試合当日の朝③
エレノアとルシルは、レッドウィング寮の前で別れた。内部生と外部生の学生寮は異なる場所にあり、エレノアはわざわざルシルを外部生の寮まで送ってくれたのだ。
「気が付かなくてごめん……」
謝るルシルに、エレノアは「気にしないで」と優しく微笑み、自分の寮へと帰っていった。その背中を見送りながら、ルシルは感謝の気持ちとともに、その優しさを改めて噛みしめた。
まだ食堂が開く時間には早く、寮内も静けさに包まれている。ルシルは着替えるために急いで寮室へ向かった。
部屋に入ると、アンナとハナコがすでに起きていた。椅子で眠っていたはずのアンナは、ルシルのシングルベッドに腰を沈め、ハナコも二段ベッドの下段にちょこんと座っている。二人ともルシルの帰りを待っていたようだった。
「もー、どこ行ってたの? 心配したんだよ」
「ごめん。少し早く目が覚めたから、気分転換に庭園に行ってたの」
ルシルはアンナの隣に腰を下ろしながら答える。
「何かあったのかと心配しました。無事で良かったです」
「うん、本当にごめんね、心配かけて」
ハナコの安堵の声に、ルシルがもう一度謝罪すると、アンナが突然思い出したように声を上げた。
「――ってそうじゃなかった。ルーシーに見せたいものがあったの!」
アンナはベッドから飛び上がり、慌ただしく自分の机に向かう。
ルシルが何事かと見守る中、アンナは机に置かれたノートを手に取り、あるページを開いてルシルに見せた。そのページの最上部には「魔法試合作戦案」と大きく書かれていた。
ルシルはそれを手に取り、書かれている内容に目を通しながら二人に話を聞く。
「これ、どうしたの?」
「二人で考えてたの。――ほら、私たち、練習ではあまり相手をしてあげられなかったしさ。何か役に立ちたくて」
アンナは照れくさそうに笑みを浮かべて説明した。その言葉に、ハナコも加わる。
「いえいえ、ほとんどアンさんが考えてくれたんですよ。私はただ、見守ることしかできませんでした」
アンナは頬を赤らめ、「ハナ、そんなことないって!」と口を挟んだが、ハナコは気にする様子もない。
「実は昨夜もルーシーさんが眠った後、こっそり机に向かっていたんです」
ハナコの告白に、アンナはとうとう我慢できず、ハナコの隣へ乱暴に座り、その口に手を当てた。
「余計なこと言わなくていいの!」
ルシルは二人のやり取りを見て、再び胸に温かいものが広がるのを感じた。エレナもそうだが、アンナもハナコも、自分は本当に友人に恵まれている。
「アン、ほんとにありがとう。これ絶対役立てて見せるから」
アンナは照れ隠しに顔を背けて小さくうなずいた。
「ハナもありがとうね」
ルシルがそう言い加えると、ハナコは「いえ、私は何も」と優雅に笑うだけだった。
そして、ルシルは改めてノートに目を落とす。そこには様々な作戦案が箇条書きで並び、中には「試合前に襲撃」や「会場にあらかじめ罠を仕掛ける」といった突飛なものも含まれていた。それらにもアンナたちの必死さがにじみ出ていて、ルシルは思わず微笑む。
その中でひときわ目を引いたのは、大きく丸が強調された一つの作戦案だった。丸から伸びる矢印が次のページへと促している。それに従いページをめくると、そこには大雑把ながらも詳細な作戦の手順が記されていた。これがアンナたちが最終的にたどり着いた作戦であることは一目瞭然だった。
ルシルはノートを見つめ、作戦の内容を頭の中で反芻した。慎重に考えながらも、心の中には微かな期待が膨らんでいく。この作戦なら、多少の勝算を見込めるかもしれない。もとの勝算が限りなくゼロに近かったことを思えば、天と地の差だ。
ルシルはノートから視線を上げ、この作戦を考案してくれた二人を見つめる。
「私、この作戦で行くことにする!」
その言葉に、二人は満面の笑みで頷いた。
ドアの向こうから寮生たちの足音がドタドタと響いてきた。もうそろそろ食堂が開く時間だ。朝の静けさが徐々に活気に変わり始める。ルシルたちは立ち上がり、一日の準備を始めた。今日の試合に向けて、これからが本当の始まりだ。
試合までは残り三時間を切っていた。
