第一章 少女の飛翔

始まりの日

 リビングの壁掛け時計の長針はゆっくりと滑るように動き、正午を告げるための最後の一周を始めていた。

 キッチンから漂う暖かい空気が、リビングに穏やかに広がり、テーブルには一人分の朝食らしき食事が丁寧に準備されていた。お皿の上にはふっくらとしたクロワッサンが焼きたての香りを放ち、脇に添えられたソーセージ二本と、黄金色に輝くスクランブルエッグが彩りを加えている。その隣では、ミルクが白磁のカップに注がれ、その上を白い湯気が漂っていた。


「……これ、少し多くない? 私、今そんな食欲ないんだけどな」


 ルシルは不平を漏らしながら椅子に腰を下ろした。


「今、何時だと思っているんだ。昼食も兼ねてるんだから当然だろう」


 そう笑いながら、父はカウンターからホットコーヒーを片手に持って来ると、対面の椅子に身を沈める。カップを傾けた瞬間、危うく中身をこぼしそうになる様子に、ルシルは思わず苦笑した。


「そんなことより、ルシル。もう夏休みも終わりだろう。今のそんな生活リズムで、新学期は大丈夫なのか」


 またこの話題だ。ルシルはため息が出そうになるのをぐっとこらえた。


「わかってるけど、自由研究がまだ終わってないんだって……」


 ルシルは、クロワッサンを一口かじりながら、言い訳のようにつぶやいた。ほのかなバターの香りが彼女の口の中で広がり、なんとなく心も少し軽くなる。父の作るクロワッサンは、いつも特別な味がした。


 ルシルの父、マイケル・ベイカーは、家の一階でパン屋を営んでおり、朝早くからパンの香りと共にその日の営業を始める。そして、朝の午前営業が終わると、夕方の午後営業の準備までの短い時間はこうやってゆっくりできる。


 ルシルも夏休みの始めには、よく店の手伝いをしていた。夜が明ける前に起き出し、父の仕事ぶりを見ながら、不器用なりに一生懸命パンを成形した。しかし、日々が過ぎるにつれ、その習慣も次第に彼女の中で薄れていってしまった。


「自由研究なんて、なんでもいいんじゃないのか。例えば、そうだな……パン屋の一日っていうのはどうだ」


 マイケルはの口元にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。それを睨みつつ、ルシルはミルクをすする。


「そんなの嫌だよ。みんなに笑われる」

「……なんだよ、パン屋の父さんが恥ずかしいのか」


 マイケルは少々大げさに肩を落として見せる。


「そんなこと言ってないでしょ。ただ他の子たちはそんなテーマにしないから。学校の植物観察とか、町の歴史を調べたり、編み物したりとかね」

「そもそも自由研究ってのは、周りに合わせないといけないものなのか?」

「そんなことはないけど……」


 ルシルが答えに窮するが、何かを察したのかマイケルが口を開く。


「なんだか子どもの世界っていうのも大変だな」


 マイケルはコーヒーに口をつけながら笑っていた。しかし、ルシルはそれと同じようには笑えなかった。

 ルシルは痛感している。周囲と異なることがどれだけ孤立感を生むか、子どもながらにその重圧を知っている。母親がいないというだけで、周りからの白い目向けられ、それによって生じるやり場のない思いは、今でも彼女の記憶に鮮明に残っている。


 子どもたちの無邪気さは時として残酷さを帯びる。大人ほどの自制心や道理に囚われることなく、自分の気に入らない相手を簡単に虐げる。それが嫌だと感じていても、その世界から逃げ出す力はまだ持つことができない。ある意味では、大人の世界よりも息苦しいのだ。


 そんな沈思の中、マイケルが改めて話を切り出し、ルシルはやっと我に返る。


「それで結局、ルシルは自由研究のテーマは何にしたんだったか?」

「え?」


 ルシルは言いよどむ。


「……えっと、飛……の仕組みについて」

「ん? なんだって?」


 マイケルの問いかけに、ルシルは声を少し強めた。


「だから! 飛行機の仕組みについてだよ!」


 その返答に、マイケルは危うくコーヒーを吹き出しそうになった。彼女の選んだテーマが予想外だったのか、それともただ単に驚いたのか。

 そして、しばらく静寂が漂う。


「……俺も詳しくは知らんが、それって最近、首都の方で盛り上がっているあれだろ――空を飛ぶ機械の鳥みたいなやつ。なんでまたそんなテーマにしたんだ? 父さんが言うのもなんだが、パン屋についての自由研究なんかよりもずっと変わっているんじゃないか」


 マイケルは首を傾げる。


 全くその通りだ。ルシルは心の中で同意した。彼女自身も、そのテーマを選んだことにはあまり乗り気ではなかった。そのせいで自由研究の課題だけが今も終わっていないのだ。


「……サラが一緒にやろうって言い出したの」

「サラって、ブラウンさんとこの子か?」

「そう、その子。首都で実際に見て、それ以来ずっとその話題ばっかりなの」


 サラは、ルシルと同じ中等学校に通う友達だ。何度かその家に招かれて遊びに行ったことがあり、そのたびにサラの家の大きさと、豪華なインテリアが配された部屋には驚かされた。

 父親は貿易関係の仕事らしいが、詳しくはサラ自身も知らないのか、ルシルも聞いたことはなかった。その父の仕事の都合で先月、サラは首都へ行ったそうで、そのときに撮ったという飛行機と乗組員が並ぶ写真を何度見せられたことか。


「それだけ感動したってことか。――いいじゃないか、楽しんでいられるようなら」


 マイケルは机に視線を落とす。ルシルはその言葉に微かな棘を感じ、その続きを黙って待った。


「空を飛ぼうだなんて……何を考えているんだか。戦争でも始めるのかね」


 マイケルの言葉の真意はルシルには理解できなかったが、リビングに満ちた空気が一変して重たくなったことは感じ取れた。

 マイケル自身もその変化に気づいたのだろう、急に口調を明るく切り替えて、「それはそうと」とまた早口に話し始めた。


「それはお前の本当にやりたいことなのか?」


 マイケルは笑っていたが、その声にはやはり何か真剣な響きがあった。


「お前ももう十四歳だ。そろそろ自分の将来について考え始めてもおかしくない年頃だろ。――自由研究をそのために使えっていうわけじゃないが、そろそろ自分のことは自分で考えてもいいと思うぞ」


 リビングは静寂に包まれた。その静けさは、決断を急かすような緊張感を伴っているようで、ルシルはソーセージを見つめる視線を上げられずにいた。それに見かねたのか、マイケルは柔らかく言葉を続ける。


「そこでどうだ、父さんの跡を継いでパン職人になるのは」


 その言葉にルシルはようやく顔を上げた。そこには、いつも通りの陽気な父の顔があった。


「そういうことならパン屋の職業レポートは最高の自由研究になると思うぞ」

「……またそんなこと言ってる」


 冗談を言う父に、ルシルもやっと笑顔を見せることができた。張りつめていた緊張が、ようやく緩んでいくのをルシル自身も感じ取った。

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