第44話 妖精の歌を口ずさんで森を駆けていく

「ラミア。おれだよ、ミシェル。ねえ、ラミア」


 馬から下り森の中を歩く。最初は用心して囁き声で呼んでいたが、誰かに後をつけられている様子もなかったので、奥へ奥へと踏み込むにつれて声を大きくしていった。


「ラミア。いないの? おれ一人だよ。弩は持ってない、ほら」


 両手を大きく広げてくるりと回る。昼間に討伐隊と出くわしたばかりだ。ラミアはもうこの森にはいないのかもしれない。


 それでも他にどこへ行けば会えるのかわからなくて、当てもなく歩くしかなかった。立ち止まり耳を澄ませ、それが鳥の羽ばたきだったり、風のそよぎだったりするのを確認しては、「ラミア」と呼び続ける。


「いないの?」


 静かだ。悲しみなのか恐怖なのかわからない感情が胸の奥にずしりと重く落ちてくる。再び、ラミア、と呼んだ声は震えていて、囁き声にもならなかった。


 ほとんど諦めかけていた。かつて迷子だったあの時のようにうずくまり泣き出したかった。そうしたら迎えが来たんだ。


 背後に気配を感じ素早く振り返る。木々と茂みがあるだけだ。


 それでも心臓が早鐘を打つ。苦しいほどの動悸。すとん、と彼女はしなやかに着地した。彼女は木の上にいたのだ。そこから降りてきた。でもその一瞬の出来事はまるでラミアが天界から降りてきたような錯覚を起こした。月夜の森の中で、ラミアの白い肌は照るように目立ち、灰色の瞳は銀色に、黒髪は幻獣の羽のように艶めいていた。


「あなたでわたしをおびき出そうって魂胆じゃなさそうね」

「ラミア」


 駆け出して彼女に抱きつく。ラミアの温もりを感じ取れない程、感覚は冷え切っていた。おれは彼女から少し顔を離し、その目をのぞき込んだ。


「ラミア、怪我はしてないよね。おれがあいつらに家を教えたわけじゃないんだ。だって、いつも馬任せで通っていたし、森のどこをどう進んだら到着できるかなんて知るわけが——」


 ラミアの指先が唇に当たる。


「その言い方だと、場所がわかっていたら仲間を引き連れてレゾンを討伐した、って聞こえるけど?」

「違う、そうじゃない」

「わかってるわよ、おチビちゃん。わたしに怪我はないわ。でも、あの隊長さんはどう? あなたが杭を打ち込んでしまった隊長さんだけど」


 ラミアは大股でゆっくり、一歩、二歩、と下がる。おれは逃げる煙を追うように宙で手を掻いた。


「いかないで、ラミア」

「何しに来たの、ミシェル。隊長さんはご立腹かしら? それとも生死をさ迷っているの?」

「リュシアンは無事だよ。仲間の中に治癒の神聖力を持つ隊員がいるから。もう何でもない、元に戻った。ねえ、ラミア」


 駆け寄りたいのに足が動かなかった。まるで沼に沈んだかのよう。踏んでいるのは何の変哲もない雑草と木の葉の積み重なった地面だというのに。


「ラミア、おれに何かしてる?」

「吸血鬼はね。それもながーくながーく生きている吸血鬼はね」


 ラミアはくるくると宙で指を回す。おれは動こうとしたがますます沼に沈んでいくような感覚で、喉元あたりまで締め付けられ苦しくなってきた。


「ラミ、ア」

「不思議な力を持つようになるの。素晴らしいでしょう」


 円を描いていた彼女の指が止まる。


「何しに来たの、ミシェル」

 それから、すっと目を細める。

「その背中に大事な大事ないしゆみを持ってきていないようだけど。でも首には」

 ゆるゆると否定の動き。

「その十字架があれば十分って訳ね」


 ラミアは腕を組むと、おれの周囲をゆっくり歩き始めた。


「何をしに来たの、ミシェル。一人きりで手柄を立てに来たの?」


 違う、と言いたくて声を出そうとしたが、発したはずの声が音にならない。く、は、と呼吸が乱れるだけ。おれは必死に首を振ろうとして、ぴくぴくとこめかみが動く。


「違うの?」


 ラミアが立ち止まる。滑るような足取りで、眼前まで急に迫ってきた。


「違うの、ねえ、違うの?」


 灰色の目が問う。何も考えられなくなる。お前を倒す、そんな言葉しか選択肢はない。でも、あらんかぎりの意識で否定して、おれは念じた。


(会いたかったの)


