ルシルとエドガー

 ルシルは先陣を切って教室を出たものの、目的の図書室がどこにあるのかは知らなかった。アランにそれを尋ねようと振り向いた瞬間、はす向かいから不意に大きな声が廊下全体に響いた。


「おい、本当に赤髪だ。お前の言う通りだな、クリス」


 友人間の会話にしてはあまりに大きすぎる声だった。そこには三人の男子生徒が立っており、ネクタイの色と模様から、ルシルと同じ高等部一年、かつ内部生であることが分かる。エレノアと同じく、チェックの柄が見えた。


 声の張本人である少年は、目鼻立ちがはっきりしたその顔に、不敵な笑みを浮かべていた。髪は黄金に輝き、それを後方に綺麗に撫で上げている。彼と見比べるとギルバートの髪色は、本来、金色ではなく麦わら色と表現する方が正しいように思えてくる。そんな少年が一歩、ルシルたちに近づいてきた。


「なんでお前みたいな奴がこの学園にいるんだ。俺たちに不幸でも運びに来たのか」


 その言葉は明らかにアンナに向けられていた。ルシルは胸の奥が冷たくなるのを感じたが、ハナコがアンナを守るように一歩前に立つ。


「なんなんですか、あなた方は。失礼ではありませんか」


 ハナコの声は強い意思が込められているようだった。それに少年は眉根を寄せてハナコを睨みつける。廊下の静寂が、彼らの対立をさらに際立たせていた。

 しばらく少年はハナコを睨んでいたが、何かに思い至ったのか、再び不敵な笑みを浮かべる。


「――お前、アサカ出身だな」

「そうですが……それがなんだというのですか?」

「いや、別に。ただ、この学園にいるところを見るに、あの古臭い小島の生活が嫌になったんだろうって思っただけだよ」


 その挑発的な物言いにもハナコは微動だにしなかった。しかし、彼女の内なる怒りは静かに燃え、その熱が張り詰めた空気を通して、ルシルの肌にまで伝わってくるようだった。


 ――不意に、どこからか風が吹いた気がした。


「わかるぜ、その気持ち。あの島には、なんの能力も持たない徒人が、大手を振ってそこらを歩いているそうじゃないか。どんな面して――」

「もうやめろ、エドガー」


 エドガーの言葉を遮るように、アランが背後から仲裁に前に出る。なぜアランが彼の名前を知っているのか、ルシルは一瞬不思議に思ったが、今はそれを考える余裕はなかった。

 名前を呼ばれた当のエドガーは、アランを見ると、その顔に不快感を露わにする。


「なんだ、いたのか。この裏切り者が」

「……ああ、悪いけどな」


 エドガーは低い声で吐き捨てるように言ったが、アランは臆することなく、その視線をまっすぐに受け止めた。両者の間には異様な緊張感が漂い、それが廊下全体に伝わり、重く、息苦しい空気がルシルたちを包み込んでいた。ルシルもその圧迫感に当てられ、思わず息をのむ。


「はぁーあ」


 その瞬間、不意に間の抜けた大声が背後から響いた。ルシルが驚いて振り返ると、ギルバートがくだらないという様子で口を大きく開け、あくびをしていた。それが意図的かどうかは分からないが、その気の抜けた音が周囲の張り詰めた空気を少し和らげた。


「そんな奴、放っておいて、さっさと行こうぜ」


 その言葉に、エドガーの視線がギルバートの方に動いた。顔にはさらに険しさが増したが、ギルバートは気にする素振りも見せず、むしろ挑発するように鼻で笑ってみせた。

 するとエドガーもフンッと鼻を鳴らし、おもむろに目の前のルシルに向き直った。彼の目には冷たい嘲笑が浮かび、ルシルの心に冷たい刃が突き立つような感覚を与える。


「お前も大変だな」


 その言葉は表面上ルシルを気遣うものだったが、そこには明らかな軽蔑と嘲笑が込められていた。彼の不敵な表情と語尾を上げるその話し方からも、それは明らかだ。そして、それが――とても不快だった。


 ――また風が吹いた。


「不幸を呼ぶ赤髪に、アサカの蛮族に、この裏切り者。それに加えて――なんだかパッとしない奴」


 エドガーの視線はルシルの背後の面々を順になぞっていく。


 ――風が草花を揺らす音が耳の奥に響いてくる。


「こんな奴らと同じ括りなんて、お前、すでに不幸にさせられてるんじゃねえか」


 エドガーの笑い声が遠くに聞こえる。


 ――風が体中で吹き荒び、全身を震わせる。


「なあ、何とか言ってみろよ?」


 エドガーが挑発的に問いかける。ルシルは小さく息を吐くと、服越しにペンダントの石を触った。


 ――また風が吹いた。


 それは熱を持って体中を巡り、心の奥底に火を灯す。とても熱くて、騒々しくて、――もう我慢できなかった。


「……あなたこそ、何のためのこの学校にいるの」

「……あぁ?」


 エドガーが威嚇するような声を上げたが、ルシルは動じなかった。


「あなたは何のためにこの学校にいるのって聞いているの。口喧嘩をするためにいるの?違うでしょ。――少なくとも私たちは違う。私たちはそれぞれの目標、なりたい自分、成し遂げたいことのためにこの学園にいる。そのために魔法を学びに来たの」


