クーデター勃発前

第004話 遺品

 ──クーデター勃発、三日前。


 ナルザーク城塞の麓、城下町。

 広場の噴水の風下に立ち、飛沫を浴びながら涼を取るディーナ・デルダイン。

 寒色系のノースリーブのシャツと、デニムのショートパンツ。

 素足にビーチサンダル、左手には多色を織り交ぜたミサンガ。

 城塞に来て早一年以上だが、相変わらずの日に焼けた褐色肌。

 これまた相変わらずの豊満なバストは、シャツの繊維をギチギチに引っ張っており、本来隠されるはずの腹部を露出させる。

 きれいに縦に伸びたへそが、世間へと惜しみなく披露される。


「は~……。海で泳ぎたい日が、まだまだ続くです。ラネットは港町へ行くって言ってたですね。予備役さんは気楽でいいです……」


 飛沫と残暑の日光を浴びててかるディーナの肌は、健康的を通り越して官能的。

 噴水の周囲に配されたベンチはカップルの憩いの場だが、この日は男たちの視線がディーナに釘づけで、連れの女性たちが殺気立っている。

 そんなことは知らないディーナ、湿ったクリーム色のウェービーヘアーを前からかき上げながら、健康的なつるつるの額、シャツのわきからこぼれ出そうな横乳、そして、髪と同じ色の腋毛をうっすら生やした腋の下を、無防備に晒す。

 周囲の男たちは、剃毛の気配がないナチュラルな薄い腋毛から、陰毛の量を予想しては両太腿で股間を押さえつけ──。

 周囲の女たちは、見るからに柔らかそうなその短い腋毛を、自身の剃毛の跡よりも美しいと感じ、肩をすぼめて腋をキュッと締める──。


「ふう……。まだ昼ですが、城に帰るですか。この辺りで一番水があるのが、城塞の水路というのは悩ましいです。しかも相変わらず、遊泳禁止ですしねー。もしわたしが砲隊長になったら、絶対遊泳OKにするです」


 踵を返し、噴水に背を向けるディーナ。

 そこには全身黒ずくめの、二十代半ばと思しき女が、向き合うように立っていた。

 裾と胸元をシースルーにした、漆黒のワンピース。

 通気性のよさそうな素材の、丸いつばの黒い帽子。

 大波のウェーブがかかった、黒い長髪。

 そして、遮光のための黒いくすみが入った丸眼鏡。

 黒くないものと言えば、肌と、白いハンドバッグと、濃いめの赤い口紅だけ。

 女がその、赤い唇を開く。


「戦姫團、ディーナ・デルダイン?」


「……はい。そうですが?」


「ふふっ……。軍属がそう簡単に、身分を認めてはダメよ?」


 自ら名を問うておきながらダメ出しをした女が、一歩ディーナへ寄る。

 ディーナの濡れた肌以上にてかる黒いヒールが、石畳を踏んでカッ……と硬い音を立てた。


「こういうときは即答せず、まずは言葉を濁し、先に相手を確認すべき。だけど、聞いていたとおりの、素直な子のようね。あなたのおにいさんから、聞いていたとおりの……ね」