「へー」


 ラミアが指を鳴らすと、体を締め付けていたものから解放された。脱力と共に、どっと汗が噴き出る。


「ラミア。おれ」

 は、は、と短く呼吸してから、大きく息を吸う。

「わたし、魔女だと認めたんだ。だから、修道院から逃げてきた」


 ラミアの眉がぴくりと動く。


「逃げた?」

「出てきた。あなたに会いたくて。あそこにはもういられないから」

「いたくない、ではなく?」

「いたくない。リュシアンが」


 強く目を閉じると、跪く彼の口から発せられた言葉が耳に響く。

 わたしはイヤイヤするように首を激しく振って追憶を払った。


「わたし、魔女だから。ラミア、あなたと一緒にいたい」

「バカね」


 ラミアはわたしの頭を撫で、頬を撫で、肩を撫でた。


「教会に魔女だと告発すると言われたの? あの隊長さんに?」

「ううん。でも父が死にそうで。それで」


「ミシェル」彼女は目の前でぱんと手を叩く。

「ゆっくり話して、聞いてあげるから。だからそんな苦しそうに息しないの」


 だから、わたしたちは太い木の幹に並んで寄りかかり、ぴたりと肩をくっつけて座った。ラミアは辛抱強く話を聞いてくれた。何度も止められて、「それはいつの話?」や「それは誰が言ったの。リュシアン? それともあなた?」と、厳しい声で質問がされたけど、答えるたび、「ふーん、そう。続けて」とまた耳を傾けてくれる。


 自分でも何が言いたいのかわからなくなって。涙が出て拭っても拭っても溢れてきた。話して、また泣いて、しゃくりあげて、泣いて、話して、また何が言いたいのかわからなくなって泣いた。


 ラミアはおれが話し終わると、「わかった」と言ってこつりと頭を軽くぶつけてきた。そして触れ合っていた手を強く絡ませ、「わかった」と小さくまた言った。


 しばらくわたしたちのどちらも何も言わなかった。互いの鼓動を感じたがるように腕と腕が密着していた。夜は長く感じられた。永遠にこのまま月の世界が続き、人間は消え失せ、獣は眠りについたよう。そんな夢を見ている気がした。


「あの古城はどうなった?」


 頭上には、ぽっかり空間が広がり、見える星を眺めながら聞いた。ラミアは「さあ」と答え、わたしの肩に頭をあずけた。


「まだあるかもしれない。行ってみる?」


 それでわたしたちの目的地が決まった。


 ラミアが指笛を吹くと乗り捨ててきた馬が駆けてきて、彼女の手に鼻づらを押しつける。


「この子、二人で乗っても平気かしら?」

「余裕だよ」


 おれは鐙に足をかけ、鞍に乗る。後ろに下がり、前に乗る空間を開けた。


「乗って。早く」


 手を掴み、ラミアを引き上げる。おれの前に乗った彼女を後ろから抱きしめた。


「なんだかとってもわくわくする」

「わたしもよ」


 肩越しに振り返った彼女の額と頬が触れ合う。

 そのぬくもりだけで、何もかもに肯定してもらったような気になった。


「ねえ」と彼女は囁いた。

「本当にわたしと行くのね? 隊長さんに未練はないの?」


「ない」わたしは呼吸し、再び言った。

「未練なんかないよ。だってもう十四歳じゃないんだもの。欲しいのは男の腕じゃなくて君さ」


 強く抱きしめると、ラミアは寄りかかってきた。


「熱烈」

「嬉しい?」

「どうかしらね」


 森を駆け、肌に感じる風の冷たさと彼女の体温に心地よさを覚えた。ふいに浮かんできた歌を口ずさむ。


「その歌、覚えてるのね?」

 過ぎる風にかき消されないようラミアは声を張り上げる。

「わたしが昔教えた歌だわ」


 今度は彼女が歌う。その声に合わせてわたしも歌う。馬もリズムを楽しむように駆けていく。


 その歌は森に迷い込んだ男を死の泉に落とそうと誘う妖精の歌だ。


 おいでおいで わたしのところに

 素敵なあなた この手にさわって

 

 おいでおいで わたしのところに

 素敵なあなた この泉で遊びましょう


「朝ね」


 ラミアが昇る陽に目を細める。もうすぐ森を抜ける。

 見えてくるのは街だ。

 まだプリュイ領。でも修道院からはうんと遠い。

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