試合当日の朝②

 やがて二人は目的の場所、あのベンチテーブルに到着する。

 ベンチの座面に触れると少し湿り気を帯びていたが、エレノアが気にせず座るのを見て、ルシルも同じように腰を下ろした。

 そして、ルシルは対面のエレノアに視線を向ける。

 改めて考えると、エレナと一対一で話すのはこれで二回目のはずなのだが、なぜかそれを感じさせない。エレナの持つ独特な魅力が、そう感じさせるのだろうか。ルシルはその不思議な感覚に包まれていた。先ほどもつい手を取ってしまったが、今更ながら恥ずかしさを感じてしまう。


 そんなルシルに気づく様子なく、エレノアは早速、話し始めた。


「……たしか今日よね。エドガー君との試合」

「知ってたんだ。――いや、掲示板に貼られているから知ってて当然だよね」


 あはは、と笑うルシルに対し、エレノアの表情はどこか硬さを帯びていた。彼女の視線はゆっくりとテーブルに落ち、しばらくの沈黙が続く。微かな風が二人の間を吹き抜け、葉のざわめきだけが静けさを破る。

 やがてエレノアの唇がかすかに動き、「ごめんなさい」と小さな声で謝罪が聞こえた。


「え、え⁉」


 ルシルは、突然の謝罪に驚き、すっかり動揺してしまう。


「何でエレナが謝るの? エレナは何も悪いことしてないでしょ?」


 なかなか顔を上げようとしないエレノアに、ルシルは優しく「もう頭を上げてよ」と声をかけた。それに応じてエレノアはやっと顔を上げたが、その瞳には深い後悔の色が浮かんでいるようだった。


「……いいえ。あの時、私がもう少し上手く場を収められていたら、こんなことにはならなかったわ。本当にごめんなさい」


 エレノアは再び頭を下げようとするが、ルシルは手を伸ばしてそれを制した。


「そんなことないよ。あの時、エレナが止めに入ってくれなかったら、たぶんもっと酷いことになっていたと思うの。誰かが怪我をしていたかもしれないし、それに……なんだか、あのまま行ったら、もっと取り返しのつかないことになっていた気がするし……」


 髪色や出身の違い――少数派は排斥されて当然というような空気感。それを決定付けるような雰囲気が、あの場には確かにあった。それを思い出すだけで身震いがする気がした。


「あの後、色々あってお礼を言う機会がなかったけど、私はエレナに感謝してるの。――あの時、助けてくれて、本当にありがとう」


 ルシルの感謝の言葉に、エレノアは一瞬戸惑ったように見えた。彼女は返事を迷い、視線をそらすが、ルシルは続ける。


「それに今はね、試合が少し楽しみになってきてるの」

「……勝算かなにかあるの?」

「いや、たぶん勝つのは難しいと思う」


 戸惑いを隠せないエレノアに、ルシルは微笑んで「でもね」と付け加えた。


「みんなと一緒に練習したから、本番でそれを出し切れたらそれでいいかなって、今は思ってるの」


 その言葉を聞いて、エレノアは「……そうだったわね」と小さく笑った。その笑顔に、今度はルシルが戸惑いを見せる。エレノアもそれに気付いたようで、補足するように言う。


「この場所で練習していたのでしょ」

「え、知ってたの?」


 ルシルは思わずベンチから立ち上がり、その動きでテーブルがわずかに揺れた。ルシルの反応に、エレノアは今度こそ心から笑顔を見せた。


「言ったじゃない。ここにはそれなりに来るの」


 秘密の練習と称してはいたが、特別に隠していたわけではない。だが、自分の知らないうちに誰かに知られていたという事実は、なかなかに恥ずかしいものだ。

 エレノアは追い打ちをかけるように、さらに言葉を続ける。


「あなたの声、よく響いてきたわ」


 その言葉に、ルシルはとうとう自分の頬が熱くなるのを感じた。


「……声かけてくれれば良かったのに」

「ふふ、ごめんなさい。少し声をかけづらくてね」

「別にいいけどさ」


 ルシルは気を取り直して、再びベンチに腰を下ろした。どういうわけか、エレナの前だと自分がいつもより幼くなってしまう気がする。

 ルシルが改めて向き直ると、エレノアの表情は再び申し訳なさそうなものに戻っていた。


「……まだ何かあるの?」


 ルシルが尋ねると、エレノアは一瞬躊躇うように唇を閉じ、やがて決心したように口を開く。


「今日の試合に関して、何か私にできることはあるかしら。エドガー君のことなら、少しは話せるかもしれないけれど……」


 ルシルは、エレノアの申し出に一瞬驚きつつも、その誠実さに胸が温かくなる。エレノアとエドガーは中等部からの知り合いであり、彼女がどちらか一方に肩入れするのは容易ではないだろう。それでも、ルシルのために役立とうとするその姿勢に、彼女の優しさが滲み出ている気がした。

 ルシルは自然と微笑んだ。


「別に大丈夫だよ。――というか、たぶん聞いても何もできないと思うしね。今自分にできることをやるだけだから」


 その言葉に、エレノアは少し安堵した表情を浮かべ、「そうね……」と小さくつぶやいた。このままでは「ごめんなさい」という言葉が続きそうで、ルシルはとっさに話題を変える。