ルシルたちが寮から出ると、アランとギルバートが寮前で談笑している姿が目に入った。ルシルたちに気づいたギルバートが陽気に手を振り、「おーす」と声をかける。休日にもかかわらず、二人ともルシルたちと同じく制服に身を包んでいた。
「おはよう」と声をかけながら二人に合流すると、ギルバートがいつもの調子で軽口をたたく。
「ルシル、昨日は緊張で眠れなかったんじゃないか」
「おかげさまで、練習でくたくただったからぐっすり眠れたよ」
ルシルの返答に、ギルバートは「それもそうか」と笑い返した。その笑い声が、澄んだ朝の空気に響く。アランも隣でルシルに気遣うように声をかける。
「疲れは残ってないか?」
「うん、大丈夫」
ルシルが応えると、アランは安心したように微笑んだ。その笑顔はどこか柔らかく、けれど瞳には小さな憂いが浮かんでいるように見えた。
その憂いに気づかないふりをして、ルシルはみんなに言った。
「――それじゃあ、行こうか。試合会場に」
「うん!」
「はい!」
「おう」
「――ああ」
それぞれの返事を確認し、ルシルが先導して歩き出す。彼らの背中を優しく押すように、すっかり昇った朝の陽光が静かに輝いていた。
試合会場へと向かう道すがら、休日にもかかわらず制服姿の生徒たちが目立っていた。彼らもまた、ルシルたちと同じ方向へ進んでいる。間違いなく、これらの生徒たちは試合の観戦に来る者たちだろう。会場に近づくにつれて人の波は増していき、それに比例するようにルシルの心の中の緊張も高まっていった。そして、その緊張は次第にルシルたちの会話を消し去っていった。
しかし、その沈黙も長くは続かない。目的地に到着したのだ。重厚な石造りに、丸みを帯びたドーム状の屋根。同じ建物であるにもかかわらず、入学式の際に感じた温かな安心感は、今は影を潜め、代わりにルシルを呑み込もうとするような圧倒的な存在感が建物全体に漂っていた。
ルシルは、それが自身の不安が生み出した錯覚だと自覚しながらも、足が重く、体が鉛のように感じられ、ついにその場で立ち止まる。心臓の鼓動が耳元で響き渡り、周囲のざわめきが遠のく。一瞬の間、呼吸すら忘れてしまったかのように感じた。
その瞬間、ルシルは右手に温かな感触を覚えた。見るとアンナが優しく手を握ってくれていた。しかし、アンナの眼差しからは揺れる不安が見て取れた。おそらく自分も似たような表情をしているのだろう、とルシルは思った。
「ルーシー、大丈夫?」
アンナの心配そうな声に、ルシルは返答しようとするものの、言葉が喉を通らない。大丈夫だと伝えたいが、声が出ない。すると、左手にもぬくもりを感じた。今度はハナコが握ってくれていた。ハナコの目はいつものように優しく、ルシルを見守っていた。
「ルーシーさん」
二人の手の温もりを感じながら、ルシルは奇妙な感覚を覚えた。魔力を使っているわけではないのに、その手から伝わる温かさが心地よい。
すると、背後からギルバートの笑い声が聞こえてきた。
「やっぱり緊張してるみたいだな。――でもまあ、無理もないか」
ギルバートの軽口に続いて、アランの声が届いた。
「――今ならまだ逃げられるぞ」
ルシルの頭の中で、その言葉が反響する。
――逃げる?
その意味を理解した瞬間、体がかっと熱くなった。体中に血液が一気に巡り、生気を取り戻したかのようだった。そうだ、逃げるなんて選択肢はもう存在しない。やれることをやるだけなんだ。
ルシルが振り返ると、アランは意地悪く笑っていた。
「逃げないよ」
その返事に、アランの笑顔が一層深まる。試すような、挑発するようなその表情に、ルシルはふっと微笑み返した。そして再び前を向き、深く息を吸い込む。
「――アン、ハナ」
手をしっかりと握り返し、ルシルは先ほどは出なかった言葉を静かに、しかし力強く吐き出した。
「私は大丈夫だよ」
――みんながいてくれるから。
「じゃあ、行こう!」
そう宣言し、ルシルは一歩を踏み出す。手を引かれる形となったアンナとハナコが小さく悲鳴を上げたが、すぐに歩幅を合わせてくれる。その後ろをアランとギルバートが続く。
そして五人は決戦の地へと足を踏み入れた。
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