第二章 魔法使いの学校
魔法使いの島
どれくらい飛んだのだろう。
海上を飛び続けるうちに、最初の興奮も次第に鎮まり、青い水平線が続く景色に、時間の感覚を失いかけていた。もう一時間以上は飛んでいる気がするが、島らしきものは視界の片隅にも見つからない。
ルシルは、無限に広がる海を見渡しながら、心中に浮かんできた疑問を目の前の背中に投げかける。
「カーラさん、あとどれくらいかかりますか?」
「もうすぐだよ」
カーラは振り返ることなく答える。正面を向いているせいか、声が風に紛れて聞き取りにくい。それでもカーラの声質のおかげで何とか聞き取ることができた。
しかし、少し前に聞いた時も「もうすぐ」と答えていたが、それは一体どれくらいのことなのか。その「もうすぐ」はあと何回聞くことになるのか。
ルシルがそんな不満を抱いていると、不意にカーラがこちらに振り向く。
「ルシル、ペンダントは持っているよね」
「あ、はい、持ってます」
ルシルは急いで、服のうちに隠れていたペンダントを取り出して見せた。
「落とさないようにね」
カーラはそれを確認し、一度うなずくと再び正面に向き直った。
「それとカーラでいいわ。敬語も必要ないよ」
「え?」
驚きの声が自然と口からこぼれた。ルシルはカーラの意図を探るかのように、軽く身を乗り出し、その表情を読み取ろうとしたが、カーラの顔は見えなかった。
「ほら、しっかり掴まっていて」
「わっ!」
ルシルは小さな叫び声をあげた。箒の速度が急に上がり、彼女は反射的にカーラの腰に強く抱きついた。この突然の動きは、カーラの照れ隠しなのだろうか。ルシルはその少し幼稚な行為に、驚きと同時に、不思議な親しみを感じた。
しかし、その瞬間、周囲の光が急に薄れ、暗がりが二人を包み込んだ。何が起こったのかとルシルが前方を見ると、そこには天をも隔てるような、巨大な霧の壁が行く手を阻むように立ちはだかっていた。先ほどまでは確かになかった。それは突然現れたとしか思えなかった。
「ここが私たちの島、ネブラディアへの入口だよ」
カーラはその霧の壁を見つめながら、落ち着いた声で言う。
「登録された触媒を持たない者は、この島に足を踏み入れることはおろか、この存在すら知ることができないの。私はこのローブを出る際に登録しておいたわ」
カーラは、自らのローブを軽く引っ張って見せた。
「じゃあ、私のは……」
「そのペンダントね。アマンダさんがここを出る際に登録しておいたそうよ。マイケルさんが教えてくれたわ」
ルシルはペンダントを握りしめ、その冷たさを感じながら、母が自分のために用意してくれた魔法使いの島への鍵を、今自分が握っているという事実を嚙みしめた。
母はいつか自分がここに帰ることができるように、しっかりと備えてくれていたんだ。ルシルはそう思うと、ここにいる自分の選択を、もう一度肯定することができた。
「じゃあ行くよ」
カーラはルシルの返事を待つことなく、霧の中に箒を進めていく。ルシルは迫ってくる霧に思わず息を止めてしまった。
しばらくの間、全てが真っ白な霧に包まれていた。冷たい霧が肌を撫で、音さえも吸い込むその中で、ルシルはしっかりとカーラにしがみついた。すると突然に視界が晴れる。
「――ここが私たちの故郷、ネブラディアよ。」
カーラの声が誇らしげに響き、ルシルはその新しい世界に目を向ける。
ネブラディア――それは海に浮かぶ神秘的な島だった。高峻な山々がそびえ立ち、蛇行する河川が大地を潤し、豊かな自然が広がっている。黄金に輝く砂漠地帯も見え、海に浮かぶこの島は、遠く地平線まで続く壮大な大陸のように見えた。
そして、それが今、ルシルの新たな始まりの場所だった。
背後を振り返ると、霧の壁などは一切見当たらず、ただ広大な海が彼女を見送るように広がっていた。
「とりあえず隠れ家に向かうよ」
「……うん」
ルシルが顔を島へ戻すと、箒はゆっくりと高度を下げていく。
その間、ルシルはただ空から見る自分の故郷に思いを馳せていた。
ルシルとカーラが降り立った場所は、うっそうと茂る森の深淵を背にし、大胆に海に向かって突き出た崖の端であった。周囲は自然のままの美しさが保たれており、足元には生命の息吹が感じられた。この島は、決して人工的なものではなく、しっかりと命を宿しているとルシルは思った。
「ここからは歩くよ」
カーラの声が落ち着き払っており、迷いなく、森の深くへと足を踏み入れていく。ルシルは高ぶる感情をなんとか抑え、遅れないようにその後を追った。
夏という季節にもかかわらず、森の中はひんやりとした空気が漂い、肌寒さすら感じさせる。木々たちは自由に枝を伸ばし、空からルシルたちを覆い隠していた。時折、木々の間を縫うように差し込む日差しは、地面に美しい模様を描き、その様子は神聖さすら感じる。しかし、これが夜になったらと考えると、ルシルの足取りは自然と早まった。
