終章

新たな始まり

 またこの夢だ。

 見るのはずいぶん久しぶりな気がするが、意識は以前よりもはっきりしている。

 周囲は青い花々で溢れた花畑。いつもより低い視線と幾分か小さい自分の両手。前と違うことがあるとするなら、それは母の姿がどこにも見えないことだろう。

 ルシルは周囲を見回すが、そこには花畑がひたすら広がっているだけだった。


「……お母さん?」


 ルシルの不安の色を帯びた声が草花の間に消える。返答などはなく、ただ風が吹き、舞い上がる花びらの音だけが耳に届く。

 どうしたものかと思案していると、背後から声が聞こえてきた。それは母の声ではなく、どこか幼く、聞き覚えのある声だった。


 振り向くと、遠くに小さな人影が見えた。その人影は、手を大きく振りながらこちらに声をかけている。声に耳を澄ますと、それは自分の名前を呼んでいるようだ。


「ルーシー」


 その声はどこか懐かしさを感じさせるもので、ルシルはその方向に歩みを進める。足を動かすごとに、その声はより大きく、はっきりとしてきた。

 その声に引かれるように、ルシルは走り始めていた。花々の間を駆け抜ける風の冷たさが頬に心地よく感じられる。


「ルーシー」


 その声が再び響いた瞬間、視界がぐらつき始めた。世界がゆっくりと揺れ動き、ルシルは反射的に目を閉じる。しかし、瞼の裏で感じる不安定な感覚は収まらず、ついにその場にしゃがみこんでしまった。

 すると今度は、ゆっくりと落ちていくような浮遊感に襲われる。突然、地面が裂け、彼女の足元が崩れ去った。


「――!」


 落ち続ける中で、ルシルは何とかして目を開けようとした。すると、どんどん遠ざかる鮮やかな青空が目に飛び込んできた。そしてなおも、自分を呼ぶ声が聞こえてくる。


「ルーシー、早く――」


 その声はどこまでも追いかけてくるようだった。ルシルはその浮遊感に身を任せるが、なぜだか不安感はない。その声の懐かしさに包まれていくうちに、自然と気が遠のいていった。


 


 ルシルが目を開けると、そこにはアンナの顔があった。


「ルーシー、早く起きて。もう朝だよ」


 アンナの声は優しく、その顔には若干の呆れの色が滲んでいた。


「……アンナ?」

「おはよう、ルーシー。呼んでもなかなか起きないから心配したよ。そんなにいい夢だったの?」

「……まあ、そんなところかな」


 アンナは冗談めかして笑い、「早く食堂に行こうよ」と言って、今度はハナコを起こしに向かった。「ハナ」と名前を呼びながら、その肩をしっかりと揺さぶり始めた。最初の朝に比べて、遠慮がなくなった起こし方に苦笑しながら、ルシルは先ほどの夢を思い出す。

 青い花々――エレナによると、それは試練の前兆だという話だったが、あれはエドガーとの試合のことではなかったのだろうか。ルシルがベッドの上で思案を巡らせていると、アンナの声が再び飛んできた。


「もうルーシー、何してるの。早く準備しなきゃ」


 アンナの背後では、起きたばかりのハナコが眠そうに目を擦っていた。


「ごめん、ごめん」


 ルシルは誤魔化すように笑うとベッドから立ち上がる。


「ハナ、おはよう」

「……おはようございます、ルーシーさん」


 まだ眠たそうなハナコを見て、ルシルは思わず微笑む。ハナコはまだ夢の中にいるかのようにぼんやりとした様子だったが、まっすぐな黒髪が朝の光に照らされ、清楚な美しさが際立っていた。

 ふと窓の外に目を向けると、朝の光が空を染め、雲がゆっくりと流れている。遠くでは小鳥がさえずりながら飛び交い、その光景が新しい一日の始まりを告げているようだった。

 

 ◇◇◇


 その日の三限、本来であれば、カーラの担当である『魔法呪文学Ⅰ』の時間なのだが、ルシルたち一年Eクラスの生徒たちは、グラウンドに集められていた。


「先週は、突然授業を休んでしまって申し訳なかった。俺がこのクラスの『飛行術』の担当になったトム・ホーキンスだ。一年Eクラスの諸君、よろしくな。今日は先週の振り替えという形で、レイヴン先生の授業の時間を使わせてもらっている」


 ルシルはホーキンスを見て、サラとの自由研究の中で見た写真を思い出していた。写真には、飛行機の隣で白い歯を見せるパイロットの姿が写っていたが、ホーキンスはその彼に似ていた。正確には彼の格好が似ていたのだ。耳あての付いた革製の帽子をかぶり、色付きのゴーグルで目を覆っている。それに加えて、革製のジャケットに頑丈そうなブーツという格好は、教師というよりも、どこかの冒険家のような装いだった。

 その背後には無数の箒が、金属製のかごに無造作に入れられている。


「――いやあ、少し腰をやってしまってね。学校に来るどころか、家を出ることすらできなくなっていたんだ。まだまだ若いと思っていたが、もういい年なのかもしれないな」


 ホーキンスは良く響く低い声で豪快に笑った。笑い声がグラウンドに広がり、生徒たちの間には苦笑が広がる。


「なんだか胡散臭そうな先生だな」


 ギルバートがぽつりと言う。


「もう、みんな思ってるんだから言わないでよ」


 アンナは軽く窘めるが、ギルバートは鼻で笑い返した。


「早速、授業に入りたいところなんだが、俺もまだ本調子ってわけじゃない。第一回目ということもあるから、今日は、まずその場に浮くことから始めよう。――じゃあ諸君、周囲と一定の間隔を空けて広がってくれ」


 箒をまだ手にしていない状態で、ルシルたちは少し戸惑いながらも指示に従って広がった。その様子を確認すると、ホーキンスは懐から杖を取り出し、大げさに振って見せる。すると背後に無造作に入れられていた箒が一斉に飛び出し、生徒一人ひとりの前でピタリと停止した。その光景はまるで無数の鳥が一斉に羽ばたき、急停止するかのようだった。


 ホーキンスの表情はゴーグルで判然としなかったが、それが得意げであることは、ルシルにもはっきりと感じ取れた。そして、前にいるギルバートとアンナの顔が、大層なあきれ顔であることも。


「じゃあ、みんな箒にまたがって。飛行術で大切なのはイメージだ。自分が箒に乗って『浮く』というイメージを持つんだ。『飛ぶ』じゃないぞ、『浮く』だ。飛んだこともないのに『飛ぶ』状態をイメージするなんてことはできない。瞬間的な『浮く』状態の連続が『飛ぶ』状態に変わっていくんだ」


 ルシルたちは目の前の箒を手に取ると、言われた通りにまたがる。ルシルは飛ぶことに関して、それほど不安を感じていなかった。カーラに乗せられてではあるが、すでに二回も空を飛んだ経験があるからだ。


 ルシルは深呼吸し、心を落ち着ける。周囲の生徒たちも同様に、自分の箒を見つめていた。風がそよぎ、芝の香りが漂う中、心の中で「浮いている」状態をイメージした。


「――ん?」


 しかし、ルシルはすぐに違和感に気がついた。どれだけ心の中で「浮いている」状態をイメージしても、箒は一向に動く気配を見せない。目を閉じ、集中しても、空中に浮かび上がる感覚は訪れなかった。


 すでに周囲の生徒たちは次々と浮かび上がり始めており、あちらこちらから笑い声が聞こえてくる。アランやギルバートはもちろん、アンナやハナコも少し不安定ながら成功しているようだった。


「みんな上出来だ。浮くことができた者は、それをどれくらい維持できるかに挑戦してくれ。疲れたら休んでもいいぞ。何度も繰り返しやることで、飛ぶ感覚を身に付けることが今回の授業の目的だと思ってくれていい」


 ホーキンスの声がグラウンドに響き渡る。その声にルシルは改めて箒をしっかりと握り、自分を奮い立たせた。


 しかしその後、何度挑戦しても、ルシルは飛ぶことはおろか、浮かび上がることすらできなかった。周囲を見ても、浮かぶことができなかったのは、ルシル一人だけだった。

 周囲の生徒たちは楽しそうに浮かび上がり、笑い声を上げている。それとは対照的に、ルシルの胸中には、次第に焦燥感が広がっていった。


「じゃあ少し早いが今日の授業はここまでとする。箒はかごに各自戻しておいてくれ。――ああ、ベイカー君だけは残るように。もう少しだけ練習をしていきなさい」

「え?」


 ルシルは戸惑いの声を上げるが、ホーキンスは気にする様子なく白い歯を見せて笑いかける。


「ちょうど話しておきたいこともあったんだ。――いいかい?」

「……はい。わかりました」


 ルシルはそう答え、アンナたちに事情を説明するために駆け寄った。アンナとハナコは一緒に残ると言ってくれたが、ルシルはそれを何とか説得し、先に食堂に向かってもらった。アランも心配そうに見ていたが、ギルバートが彼の肩を叩いて促すと、何も言わずに食堂へ向かった。


 ルシルが彼らを見送ると、グラウンドには彼女とホーキンスだけが残った。周囲の喧騒が遠ざかり、静けさが漂う。


「ここだと少し話しづらい内容だから場所を変えようか」


 ホーキンスの言葉に、ルシルは黙ってうなずき、彼に従ってグラウンドを後にした。

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