第51話 探しているもの
リュシアンに挑発的な態度を取りながら、頬を擦りつけてくるラミアに、急に得体のしれない恐怖がせりあがってくる。身を固くしたのに気づいたのか、ラミアの頬が離れた。
「寝室に行きましょう。あそこは日当たりが良いもの。ここは寒すぎるわ」
そして指先で軽く手を握り誘導するように引く。おれは静かについて行くことにした。横を通り過ぎる時、リュシアンは一瞬遮る仕草をしたが、おれがにらみつけると大人しく下がった。
寝室は最上階にある。リュシアンは後ろから着いて来ていた。でも扉の前まで着くとラミアが、「ミシェルに危害なんて加えないわ。女の子同士の時間を邪魔しないでちょうだい」と押しやったので、わたしたちだけで中に入った。扉が閉まる瞬間だ。ちらと視線をやると、彼の腰ベルトに剣が戻っているのが見えた。
両開きの窓は開け放したままだった。うららかな陽光が部屋を満たす。
懐かしいと感じた。小さい頃を思い出したのかも知れない。
不安が風に乗り消えていくかに感じる。
でもラミアは部屋に入るなり、引き出しを開けたり、棚の裏を見たりして、何かを探し始めた。天蓋のベッドでは、身を乗り出して枕やシーツの下を入念に確認している。
「どうしたの?」
「探してるのよ」
「何を?」
ラミアは中を確かめているのか、枕を弾まし膨らませてから平たくなるまで潰している。それでも目当ての物はなかったらしく、枕を放り投げてベッドに腰かけた。
「ミシェル、どこにあるの?」
「だから何を?」
ラミアは眉根を寄せ、腕組みしてわたしを叱るように見る。
「ポシェット」
「ポシェット? わたしの?」
「そうよ」
と、ベッドから腰を上げ、また探し始めるラミア。今度は戸棚を傾け、裏側を見ている。
「寝室にあると思ったのに。どこに隠したの、おチビちゃん」
「隠してないよ。ここにしまっただけ」
ベッドの下から木箱を引き出す。その中に細々とした持ち物を入れていた。ポシェットを手に取り、「ほら」と見せると、ラミアはまた怒ったように顔をしかめた。
「そんなところにあったのね」
「ベッドの下に置いたらだめなの?」
「その中にあるのよね?」
詰め寄るように素早く近づいてくるので思わず後ずさると、ラミアは止まり、片手を突き出した。
「出しなさい」
「何を?」
「質問ばかりね、ミシェル」
「ラミアが言葉足らずなんだ」
言い返すと、しかめっ面がふわりと笑顔に戻った。
「そうね。でも持ってるでしょう?
「十字架。捨ててないでしょう?」
ぐ、とポシェットを胸に抱く。
「どうして?」
「ん?」
「急になぜそんなことを聞くの?」
ラミアは微笑むだけで何も言わない。瞬きせず、こちらをじっと見ている。
吸血鬼を浄化し灰にする銀の十字架。ポシェットの中にある。彼女が触れると危険だから首にかけるのはやめて、布に包んで奥底にしまっていた。
「ミシェル」
ラミアの声はぴしゃりとした強さがあった。
「なぜまだ十字架を大事に持っているか、自分で理由がわかる?」
すぐに返せず、喉がごくりと動いた。
「吸血鬼に」おれは強調した。と同時にポシェットを抱く力も強くなる。
「出くわした時のためだよ。何があるかわからないから」
お守りだ。それに戦うために必要な武器。
でもラミアは面白い冗談を聞いたように頭を後ろに振って笑った。でも顔が前に戻った時、その瞳におかしみなど一つも含んでなくて、咎める強い力でわたしを見た。
「このわたしがいるのに、何を恐れるというの、ミシェル。レゾンに敵う吸血鬼なんて存在しないわ。いいこと、わたしは誰より強いのよ」
肩を、どん、と突いてくる。おれはポシェットを隠すように体を斜めにした。ラミアが怖かった。一切視線をそらさないで見つめてくる灰色の瞳が恐ろしい。口元を見てしまった。牙は見えない。瞳を見る。赤くない。灰色。でも。
「ミシェル」
