仲間』として、何か手伝えることがあったら言ってくれ」

「私も精一杯お手伝いします!」


 ハナコも力強く申し出る。


 四人の仲間の言葉に、ルシルの心は温かくなった。一瞬、目を閉じて深く息を吸い込むと、心に染み渡る感謝の気持ちが湧き上がる。


「……みんな、ありがとう」


 その静寂の中で、ルシルは心からの感謝をその場の全員に伝えた。

 庭園の木々の間から差し込む陽光が、彼らの決意と友情を優しく照らしていた。風が葉を揺らし、心地よい音を奏でる中、ルシルは改めて、自分が仲間たちと共にあることを実感した。

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