第三章 試合への修養
広まる噂
本格的に授業が始まるとはいえ、最初の一週間は仮授業という形で実施され、この期間内で授業を受けたのちに履修登録という流れになる。一年生であるルシルたちは必修科目がほとんどで、選択科目は圧倒的に少なかった、それでも限られた選択科目の中から自分に合ったものを選ぶため、ルシルとアンナ、ハナコはこの一週間、履修可能な授業すべてを受けようと、昨日のうちに話し合っていた。
そして翌日。最初の授業、一限目は『魔法倫理学』だった。文字通り、魔法を扱う者の倫理を問う科目である。一年生共通の必修科目ということもあり、履修生徒も多く、昨日のクラス教室と比べて数段広い講堂で行われる。
ルシルは、まだ慣れない視線に晒されながら席に座っていた。今日見られているのはアンナだけではなく、昨日の一連の出来事が噂になっているようで、視線の半分はルシルにも向けられていた。その視線を居心地悪く感じながら席に座っていると、背後から「おーす」と間延びした声が聞こえた。振り向くと、ギルバートとアランがゆっくりと歩いてきた。
「すっかり有名人だな。ルシル」
「……うれしくないよ」
ギルバートは悪戯っぽく笑い、二人はルシルたちの後ろに腰を下ろした。
「相変わらずボサボサ頭ね」
「そっちも相変わらずのリンゴ頭だな」
ギルバートとアンナが挨拶代わりに軽口を叩き合う。昨日とは異なり、その様子はなんとも微笑ましく、ハナコもその様子を見て、穏やかに笑みを浮かべていた。なんだかんだ相性の良さそうなコンビだ。
「お二人とも先生が来ましたよ」
ハナコの声に促されて前を向くと、分厚い眼鏡をかけた白髪の男性教諭が壇上に上がろうとしていた。
ルシルは背筋を伸ばし、もう一度気持ちを引き締める。
「ここは『魔法倫理学』の教室で間違いないかな?」
教諭の厳かな一声で教室は静まり返る。
「大丈夫そうだね。――では講義を始めます」
そして、講義が始まった。
その日の昼休み。ルシルたちは食堂で昼食を取っていた。天井が高く、明るい食堂にはざわめきが広がり、学生たちの楽しげな声が飛び交っている。
「あの授業はもはや拷問だろ」
ギルバートはフライドポテトをつまみながらぼやいた。あの授業というのは『魔法倫理学』のことだろう。ルシルを含めて五人は、午前中だけで他にも二つの授業を受けたが、『魔法倫理学』の記憶はルシルにとっても印象深いものだった。
「……あたし、次からはギルバートとは離れて座る。寝息がうるさくて集中できないわ」
するとアンナが別の不満をこぼす。
「おれのせいかよ。あの先生の話し方のほうが断然問題だろ。――子守歌かと思ったぜ」
ギルバートは同意を求めるようにアランを見る。
「俺も正直、気が散ったよ。隣で眠られるのは」
「……なんだよ。俺の味方はなしかよ」
ギルバートは大げさに肩をすくめて見せる。
「ふふ、確かに大変ゆっくりとした話し方でしたね」
ハナコが何とかギルバートに同調し、ルシルもそれにうなずいた。
『魔法倫理学』の内容はともかく、担当教諭のストーンブリッジは、まるで子供に物語を聞かせるようにゆっくりとした話し方だった。初回ということもあり授業進行も同様にゆっくりであったことは、魔法に無知なルシルにはありがたかったが、一限目ということも相まって、特に眠気を誘う。
「でもさ、話自体は結構面白かったよね」
ルシルがそれでもと良い点を挙げてみるが、ギルバートは首を傾げる。
「そうか? あんまり印象に残った話、なかった気がするけどな」
「それは寝ていたからでしょ」
アンナが茶化すように言うと、ギルバートは「うっせ」と小さく毒づいた。
五人はそんなことを語り合いながら食事を進めていた。声をかけられたのは、皆が昼食を終えようとする間際のことだった。ルシルが最後に残しておいたクロワッサンを口に運ぼうとした瞬間、黒髪の少女が話しかけてきた。
「なあ、お前だろ。内部生と今度試合するってのは?」
彼女は腰に手を置き、足を開いた立ち姿で、その気の強そうな三白眼気味の瞳が印象的だった。ルシルは一目見て、大きな子だなと思った。それは決して大柄だからというわけではなく、彼女の存在感が大きく見えたからだ。緩められたネクタイから、ルシルと同じく高等部一年生、そして外部生だとわかった。
ルシルはクロワッサンを片手に固まっていた。昨日の噂が広まっていることは知っていたが、もう試合をすることにまでなっているとは思わなかった。
「名前はなんだったか。えーと……」
「ベイカーさんだよ」
彼女がルシルたちの反応など気にすることなく話を進める中、その背後から別の声が加わった。その声の主は、もう一人の少女だった。今度は小さな女の子だ。黒髪の彼女よりも頭一つ分小さい。巻き毛気味な薄いブロンドの髪はふわふわで気持ちよさそうだ。ルシルと目が合うと、その少女は恥ずかしそうに目を逸らし、後ろへと引っ込んでしまった。
「あー、そうだった。ベイカーだ。ベイカー」
「………えっと、何か用かな?」
ルシルが躊躇いがちに尋ねると、黒髪の少女はにやりと笑った。