ラミアがおかしくなってしまった。そうでしょ、こんなのラミアじゃない。やっぱりあれだけでは血が足りなかったんだ。もっと飲ませないと。そうしたら元に戻る。
「ミシェル、その十字架を捨てなさい。さあ、あの窓から捨てるのよ」
肩を掴み、窓辺へ向かわせようとする。振りほどき、彼女から距離を取った。
「どうしたの、ラミア。ねえ、ラミア」
腕を突き出して見せる。
「飲む? いいよ、好きなだけあげる」
「十字架を捨てるのよ、ミシェル」
「血が欲しいんでしょ?」
「いいえ、十字架を渡しなさい。でも、できないんでしょう、捨てるなんてできないわよね?」
「だって」
ポシェットを両手で抱く。中にある固い感触を感じた気がした。ラミアは口角を吊り上げて笑った。その唇からまだ牙は見えない。見えないけど普段より唇が赤く感じるのは気のせいだろうか。目も吊り上がっていないだろうか。光が当たると銀色に見えるはずの瞳が、今は橙色に見えるのは陽光の仕業なのか、それとも。おれはますますポシェットを抱く。
お守りだ、おれを守ってくれるもの、おれを——何から守るの?
「ミシェル。あなたがその十字架を捨てられない理由はね。わたしを倒す手段だからよ」
ラミアは一歩、二歩、と大きく踏み込んでくる。
「その十字架があればわたしが信じられなくなった時に退治できる。だから捨てられないの。これがどういう意味かわかる? あなたはね、ミシェル。わたしを信頼してないの、ねえ、そうでしょう、わたしの可愛いミシェル」
頬をするりと撫でてくる。
ぞわりとし、靴の中で爪先が丸くなる。わたしは今ラミアに怯えている。おれは彼女に怯えている!
「違う」
「違わないわ」
「ラミアが好き」
「倒す手段を得ているからね。わたしを殺せるから好きだと言えるのよ。その証拠に、あの隊長さんの愛は拒んだ。彼に勝てるものが一つもないからね」
違う。違う違う、違う。
荒っぽくポシェットを探り、布に包んでいた銀の十字架と取り出した。布を剥ぎ捨てむき出しにした十字架を持ち、窓から突き出した。
「捨てたら信じる? わたしがラミアを好きだって」
「いいえ。捨てても信じないわ。あなたが後悔するだけだって知ってるから」
「後悔しない」
手が震える。ラミアはわたしを見ている。
十字架は窓から落ちなかった。代わりに涙が伝う。
「ラミアが好き」
「わたしも好きよ、ミシェル」
ラミアは微笑んだ。怖くない笑みだ。柔和で暖かくて。春風を含んだような笑み。
何もかも彼女のほうが正しいのだと教えてくれる、そんな微笑みだった。
「十字架は捨てられない」
「そうね」
「ラミアが暴走したら、その時止める手段がいるもの」
「そんな日を待つ必要はないわ」
ラミアは十字架を握る手に触れようとしてきた。慌てて両手で囲い隠す。
「危険だよ。少しでも触れたら痛みがあるかもしれない」
「焼けるような痛みかしら」
「わからない。でも」
また手が震えてきた。おれは十字架を捨てられない。十字架を持っているからラミアと一緒にいられる。わたしが抱く愛なんて、そんなもの。彼女の指摘はあっている。
「ラミアの弱みを握ってるから、わたしはラミアが好きだと思うの?」
「そうよ」
ラミアが軽く励ますように肩を揺すってくる。
「あなたが探しているのは何だったか知ってる? 小さい頃から探してるもの、それは何か思い出せた?」
探していたもの、求めていたもの。
思い出せない。
わたしは何を探していたの。
ふと、人魚のようなママンの姿が脳裏に浮かぶ。光の中へ溶けて行こうとしている人。彼女が欲していたものを、わたしも探している。
それは、愛ではなかった。愛なんて曖昧なものに、幸せを見出すことなんてできない。安らぎを求めることも、確信を得ることも。勇気を奮い立たせることもわたしにはできない。
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