「わたしの……にいさん? 兄の……知り合いですか?」


「ええ。でも先ほど言ったように、まずは立場を隠させてもらうわ。なにしろ軍機を持ち歩いているから。少し……人けのないところで話せない?」


 女が丸眼鏡をずらし、口紅と同じ色の瞳を覗かせる。

 身分はまだ隠すが顔は隠さない……という、ほんの少し信用を増すための挙動。

 能天気なディーナにも、その真意がなんとなく伝わった。


「はあ……。では、そこの木陰へ行くです」


 ディーナの先導で広場を離れ、そばの林へ数歩入る二人。

 黒いワンピースの女は、幹の太い木を背にして町側から身を隠す。


「これがバレれば、わたしの首が飛ぶわ。いろんな意味でね」


 女が皺の縒った大きめの茶封筒をハンドバッグから取り出し、ディーナへと差し出す。

 素直に両手で受け取ったディーナは、紙袋の中身を覗き、一瞬硬直。

 のち、左手を小刻みに震わせながら、紙袋へと入れる。


「これ……は……!」


 紙袋の中から、全体的に薄汚れ、ところどころ緑色のカビを生やした、白い海軍帽が現れる。

 ディーナは紙袋を地面に落とし、両手で帽子の端を握って、恐る恐る内側を確認。

 右の側頭部に、デフォルメされた意匠の、シャチのアップリケが縫いつけてある。


「デューイ……にい……さん!」


 その海軍帽は、海上での演習中に僚艦との衝突事故を起こして行方不明、そして殉職扱いとなったディーナの兄、デューイのものだった。

 シャチのアップリケは、幼き日のディーナが、海軍に登用された兄を祝ってこっそり縫いつけたもの。

 慣れない針仕事で何度も指を刺した、まだ日焼けが薄めのころのディーナ。

 いまの褐色の指に、チクチクと当時の痛みが蘇る。

 ディーナは頬を釣り上げて、溢れる熱い涙を堪え、帽子を凝視する。


「もしかして、にいさんは……。生きてる……ですか?」


 ディーナの問いに、女は首を小さく横に振る。


「海難事故の行方不明は、死亡と同義。海育ちのあなたなら、わかるでしょ?」


 ディーナは兄の帽子を固く握り締め、その繊維に大粒の涙をいくつも染み込ませながら、こくこくと頷く。

 それでもディーナの口からは否定の言葉が出そうになるが、下唇をめいいっぱい口内へ巻き込んで我慢し、海の女としての、軍人としての、矜持を見せた。

 女はディーナの様子が落ち着くのを待たず、話を進める。


「その帽子は、あの事故……いえ、があった海域で、回収されたもの」


「事件……です?」


「……そう。おにいさんの所属艦が、演習中に僚艦と衝突して沈没……は嘘。現政権が……政治家が、隠蔽したの。本当は……他国が秘密裏に建造していた潜航艇に、撃沈されたのよっ!」


「…………っ!」


 語尾を怒りで荒らげる女。

 その声の変調を受け、ディーナは怒りを手渡されたような感覚に陥った。

 女は声のトーンを一旦落とし、続ける。


「……現政権は、国家間戦争への発展と、そこからの敗戦を恐れて、事実を隠蔽。戦争回避、和平維持を建前に国王を抱き込み、相手国の罪を不問にしたわ。潜航艇も最新鋭の試作体で、システムの不調による誤射だったことから、相手国も大事になるのを避けたの。これが真相」


「その相手国って……どこです!? デューイにいさんの名前を知ってるあなたは……だれですっ!?」


「いまはまだ、国名までは言えないの。でもわたしの名前なら言える。海軍中尉、メイジ・スコルピオ。そして……」


 メイジと名乗った女が眼鏡を外し、ハンドバッグへとしまう。

 ディーナから視線を逸らし、目の端の涙を、指の背で拭う。


「……デューイと将来を誓い合った女。あの事件さえなければ、あなたの姉になれた女……」


 メイジが視線を正面へ戻して、ディーナの両頬へ手を添えた。


「ああ……ディーナ。やっぱりデューイの面影があるわ。あなたを妹と……呼びたかった。いえ、呼ばせてっ! わたしの妹……ディーナ!」


 メイジが正面から、ディーナを固く抱き寄せる。

 いつの日か……と、兄の生還を願って着けていたミサンガの辺りが、締めつけられるようにぎゅっと痛むディーナ。

 ディーナはメイジの肩に顎を載せ、堰を切ったように泣き喚き始めた。


「うあああぁああぁんっ! わあああぁあぁあんっ!」


 メイジはディーナの背中を優しくさすり、その深い悲しみをなだめる。

 そしてゆっくりと、唇の端を、いびつに曲げた。

 その歪んだ赤い唇で、ディーナの耳へと囁きかけ。


「近々、海軍内で……。いいえこの国で、変革が起こるわ。そのときディーナには、力を貸してほしいの。舵取りを誤ったこの国の、航路を正すために────」


 ────この一連の流れを、気取られることなく木の陰から伺う者が一人。

 陸軍戦姫團、先代團長のエルゼル・ジェンドリー。

 現在は麓の警察署に勤務する一巡査。

 白を基調とした制服に身を包み、左腕には松葉杖を携えている。


(あの女……におうな。会話は聞き取れないが、感動の対面……という単純な話ではなさそうだ。ディーナが手にしているのは、海軍帽……だな)


 エルゼルはわずかに出していた顔を引き、木に背中と松葉杖を預けて腕を組む。


(かつて蟲の回収を企んだ、海軍の連中……か? 念のため、に報告しておくか……。相変わらず、そりの合わぬ女だが……な)

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