「そろそろ戻ろっか。なんだかお腹空いてきちゃった」

「……ええ、そうね」


 ルシルが立ち上がり、エレノアもそれに応じて立つ。庭園の霧はすっかり晴れ、草花の上に残る水滴が朝日に輝いていた。

 エレノアが先に歩き出し、ルシルもそれを追いかける。




 そのまま寮へと戻るのかと思ったが、二人の足はあのガラスの温室の前で止まった。

 エレノアは膝を曲げてしゃがみ込み、そばにある青い花の植木鉢を覗き込む


「これは、私が特別に置かせてもらっているの」

「――エレナが育ててるってこと?」

「ええ」


 エレノアはうなずき、花に向かって微笑んだ。


「この花は、どんな環境でも負けずに地面に根を張り、元気に育ってくれるの。本来は春にしか花を咲かせないのだけど、魔法で少し手助けをしてあげると、一年中綺麗な花を見せてくれるわ」


 ルシルもエレノアの隣にしゃがみ込み、花を見つめた。


「へえ、確かに綺麗だね」


 素直な感想が口からこぼれた。青い花が小さな植木鉢の中で力強く咲き誇る姿は、その美しさだけでなく、その存在自体が輝いて見えた。ルシルはその花に見惚れながら、ふと夢の中の光景を思い出す。


「――この花、やっぱり夢で見た花によく似ているんだよね。まあ、夢では花畑が広がっていたけど」

「……そう。それは良い兆候なのかもしれないわね」


 エレノアは微笑みながら、そっと花びらを撫でた。ルシルはその言葉の意図が分からず「どういう意味?」と尋ねる。

 エレノアは少し考えるようにしてから静かに答える。


「魔法使いの夢には、大なり小なり意味があるものよ。私たちは、魔力を通じて常に世界に干渉しているから、そんな私たちが見る夢は、時に本人の未来や、周囲の変化を暗に示してくれることがあるの」


 ルシルは理解が追いつかないまま、エレノアの話に耳を傾けていた。そんな様子に、エレノアは軽く笑いながら、「夢占いのようなものだと思えばいいわ」と付け加えた。


「この花の花言葉は、確か『成長』、『真実』、『内なる力』だったと思うわ。それを夢で見るということは、これから成長につながる試練が待ち受けているということかもしれないということよ」


 ルシルは思い出した。あの花畑の夢を見たのは、この島に来る直前だった気がする。そのことを思うと、エレノアの言葉には説得力があるように感じられた。


「まさに今日の試合のことを示しているみたいだね」

「ふふ、そうね」


 エレノアはもう一度笑うと、ゆっくり立ち上がり、スカートの皺を整える。


「そういえば、もう一つ聞いておきたいことがあったわ」

「なに?」


 ルシルはしゃがみ込んだままエレノアを見上げる。


「そもそも、どうしてエドガーとの試合を受けることにしたの? 当然、断る選択もあったはずなのに、あなたは試合を望んだわ。その理由を聞きたかったの」


 ルシルは、アンナからも似たような質問をされたことを思い出す。そして、もう一度、鉢植えに目を落とす。


「どうして、かぁ……」


 考え始めると、様々な理由が頭をよぎった。


 アンナやハナコ、アランにギルバート。馬鹿にされたみんなのため?

 ――確かにそうだ。

 エドガーの横柄な態度が許せなかったから?

 ――それもある。

 自分が魔法でどこまでできるか試したかったから?

 ――きっとそれも間違いじゃない。


 だが、それだけではないことも、ルシルはしっかりと自覚している。それはもっと直感的で、本能的で、もっと単純な感情から湧き上がるもの。

 しばらく考え込み、ルシルは静かに口を開く。


「――なんでだろうね」


 エレノアは一瞬、何を言われたのか理解できないような表情でルシルを見つめた。その反応を見て、ルシルは手を振り、慌てて弁解する。


「いやっ、理由が思い当たらないとかじゃないんだよね。確かに理由はあるんだけど、それを上手く言葉にできないというか……」


 二人の間に静かな沈黙が流れた。エレノアが何を考えているのか、ルシルには読み取ることができなかった。心の中で適切な言葉を探しつつ、ただ静かに時間が過ぎるのを感じていた。

 しかし、その静寂を破るように、エレノアが突然、声を上げて笑い出した。その急な変化に、ルシルは一瞬戸惑い、目を見開いた。


「――あはは。はぁ、なんだか、それもあなたらしいわね」

 エレノアはお腹を押さえながら、笑い涙を拭っていた。その姿に、ルシルも釣られて思わず笑い、「確かにそうかも」と言葉をこぼした。


 エレノアはひとしきり笑うと、ふいに気を取り直すように、コホンと咳払いを一つする。


「そろそろ行きましょうか。なんだか笑ったら、急にお腹が空いてきたわ」

「それは大変だ。それじゃあ、早く戻ろっか」


 ルシルも立ち上がり、二人は庭園の出口に向かって歩き始めた。

 周囲はもうすっかり明るくなり、早朝の静寂は徐々に消え去っていった。

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