第005話 ニッポンの見狐ちゃん

 ──クーデター勃発、前夜。


「あうううぅ……。はぐううぅ……」


 仕事机に両肘をつき、両こめかみを掴んで背を丸め、脂汗をかきながら、細めた瞳で眼下を睨みつけるリム。

 視線の先には、真っ白なページを開いたノートと、真新しい先の尖った鉛筆。

 リムはその姿勢と呻き声を、二時間前から続けている。

 丸まった背の後ろには、四つ並んだアシスタント用の机の一つに腰掛け、机上に足を載せている、巫女装束の女が一人。

 ないし

 令和日本での戦いののち、アリスとの入れ替わりでこの世界へと移住した「捨体じったい下僕獣げぼくじゅう」の一体、化獣けじゅうこと六日むいか

 他人そっくりに変化する術を有する、六本の尾を生やした六位一体の妖怪だったが、うち五体は戦姫の面々に討たれており、いまや尾は一本しかない。

 セリの邸宅に、彼女の主治医としてしばらく住み込んでいたのち、セリの顔朧症がいくぶん改善したのを見て、今度はリムの仕事場へと転がりこんでいた──。


「ふーむ……。きょうのネーム出しは、かなりの糞詰まりじゃのう。編集サイドの要望、やはり無理筋かの?」


 リムは姿勢を変えないまま、重苦しいトーンの声で返事をする。


「ええ……。脇役だった『ザイア』を主人公格へ引き上げろ……なんて、むちゃくちゃですよ。いくら読者人気一番だからって、数話先で死ぬ予定のキャラをレギュラー化しろなんて、横暴もいいとこです。こちらは頭を痛めて連載前に結末までプロットを作り、編集サイドからもオーケー貰ってるんですから……」


「じゃから連載前に言うたであろう。『ザイア』のような吐血系薄幸男子は、女性人気が高くなると。そして、感想の類を編集部へ送るのは、女性読者が圧倒的に多いのじゃ」


「だからこその、死亡退場を登場時点から予感させるキャラ設定だったんですよぉ」


「同情は入れ込みや母性に発展しやすいからのぉ……ぼりぼり」


 六日見狐は爪の先で弄っていたクルミの殻を二つに割り、実を親指で宙に放り、それをうまく口内でキャッチしてから食む……を繰り返す。


「ぼりぼり……。このまま『ザイア』を死亡退場させれば、編集部へのファンレターが、たちまち刃物入り封書に変わるぞい?」


「じゃあ本来のストーリーを捻じ曲げて、行き当たりばったりの綱渡り展開を、これから毎月描き続けろと言うんですかっ!?」


 リムは激しく頭髪を掻き乱したのち、両掌を机上に叩きつけ、その勢いで立ち上がって振り返り、血走った目を六日見狐へと向ける。

 六日見狐は動じることなく、次のクルミの殻を割り、実を口内へ放った。


「ぼりぼり……。まあ、主人公以外のキャラが人気になって困るのは、かの手塚先生も『ナスビ女王』で通った道じゃからのぉ……。この世界初の漫画家であるリムも、避けては通れまいて」


「お師匠様の世界でも……。このような理不尽が、あったんですか?」


「さしずめ、歴史は繰り返す……と、いったところかのぉ。回避策が、ないわけでもないが…………聞きたいかの?」


「き……聞きませんっ! わたしはお師匠様から、異世界の漫画の存在を教えてもらいました! それだけでも、この世界の歴史を改竄するほどの行いなのに……。見狐さんからこれ以上、ノウハウを賜るわけにはいきませんっ!」


「相変わらずの、堅物じゃのぉ……。しかしリムのそういうところが、わしは好きなのじゃ。まあ、儂の言葉をお師匠様の言葉とでも思って、聞いてみい?」


「くううっ……!」


 リムが反転して着席し、先ほど同様背を丸め、そして両耳を手で塞ぐ。

 しかしその手には、指の隙間が多くあり、周囲の声は十分に拾える。

 六日見狐もそれを察して、あえて突っこまず、独り語りの体を取った。


「昨今の日本の漫画界では、スピンオフという手法が常態化していてのう。これは人気のサブキャラを主人公とした、本編から独立した新作を立ち上げるものじゃ。作者のスケジュールに余裕がなければ、アシスタントの中で最も画力が高い者が、代筆を────」