 ルシルは初めてエドガーをまっすぐ見据えた。


「私には、あなたの方こそこの学園にふさわしくないように思える」

「おれが……ふさわしくないだと?」


 口角は上がっているが、その語気に怒りが滲んでいるのは誰が聞いても明らかだった。


「ええ、そう。そんなに誰かと口喧嘩をしたいなら、後ろにいるお友達とでもすればいい。けど、私たちのことは放っておいて」


 ルシルが一瞬視線を向けると、急に話を振られた二人は肩をびくつかせていた。

 言うべきことを言い、ルシルはすぐにその場を立ち去ろうとするが、エドガーの不気味な笑い声がそれを止める。


「――ははっ、そうか、いいぜ。魔法の教育がお望みってことなら、俺がじきじきに教えてやるよ」


 するとエドガーは懐から杖を取り出した。それは、ルシルたちの持つガードが付いた生徒用のものではなく、カーラの持っていたような真っすぐな、そして真っ黒な杖だった。ルシルが反応する間もなく、エドガーはそれを振り上げた。ルシルは顔を伏せるのがやっとだった。


「《フィ――」

「やめなさい!」


 突如、聞き覚えのある声が響いてきた。

 ルシルが恐る恐る目を開けると、アランがルシルを庇うように一歩、前へと飛び出し、その手には生徒用の杖が握られていた。

 そして、先程の声の主はアランの肩越し、エドガーのさらに向こうにいた。廊下にいる生徒たちが両端に寄り、彼女のために道を作っている。ルシルはその時初めて、廊下にこんなに人が集まっていたのだと気が付いた。


「……ブランドン」


 エドガーが絞り出すように名前を呼ぶ。――そこにいたのはエレノアだった。

 ブランドン。この島を作った五つの家の一つ。聞き覚えがあると思ったのは、彼女の姓だったからか、とルシルは一人納得する。校長先生の姓もブランドンであることから、彼女はその親類であることはすぐに思い至った。

 そしてエレノアは廊下をコツコツと鳴らしながら、静かにしかし確実な足取りで歩いてくる。


「学校の規則では、許可された場所、状況以外での対人魔法の使用は禁じられているはずです。内部生であるあなたが、それを知らないはずはないわよね。エドガー・グランツ君」


 庭園で見た時の優しく穏やかな彼女とは打って変わって、その態度は厳しく、まるで氷のように冷たくなり、対峙するエドガーに威圧感を放っていた。


「もし正当な理由がないのであれば、先生方に報告をしなければなりません。それは当然、あなたのご両親にも伝わることでしょう」


 その言葉に、エドガーは明らかな動揺を示した。先ほどまでの威勢はすっかり消え、一回りその体が小さくなったかのように見える。その瞳には一瞬、苦々しい怯えの色が浮かんでいた。


「これは……違う」

「なにが違うというのですか?」


 エレノアの鋭い眼差しに、エドガーは言葉を詰まらせた。


「これは……けっ、決闘の一環だ」

「はい? なんですって?」


 エドガーの子供が言い訳をするような口ぶりに、エレノアはさらに鋭い眼差しで聞き返す。すると突然、エドガーはルシルを指差した。


「そ、そうだ! 俺はこの外部生に決闘を申し込んだ!」


 エレノアは疑わしげに眉をひそめた。


「そんな言い訳が――」


 そこで初めてエレノアとルシルの視線が交差した。その目がわずかに見開かれ、言葉を詰まらせる。彼女はルシルの存在には気が付いていなかったようだった。


「エレナ……」


 ルシルが小さく名前を呼ぶと、エレノアは目を伏せ、軽くため息をついた。


「――もし仮に、それが事実であったとしても、それは今あなたがここで魔法を行使して良い理由にはなりません。魔法試合を行う際には、正式な手続きが必要になることも知っているでしょう」

「それは……そうだが」


 エドガーは言いよどんだ。彼の瞳には再び苦々しさが浮かび、その体がさらに縮こまるように見える。エレノアの言葉には拒否を許さない圧力があった。そして彼女の瞳には鋭い光が宿り、エドガーの顔からはついに威勢が完全に消え去っていた。


「今回は大目に見ますが、次はありません。――わかりましたね」


 エドガーは何も返す言葉が見つからないようだ。それを確認すると、エレノアは振り返り、背後に集まっていた生徒たちに向かって言った。


「皆さん、明日から本格的に授業が始まります。今日は早めに寮に戻り、明日の授業に備えてください」


 そしてエレノアは何事もなかったかのように、その場を立ち去った。彼女の背中が廊下の奥に消えていく。その姿が見えなくなるまで、ルシルは黙って目で追い続けた。

 この場に居づらくなったのか、エドガーも「……覚えておけよ」とだけ言い残し、取り巻きとともに去っていった。その足取りはどこかぎこちなく、彼のプライドが砕かれたことを物語っていた。

 残されたルシルたちも、すぐにその場を離れることにした。窓から差し込む陽光が静寂が戻った廊下を暖かく照らし、彼ら五人の足音が軽快なリズムを刻んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る