「カーラさん、もうすぐですか?」
「――カーラでいいよ」
カーラは振り返らずに、「もうすぐだから」と一言付け足すだけだった。
ルシルは長い道のりに疲れを感じ始めていたが、その魔法の言葉に励まされて歩き続けた。何度目かの「もうすぐだから」に、ルシルが疑念を抱き始めたとき、突然、森が開けた。そこには石で区切られた小さな庭園と、石屋根を持つ愛らしい家が建っていた。隠れ家という呼び名に相応しい、そのひっそりとした雰囲気に、ルシルは心の中で興奮する。
「着いたね」
カーラはそのまま家の敷地に入り、玄関の扉を開けた。
ルシルは庭園の植物や、脇の小さな井戸の視線を泳がせながらも、急いでカーラの後を追っていく。
家の中に足を踏み入れると、温かみのある内装がルシルを迎え入れた。木製のテーブルと椅子、整然と本が並ぶ棚、そして赤いカーペットが、温もりを感じさせる。石造りの暖炉は、特にルシルの目を引いた。天井からは何やら草の束が吊るされており、その不思議な香りが部屋に広がっている。
「荷物は適当なところに置いていいよ。ここで一通りの準備をしちゃうから、少し休んでで」
カーラはそう言い残し、家の奥へと姿を消した。ルシルは言われた通り、バッグを静かに床に下ろし、近くの椅子に腰を落とした。背中を背もたれに預けると、自然と力が抜け、自分が知らずに疲れていたことに気が付く。そのままテーブルに顔を伏せ、目を閉じると、ふと父のことが心に浮かんだ。
「……お父さんは今、何をしているのだろう?」
ルシルは静かにつぶやいたが、その声は部屋の温もりに吸い込まれるように消えていった。
「疲れた?」
カーラの声が耳に届き、ルシルは慌てて身体を起こした。
「いえ、ぜんぜん!」
「そう?」
カーラはルシルの反応に優しく微笑み、手に持っていた革製のトランクケースをテーブルの上に置いた。ゴトンッと鈍い音が鳴り、その中に詰められた物の重みを思わせる。
「これに必要なものは全部まとめてあるから」
「ありがとうございます」
「それと――これ」
カーラは懐からあるものをテーブルに取り出した。
それはいわゆる魔法使いの『杖』というものなのだろう。しかし、それはルシルの思っていたものと形状が、いくらか違っていた。
木製のその杖は、杖身というのか、まっすぐ伸びる棒状の部分と、手に馴染むように丸みを帯びた持ち手の部分で構成されていた。ルシルの目を引いたのは、その継ぎ目の部分だった。持ち手の根本から手を守るかのように優雅に湾曲しながら枝分かれしたデザインは、かつての海賊たちが携えるサーベルの柄を思わせる形状だ。
ルシルの違和感に気が付いたのか、カーラは説明をする。
「それは学生用の杖よ。持ち手にガードが付いているでしょ。――私のはこれ」
カーラは自分の杖をどこからか取り出す。それはルシルが想像していた通り、杖身から持ち手までまっすぐの杖だった。
「本来、学生が最初に使う杖は、杖身を自ら削り出して、市販の持ち手に取り付けるのが伝統なんだけど、ルシルにはその時間がないから、それを使って。――あなたのお母さんが学生時代使っていたものよ」
その言葉を聞き、ルシルは杖をそっと手に取る。
「お母さんの……」
よく見ると、確かに所々小さな凹みや細かな傷が付いていた。そして、持ち手の下部には『A.B』と母のイニシャルらしきものがひっかき傷のように刻まれていた。
「……ありがとうございます」
ルシルは心からの感謝を込めて言った。それにカーラは目を細めて微笑む。
「気に入ったなら良かったわ。大丈夫だと思うけど、トランクの中身も確認しておいて。私はお茶でも入れてくるから」
「……はい」
ルシルは返事をしたものの、何が足りないのか、何が必要なのか分からなかった。それでも確認だけはしようと、トランクに手を伸ばす。
そこで一つの疑問が頭に浮かんだ。
「そういえばカーラ、時間がないって……何か用事でもあるの?」
カーラは、ルシルの質問に足を止め、こちらを振り返る。その表情には困惑の色が浮かんでいた。だが、数度の瞬きの後、すぐに何かに気が付いたようにため息をこぼす。
「……マイケルさんは言わなかったのね」
「……お父さんがどうかしたの?」
「ルシル、よく聞いて。――明後日はもう入学式なの」
ルシルは思わずトランクを触る手を止める。
「……えっ、明後日‼」
ルシルは思わず声を上げる。
――お父さん、そういうことは言っておいてよ。
「それに明日には学校に向かうよ。寮に荷物預けなきゃいけないからね。だから今日はゆっくり休んでね」
ルシルが更なる驚きから茫然としていると、カーラは小さくつぶやく。
「……そういえば私も言ってなかったわね」
ルシルが恨めしげな視線を送るが、カーラはすでに明後日の方向へ視線を逸らしていた。
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