 やや自慢げに話していた六日見狐が急に唇を閉じ、険しい表情で立ち上がる。

 窓辺へ行き、閉じられているカーテンを少し開け、外の様子を伺う。

 二階から見る窓の外は、近場にある樹木の枝以外は、漆黒の様相。

 六日見狐の瞳孔が開いて黒目がちになり、頭部から生えたキツネの耳と、顔の左右にある人間の耳、そして垂れ下がっている尾が、同時にピクピクと震えた。


「……ときにリム。ここ最近、原稿を落としたことはなかろうの?」


「い……いえ、ありません。わたしが締め切りを破ったのは、お師匠様の世界へ召喚されて、見狐さんたちと敵対したときだけ……です」


「ふむ……。さすればこの家を取り囲んでおる殺気ビンビンの連中、カンヅメ目的の編集者ではなかろうのぉ」


「えっ? ええっ……?」


「……軍人。軍じゃ」


「軍っ!?」


「儂は向こうの世界で、軍人というものをしっかり観察しておった。このキナくさい気配、間違いない」


 六日見狐はカーテンをそっと閉め、リムと向きあう。

 それから動揺しているリムの肩を掴んで、わが身へとわずかに引き寄せた。


「……リムは少し前、海軍広報部隊のイメージキャラクターのデザインを、請け負ったな?」


「え、ええ……。それが原因で、陸軍のフィルルさんと、縁が切れてしまいました……」


「さすれば外の連中は、味を占めた海軍……じゃろうな。リムの作家人気と画力を、プロパガンダに使う気じゃろうて」


「プロパガンダって……? まさかわたしを、海軍お抱えの漫画家に……?」


「……リム。時間がない、脱げい!」


 言いながら六日見狐は、巫女装束をはらっ……と全身から落とし、全裸になった。

 惜しげもなく豊満な裸体を晒した六日見狐を前にして、リムは口をぽかんと開けて硬直。

 六日見狐はその状態で、尾をピンと垂直に立てる。


「儂はで、変化能力を削られておる。いまはもう、衣装までは再現できぬのじゃ!」


 ──ボンッ!


 一瞬、六日見狐の全身が、薄い灰色の煙に包まれる。

 その煙が晴れると、裸体にして裸眼のリム……の姿を模した、六日見狐が現れた。


「急ぎ服を交換せい! 儂は本来、あの戦いで落命していた身! おまえのために散れるなら本望ぞっ! おまえの師匠がここにおらば、儂らにこう命じたであろう!」


「は……はいっ!」


 メグを引き合いに出されてようやく身の切迫を自覚したリムは、愛用のピンクが基調のドレスを脱ぎ去り、下着を床へ落とした。

 全裸で相対したリムを見て、六日見狐は両手を後頭部に当てて、上半身を反らす。


「サービスで、胸を少し盛っておいたぞい。にょほほほっ!」


 それから一分も経たずに、一階のドアの蝶番が銃で破壊され、海軍の男性兵数人が二階へなだれこんでくる──。


「……リム・デックスだな! われら海軍に同行願う! 決して悪いようにはせぬ! この国の次代を占う戦いに、加勢してほしいだけだっ!」


「ふむふむ……。儂の絵のスキルが役立つなら、いくらでも力を貸そうぞ! にょほほほっ!」


 ──リムは六日見狐が着ていた巫女装束を纏い、仕事部屋の隅の押し入れで身を丸め、漏れ聞こえる会話を記憶しつつ、恐怖に耐える。

 のち、周囲が無音になってから、恐る恐る押し入れの扉を慎重に開けた。

 仕事場にはだれの姿もなく、机上には原稿用紙や筆記用具の類が散乱。

 床には、手つかずのクルミの実が、四方に散らばっている。

 眼鏡を六日見狐へ貸したリムは、目を細めて視力を稼ぎ、現状の把握に努める。

 わかっているのは、仕事上の大切なパートナーになりかけていた六日見狐が、海軍兵によって連れ去られたということ。

 それも、自己犠牲によって──。


「どうやら……。戦姫團の皆さんのお力添えが……必要ですね!」


 異世界の巫女装束を身に纏ったリムは、そばにあったアシスタント用のいすの背を、ぎゅっと握り締めた。

 それから仕事場にある現金を搔き集め、路銀を調達。

 令和日本転移時に掛けていて、いまはスペアとなっていた眼鏡を着用。

 のち、一冊のスケッチブックを手に取る。

 令和日本での戦いにおいて、妖術画家・山田右衛門作から譲り受けたもの。

 戦姫たちを克明に描いたそのスケッチブックの最後のページには、たった二日間だけを過ごした異世界の恋人、天音。

 日本の歴史で語られるところの、天草四郎時貞のモノトーンの全身画。

 リムはその姿を一分間ほど凝視したあと、スケッチブックを閉じて、胸に強く抱きしめた。


「天音さん……。どうかわたしを……皆さんを守ってください────」

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