「いや、用があるわけじゃないんだ。ただ一言、言っておきたくてな。――内部生相手に恥ずかしい試合すんなよってな!」
その迫力と勢いに、ルシルは危うくクロワッサンを落としそうになる。
「それだけだ。邪魔したな」
そう言い残すと二人はそのまま立ち去っていった。去り際に、彼女の黒髪が風に吹かれ、一瞬赤く光ったように見えた。
五人は、突然の出来事に一時言葉を失った。しかし、すぐにアンナが我に返ったように声を上げる。
「なんなのあれ!」
彼女の声が震え、軽く机を叩くと、その振動で食器がカチャリと音を立てた。
「――同じクラスの方でしたね」
ハナコですら苦笑いを浮かべている。
「あはは……まだ本当に試合があるかどうかも分からないのにね」
ルシルは肩をすくめてそう言うと、ギルバートが頬杖をつきながら、訝しげに尋ねてきた。
「なんだよ。まだ何の音沙汰もないのか?」
「うん。まあ、まだ昨日の今日だからかもしれないけど」
ルシルは素直に答えながら、噂が広がる速さに少なからず感心した。そんな楽観的なルシルとは対照的に、アランは深刻そうな眉をしかめる。
「――これはますます面倒なことになってるな」
「どういうこと?」
ルシルが不安げに尋ねると、アランは全員に向かって真剣な眼差しを向けた。
「ことが大きくなりすぎている。噂が広がること自体はしょうがない。だが、噂では試合をすることがすでに決定事項になっている。それが問題だ」
ルシルたちは顔を見合わせる。
「えーと、それってつまり……どういうことなの?」
「これじゃあ、絶対にエドガーは引かない」
再びルシルたちは顔を見合わせる。
「でもよお。それはもう覚悟の上って話だったんじゃないか」
ギルバートは確認するようにルシルを見る。
「まあ、そうだけど……」
ルシルは答えながら、心の中で複雑な感情が渦巻くのを感じた。確かに試合を避けるつもりはなかったが、ここまで注目を浴びることになるとは予想していなかった。
「それだけじゃない。今の彼女の話しぶりからすると、この試合はもうエドガーと俺たちだけの問題じゃなくなっている。それぞれが内部生と外部生を代表して試合を行う、いわば代理試合と捉えられているんだ」
アランの言葉が重く響く。先ほどまでの食堂の喧騒が遠くに感じられた。
「……よくわからないんだけど、それは問題なの?」
アンナが代表して尋ねる。
「いや、試合自体には特に影響はないだろう。あっても観客の数が増える程度だ。問題はその後だ。内部生の中には自分たちのことを特別だと思っている奴も少なくない。たいていの場合、学年が上がるにつれてそんな感覚は消えるものなんだが……。一年生の、それもこんな最初の段階で、どちらかに優劣が付くってのは、後々面倒なことにつながりそうだとも思ってな」
アランは自嘲気味に笑い、苦々しい表情を浮かべた。
「じゃあ、試合に勝ったとしても、負けたとしても、どちらにしろ問題があるってこと?」
アンナの困惑した表情に、「そういうことだ」とアランは真剣な眼差しで答える。
「勝てば、内部生たちのプライドを傷つけることになる。負ければ、外部生全体の立場がさらに弱くなる。どちらにせよ、何かしらの波紋を呼ぶことは間違いない」
その言葉に、皆が沈黙する。事態の深刻さが一層浮き彫りになる中、ギルバートが軽いため息をつく
「そんなこと言われてもなあ。俺たちは喧嘩を売られた側だぜ。こっちにはどうしようもなくないか?」
ギルバートの言葉に、ルシルは考え込むように眉をひそめた。
「……アランの意見を聞かせてほしい。私が引き下がるべきなのかな?」
アランは一瞬躊躇したが、深い呼吸を一つしてから、頭を振った。
「いや、俺が悪かった。ルシルがやりたいことを思う存分にやればいい。――俺はまだ無意識に、あいつらの肩を持とうとしていたのかもな」
その言葉に一同が静まり返る。アランは言葉を切り、皆を見渡してから再び口を開いた。
「さっきはあんなこと言ったが、むしろ早い段階で負かしておいた方が、内部生の無駄な特別意識なんかも薄れるかもしれないな」
その言葉に、全員の心が一つにまとまったようだった。
「じゃあ、何が何でも勝たないとな」
ギルバートがからかうように言うと、アンナが焦った様子で制する。
「ちょっと、あんまりルーシーにプレッシャーをかけないでよ」
「ふふっ。しっかりと準備しなくてはなりませんね」
ハナコも優しい微笑みを浮かべながらうなずいた。
「よし、それじゃあ早速、放課後に集まって作戦でも練ろうぜ」
ギルバートが楽しそうに提案し、皆がそれぞれに賛同の声を上げる。ルシルはその様子を見つめながら、心の中で微笑んでいた。自分が仲間たちに支えられているという安心感が胸に広がるようだった。
「じゃあ、とりあえず午後の授業も頑張ろう!」
アンナが元気よく声をかけると、ギルバートが授業のことを思い出したのか、渋い顔を浮かべた。
「たしか午後一は『魔法法規基礎』だったよな……。まずはそこを乗り越えなくちゃいけないのかよ」
彼が苦笑いを浮かべると、皆もつられて笑みを漏らした。
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