ルシル・ベイカーの追想

瀬戸智

EP1 追想への助走

序章

ある少女の夢

 またこの夢だ。

 ここ最近はいつも同じ夢を見る。

 どこかの花畑。空は無限に広がる青のキャンバスのようで、その一面には夢中で舞う青い花々が風景を彩っている。風がそっと花畑をなでるたびに、小さな波が生まれ、青のグラデーションが揺れ動く。それは不思議と懐かしいような、悲しいような、そんな感覚を与える。


 幼い彼女は、そんなひたすらに広がる花畑の中で、茫然と視線を前に向けていた。

 その視線の先には一人の女性が立っている。女性は両手を広げ、遥か彼方で彼女を待っていた。その距離が遠く、顔の詳細ははっきりしないが、その人が笑っていることは、なぜだか確信できた。


 ――顔をもっとよく見たい。


 彼女は、ひたすらに足を動かし続けた。土が足元を滑らせようが、草花が足を絡めとろうが、彼女は前進し続けた。昨日は届かなかった。一昨日も、その前も。

 しかし、その距離は確実に縮まっていた。

 もうすぐそこまで来ている。あと一歩でその人の顔がはっきりと見えそうだ。

 彼女は夢の中で叫んでいた。しかし、その叫びは風に消され、形のない音に変わってしまう。

 その時、遠くからその人の声が聞こえた。


「ルシル――」


 彼女は必死で手を伸ばす。


「ルシル、私はあなたを――」


 顔が見えた気がした。しかし、そこで言葉は途切れる。そして、次の瞬間には突然視界がぐるりと回り、風景は消え去り、ただただ暗闇に落ちていく感覚だけが残った。

 またこの夢。またこの終わり。


 彼女は目を閉じ、その感覚に身を任せる。そうすると意識も自然と薄れていった。


 ◇◇◇


「ルシル――」


 不意に別の声が耳に響いてきた。先ほどよりもずいぶんの低い声だ。それに意識を集中すると、今度は香ばしい匂いが鼻腔にくすぐる。不思議に感じていると、先程の声はより鮮明になって耳に届いてきた。


「ルシル、もう飯できてるぞー。いつまで寝ているんだー」


 そんな間延びした声に反応するように、彼女はゆっくり目を開ける。そこはいつもの自分の部屋、その天井が見えた。


 声の主は、彼女の父だった。一階からは二階のルシルの部屋に呼びかけている。

 彼女は自分の名前を反芻しながら、ゆっくりと上体を起こす。そして、夢の中のその人の言葉を思い出した。


 私はあなたを――。


 その言葉に続く言葉はなんだったのだろうか。


「お母さん……」


 ルシルはつぶやいた。

 ルシル――それが彼女の名前だった。そして、夢の中で彼女に呼びかける人影。その正体は、八年前に交通事故で亡くなったという、もうこの世にはいない彼女の母だった。


 その当時、ルシルは六歳であったが、今現在、母の記憶はほとんど残っていない。夢の中で見た母の笑顔を思い出そうとしたが、夢の記憶は霧のように掴みどころがなかった。


 ルシルは布団を力なく押しのけ、なんとかベッドから降りる。その視線は、自然といつもの勉強机の方へと移っていた。

 散らばった本とノート、筆箱代わりのポーチが、現実の日々が持つ慌ただしさを物語っていた。しかし、その雑然とした風景の中で、机の端のペンダントだけが、ハンカチの上に大切に置かれ、小さく存在感を放っている。それは母からルシルに残された形見のペンダントだった。

 朝日というには強すぎる太陽の光が窓ガラスを通して部屋の中に差し込み、ペンダントの石が微かに光を反射していた。その輝きは、母の存在感を今なお感じさせるかのようだった。


「何やってるんだよ、ルシル。せっかく焼いたパンが冷めちまうぞ」


 声の方向に目を向けると、いつの間にか一階から上がってきた父が、ドアの隙間から顔をのぞかせていた。ルシルの抱くもやもやとした感情とは関係なしの、陽気ないつもの顔だった。


「わかってるから、一階で待っててよ」


 ルシルは軽くため息をつき、視線で父を追い返す。ベッドから完全に離れ、一階へと向かう支度を始めた。その一動作ごとに、夢から現実への移行を感じながら。

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