第45話 二人の逃亡者
その街の名前をおれは知らなかった。ラミアは「昔、来たことがある」とは言ったけれど、何という街かは教えてくれなかったからだ。
おれは地図を見るのが苦手だ。地理も苦手。討伐隊ではいろんな場所に行ったけれど、いつもリュシアンに任せっきりだったから、どの方向に行けば何という街があるかなんて……と思考が進み、考えるだけでなく歩行まで止めてしまった。手綱を引いていたラミアが、それに気づき振り返る。
「服を買いたいわ」
「いいよ」
「あなたのよ?」
「おれ?」
自分を見下ろした。
「汚い?」
「シアン・ド・ギャルド様です、ってバレバレの恰好で平気ならいいけど」
おれは眉をしかめた。紋章の入った腕章と外套は脱いで、ぐるぐる巻きにして馬の鞍に括り付けてある。
「今の恰好でもバレちゃう?」
「見る人が見ればね。わたしたち逃亡中でしょ?」
逃亡中、って言葉が気に入った。にんまりすると、ラミアは吹き出した。
「危機感のない逃亡者さんね」
おでこを指でぴんと弾かれてしまう。
「まずは宿を見つけましょう。わたしが服を買ってくるから待ってて。着替えたら他の買い物には二人で行きましょうね。旅の準備がいるから」
「この街で一泊するの?」
歩き始めていたラミアが止まり、困った子ね、という顔をした。
「いいえ。すぐ発つわ。あなたが往来のど真ん中で着替えるっていうなら宿は取らないけど」
「うーん」
「悩まないでよ」
ラミアはますます困った顔になり、それから声を出して笑う。
「宿を取りましょう、お金はあるから。長生きのおばあさんは何が起こってもいいよう、たくさん貯めてあるのよ」
交易の街から比べると、今いる街は小さく、必要最低限の店がぽつぽつある程度だった。旅の途中寄る人が多いのか、宿だけはたくさんあり、おれたちはその中でも一番見栄えがする店を選んで部屋をとった。
「泊まるわけじゃないのに」
おれは鞍から解いてきた外套と腕章をテーブルに置くと、ベッドに座った。
「もっと安宿にしたほうが節約になる」
「貴族が何をケチ臭い。だいたいお金はわたしが支払うのよ、文無しさん」
「もっと計画的に逃亡してきたらよかったね」
「あなたは意外と激情家なのよ。思い立ったらすぐ行動。わたしがいて良かったわね」
それからラミアは、おれの前に叱りつける乳母のように立つと命じた。
「ミシェル、良いこと? 最初に言っておきたいのは、こんな街道沿いにある町の安宿はゴロツキしかいません」
「そうなの?」
「お年寄りの忠告は黙って聞くものだわ」
「わかったよ」
「わたしは今から服を買ってくるから大人しく留守番してて。出来るわね?」
おれはベッドから腰を上げかけ、ラミアが人差し指を突き付けてくるので、また座る。
「一人で買い物? 危険じゃない? 今ゴロツキばかりだって言ったろ」
「どこの誰が討伐隊員を指先ひとつで吹っ飛ばす女に危害を加えるというの」
「でも」
おれはまたもじもじして、ラミアの嘆息に気持ちが沈む。
「絶対帰って来てね。いなくならないでよ」
「おチビちゃん」ラミアは腰をかがめ、頬にキスしてくる。
「すぐに戻るから、わたしを探しに出ようなんてバカな真似しないでね」
だからおれは、古着屋を探しに行くラミアを窓から見下ろして手を振り見送る。それからベッドで横になり、ひと眠りしようとした。でも不安で無理。落ちつかない。ソワソワして結局窓辺に椅子を運ぶとそこにはりつき、ラミアが戻ってくるまでずっと通りの様子を眺めていた。
「あなたって人は仔犬ちゃんね」
部屋に戻って来ると、ラミアはすぐさまそう言った。
「隊長さんが求婚したくなるのもわかるわ」
「逃げたけどね」
「訂正。仔犬より仔猫ちゃんにしましょう」
ラミアが買って来た服は女物だった。羊毛製の茶色のワンピース。胸に当ててみる。
「おれ、これ着ないとダメ?」
「嫌なの?」
「少し」
手の中のワンピースを黙ってじっと見つめていると、ラミアはそれを奪い笑う。
「ごめんなさい、これはわたしの。着替えが一枚くらいあってもいいでしょ。あなたはこっち」
「良かった、男物だ」
「やっぱり女物は抵抗ある?」
