試合掲示と魔法理論

 翌朝。今日は午前のみ授業がある。

 ルシルとハナコ、アンナは並んで校舎へと向かっていた。空は淡い朝の光に包まれ、草木の香りが爽やかに漂っている。しかし、ルシルの心は重く、足取りもどこか鈍かった。


「ルーシー、まだ落ち込んでいるの?」


 アンナが心配そうに声をかける。ルシルは肩をすくめてため息をついた。


「だって……」

「昨日は、惜しかったですね」


 ハナコも優しい声で慰める。


 結局、昨日の練習では一度も《衝波ブレスト》を成功させることはできなかった。そのまま陽が暮れ、《要塞ファーステン》の練習に関しては取り組むことすらできなかった。

 ルシルはもう一度ため息をつく。


「なんとなく上手くいきそうな気がしたんだけどなあ……」

「あたしも思ったよ。特にハナに助言してもらった直後とかね。あの時のルーシー、なんか力が漲ってるって感じだったし」

「私も思いました。ルーシーさんが目を閉じた瞬間から、辺りの空気が変わったような――」

「そうそう!」


 アンナが食い気味に相槌を打つ。


「そうだった?」


 アンナはうなずく。


「けど、いつの間にか……《衝波ブレスト》を唱えた瞬間かな、それが消えちゃった感じ」


 ルシルは考え込むように、うーんと唸った。


「……それなら魔力がないってわけじゃないんだよね」

「そうだね。あとはコントロールの問題なのかも」

「試合までに間に合うでしょうか……」


 ハナコの心配そうな声に、二人はしばし黙り込んでしまう。しかし、アンナはすぐに頭を振り、元気づけるように言った。


「まだ時間はあるんだし、頑張ってみよ!」

「……そうだよね」


 ルシルはアンナの言葉に少し元気を取り戻し、深く息を吸い込む。朝の冷たい空気が肺に染み渡り、少しだけ気持ちが軽くなる気がした。




 不安から重くなる足取りを振り切るように、三人はいそいそと校舎を目指す。校舎が見えてくると、その隅に人だかりができていた。


「なんでしょう」

「なんだろうね」


 ハナコとルシルが足を止めて、様子をうかがう。アンナも一瞬足を止めたが、すぐにまた歩き出していた。


「もう二人とも早く教室向かうよ。授業始まっちゃう」


 アンナがそのまま校舎へと入っていくのを見て、ハナコも急いでそれに続く。ルシルもその後を追おうとしたが、人だかりを通り過ぎる瞬間、彼らの視線の先にあるものが目に入り、足を止めた。


 それは古びた木製の掲示板だった。学校の歴史を物語るかのように、年月を感じさせる色褪せた板でできており、その表面には、釘で留められた紙が数枚貼られている。

 この三日間で目には入っていたが、何か思うことはなく、そのまま素通りしていた。しかし、今日はその中で一枚の真新しい紙が際立っていた。ルシルは何かを感じ取り、人込みをかき分け、その紙に近づいていった。

 その紙には、黒々としたはっきりとした文字でこう書かれていた。


『魔法実技試合 

 エドガー・グランツ 対 ルシル・ベイカー

 日時:明日午前十時  場所:グランドホール』


 ルシルは掲示板を見つめながら、その内容を一人で噛みしめた。試合の日程は明日、本来ならば休日となるはずの日だ。場所は入学ガイダンスが行われたあのホール。胸の中で何かが重く響くような感覚が広がり、足元が揺らぐ。


 ルシルはその場から逃げるように二人の後を追った。




 一限目の『基礎魔法理論』の授業が行われる場所は、校舎の二階の隅にあるこじんまりとした教室だった。ルシルが教室に入ると、生徒は数人が後ろの席に散らばって座っており、教室の薄暗さも相まってか全体に静かで少し寂しい雰囲気が漂っていた。ただアンナとハナコだけが、意気揚々と最前席に座っている。


「ルーシー、遅いよ」

「ごめん。教室が分からなくて」 


 ルシルはハナコの隣に座る。


「それにしても人が少ないね」

「そうですね。選択科目だからなのでしょうか」

「ああ、これ必修科目じゃないんだったね」


 ルシルは納得した。この『基礎魔法理論』は、魔法の基礎的な理論を学ぶもので、二年生次の『応用魔法理論』とは異なり必修科目ではない。この授業が設けられているのは、もしかすると自分たちのような魔法を教育機関で学ぶことがなかった生徒のためなのかもしれない。現にアランとギルバートの姿は見当たらなかった。


 そんなルシルの思考を遮るように、前方のドアが開き、カーラが教室へと入ってきた。

 この『基礎魔法理論』の担当教員はカーラだった。ルシルがこの授業を受けようと思ったのは、アンナに勧められたからというのもあるが、担当教員の欄にカーラの名前があったことも大きかった。


 カーラは、てきぱきと教壇へと立つ。


「皆さん、おはようございます。この授業は『基礎魔法理論』です。お間違えないですね」


 相変わらずの澄んだ声が教室に響き渡る。もとから静かであった教室が、緊張感のある静寂に包まれる。

 カーラはしばらく教室を見回し、生徒たち一人ひとりと目を合わせるように視線を送った後、ゆっくりと口を開いた。


「この『基礎魔法理論』では、魔法の根底にある原則と概念について、基礎から順に学んでいきます。魔法という学問は、深く複雑で、単なる表面的な理解を超えた先に真の知識を求めるものです。この授業は、知識の追及の第一歩を踏み出すための基礎となります。ここを疎かにすれば、その後の学びも不十分なものになってしまいます。十分注意するように」


 教室には一層の緊張感が漂い、生徒たちの顔には真剣な表情が浮かぶ。カーラは満足したように頷き、授業を始めた。


「魔法とは、単に超自然的な力を操ることではなく、厳密な原理と法則に基づく学問であることを、まず頭に入れておいてください。では授業に入りたいと思いますが……今日はまだ皆さんの手元に教科書が届いていないと思いますので、魔法理論の概要を軽く触れる程度にしようと思います」


 カーラはチョークを持つと、黒板を上下に二分するように線を引く。


「我々の世界は、主要な二つの次元が存在していると考えられています。一つ目は物質世界。これは我々が普段目にし、触れることができる現実の領域です。そしてもう一つが非物質世界、あるいはエーテル界とも呼ばれるものです。ここは思想、感情、精神的エネルギーが形を成す領域です。この二つの世界は独立しつつも、絶えず相互作用しており、魔法はその最たる例だと言えます。私たち魔法使いの役割は、これらの世界間の橋渡しを行い、魔法を通じて物質世界に影響を与えることだと理解してください」


 黒板の上側に「非物質世界」、下側に「物質世界」と追加される。


「この魔法という、複雑な相互作用を操るために必要なものは、大きくは二つです。

 まず一つは、魔力です。これは非物質世界のエネルギーを引き出し、物質世界での特定の現象を引き起こすための基本的な力であり、我々魔法使いが引き起こす事象のすべての源ですね。この魔力のコントロールが、魔法の効果の強さと精度を決定します」


 そこでカーラは振り向き、教卓に手を置く。


「中には魔力量が、魔法使いとしての資質の全てを決定すると考える者もいるようですが、それは正確とは言えません。魔力が多いということは、魔法を大規模に、そしてより強力に行使することを容易にしますが、一方でその制御が難しいという側面もあるのです。幼児期に見られる『魔力熱』はその最たる例でしょう。また、大人であっても『魔力暴走』を起こす危険も少なくないのです。――話が逸れましたね。より詳しく学びたい方は、四年次の『魔法病理学』などを履修することをお勧めします。

 要するに、自分の魔力量を正確に把握し、それをどうコントロールするか、それをどう活かすかを考えることが、魔法を扱う上では重要なのです」


 ルシルはカーラの言葉に耳を傾けながら、心の中でため息をついた。魔力のコントロールはまさに自分の直近の課題であるが、試合は明日の午前に迫っている。今からどうにかなる問題なのだろうか。不安が胸に広がる中、彼女は必死に授業に集中しようと努めた。


「そしてもう一つが、詠唱です。詠唱は非物質世界への要求を形式化し、特定の魔法効果を引き起こすための重要な行為です。言葉やフレーズは、非物質世界と物質世界の間でエネルギーの流れを調節するものと認識してください」


 カーラはそこで言葉を区切ると、杖を取り出す。


「《光よレオマ》」


 魔法名の詠唱とともに杖の先から光が放たれ、ルシルは目を細める。だが、その光は一瞬で消え、教室は再び元の薄暗い雰囲気に戻った。


「現在、私たちが使う魔法はほとんどが近代魔法に分類され、魔法名の詠唱によって魔法を行使しています。しかし、かつての魔法はそうではありませんでした。魔法名とは別に、固有に持つ呪文の詠唱を必要としてたのです」


 カーラは杖を軽く振り上げる。また魔法を使用するのかとルシルは身構えたが、今度はそこから数秒の溜めがあった。そして――。


「闇中の明星、我が手に集いて、暗夜を照らせ ――《光よレオマ》」


 今度は教室全体を光が包んだ。ルシルは完全に目を閉じる。まばゆい光が瞼越しにも感じられ、教室内が真っ白な光で満たされる。湧き上がった生徒たちのざわめきも、光の中でかき消されていた。


 しばらくして、光が次第に薄れ始め、ルシルはゆっくりと目を開ける。するといつの間にか杖をしまったカーラが平然とした様子で立っていた。


「この変化には、魔法使いのあり方が変化したことが大きな要因であったと考えられています。かつての魔法使いは、人々を導くことが大きな役割であったため、魔法の対象が天候や自然など、この世界へ行使することが多く、それは自然と大規模なものとなったのです。

 しかし、近代にかけてその対象が人個人、または魔法使い同士に変わり、魔法は規模ではなく、速度が求められるようになりました。――また話が逸れましたね。詳しくは三年次の『近代魔法史』の授業で聞いてください」


 カーラは誤魔化すように咳払いをする。


「――ここまで話を聞いてわかるように、呪文の詠唱の有無は、魔法の規模と効果に少なからず影響します。しかし、ここで注意してほしいのは、呪文の詠唱自体を、魔法の規模、効果を増大させるための安易な手段としてとらえてはならないということです。

 知っての通り、魔法の難易度は、発現させようとする事象の複雑さと規模によって異なります。基本的な魔法、小規模な魔法であれば比較的容易に学べますが、複雑で大規模な魔法の習得は、より高度な技術と深い理解を要求します。つまり、呪文を詠唱することで魔法の規模や効果を増大させるということは、その魔法による事象を複雑化させるということにつながり、そのために魔法の制御、コントロールが難しくなるのです。

 詠唱とは、ただ言葉を発する行為ではなく、非物質世界と物質世界の法則を理解し、適切に魔法を使用するための基盤であるということを忘れないでください」


 カーラはここで一呼吸置き、また続ける。


「魔法を正しく扱うには、正しい知識が不可欠です。その基礎的な部分を学んでいくのが、この授業でもあります。しかし、それだけでは不十分です。魔法の学習は、理論と実践の組み合わせによって成り立ちます。理論を理解することで、魔法の背後にある原則を把握し、実践を通じて理論を現実の効果に変えるのです。そして、その実践には常に高い倫理観と責任感が伴います。魔法の力は強大であり、その使用は世界に深い影響を及ぼすものでもあります。魔法使いとして、自らの行動が世界に与える影響を常に意識し、慎重に行動することが必要なのです。

 この『基礎魔法理論』の授業を通して、皆さんは魔法の基礎を学び、その応用を理解することになります。それは、知識の習得を超えた、魔法という深淵を探求する旅でもあるのです。その旅の中で。皆さんが多くを学び、優れた魔法使いへ成長することを、私は願っています」


 カーラは教壇の上で穏やかに微笑んだ。

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