「ちょっとね」
ラミアはさっきのおれのようにワンピースを胸に当て、くるりと回る。
「わたしには似合う?」
「うん。おれ魔女でいるほうが気楽なんて変だよね」
「慣れの問題でしょう。長く男装してたなら、それが今のあなたなのよ」
それからラミアはワンピースを手早く畳み、言った。
「着替えたらすぐまた買い物に出るわよ。まさかわたしの前で服を脱ぎたくないなんて言い出さないわよね。後ろを向けとでも?」
「着替えるよ。でもやっぱり後ろ向いてて、恥ずかしいから」
だけど二人ともすぐには出発できなかった。ラミアが「男装してみたい」と言って、おれが脱いだ討伐隊の服を着てはしゃぎ出すし、「それならわたしも」とおれもワンピースを被って裾を広げてくるくる回ってみたから。
「似合うわね」
「そうかな。ラミアは似合わないね、それ。なんだかやらしいな」
「娼婦がしそうな恰好だものね」
「そうなの?」
「客の服を着て遊ぶのよ。娼婦っぽいわ」
「胸だね」
遠慮なく指摘する。ラミアは膨らみが大きい方だから。
「押さえてないから君のそれじゃ目立ちすぎるんだよ」
「嫌な人」ラミアはむくれた。
「あなたのように颯爽とした男にはならないって言いたいのね」
「おれは颯爽とは程遠いヒヨコだよ。ぴよぴよ」
ちゃんとお互いの服に着替えなおすと、やっと二人で外に出て腕を組み歩いた。
おれが男装のままなのは、「女の二人旅は危険でしょ。たとえ騎士見習いと吸血鬼の組み合わせでも」という事情らしい。そういうものか。べつに女物を着たいわけではないからいいのだけれど、逃亡を完璧にするには男装はやめて女に扮したほうが——いや、どちらにせよ、誰も追って来やしないさ。好きにやろう。
「わたしたち恋人同士に見えるかしら」
「娼婦と客に見えるかって?」
「ヤな人」ラミアは腕をつねってきた。
「友だちか姉妹が良いな」わたしはラミアの肩に頬を傾けた。
「一人っ子だし、友だちもいないから」
「恋人はいたのかしらね」
「結婚したことあるもの」
「ああ、そうだった」
それから数秒、黙って歩き、ラミアが先に口を開いた。
「わたしたちは友だちになれるの?」
「なれるよ」
わたしは絡めた腕を引き寄せた。
「なろうよ、うんと仲の良い友だちに」
ラミアは返事をしなかった。でも横顔は微笑んでいたような気がする。
旅の準備を整えると宿に戻り、一泊分の金を支払ってから馬に乗って街を出た。
「全額請求してくるなんて酷いね。滞在時間なんてほとんどなかったのに」
「揉めても損よ」
前に座るラミアが寄りかかってくる。
「時間がもったいない。数コインくらいで旅の楽しみを失いたくないわ」
街道を進んでいたが、やがて整備の悪い道になり、馬も疲れたころまた新しい街が見えてきた。今日はそこで休むことにした。今度の宿は朝に寄った店より古びていて狭い部屋だったが、主人も客層の雰囲気も穏やかで気に入った。食堂で豆のスープとパンを食べ、早々に部屋に引き上げ、同じベッドに並んで横になった。
「この部屋にはベッドが一つしかない」
「雑魚寝より助かると思いなさい」
「やっぱりラミアひとりでベッドを使う?」
「おチビちゃん」
仰向けの姿勢でいたラミアは寝返りを打ち、こちらを向く。
「良い子だからもうお休み。明日も早朝から馬を走らせるわよ」
でも眠たくなかった。ラミアも目を閉じてはいたけど眠ってはいないようだった。階下から酒に酔う男たちの声と調子はずれの歌が聞こえてくる。
「下手くそ。変な歌だね」
「恋の歌だわ」
「これが恋? 下品」
「たしかにそうねえ」
「ラミア」
「なあに?」
うつ伏せになり、手をついて上体だけ起こす。
「血は飲まなくて平気なの」
「その話がしたい?」
「したい」
ラミアは起き上がり、目元を指差した。
「この灰色の瞳が充血して赤くなり、口から牙が覗くようになったら注意して。レゾンでも理性が保てなくなっている証拠だから」
ラミアは口を開け、犬歯を見せる。その歯は白く小さめだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます