第29話 雨、スープ、吸血鬼

 きっかけはたぶん、雨だ。


 十日ぶりに森に住む彼女に会いに行った。日数が開いたのは、フォア卿とのことがあって、彼の目を多少警戒したからだった。でも、あの夜以来、フォア卿との間で何も起こらなかったので、城外の森まで出てみる気になったのだ。


 明日も来る、とか、明後日にまたね、とか。家を出るたびに次の約束をしていた訳じゃない。それでも頻繁に通い詰めていたので、急に十日開けてしまうと相手の反応が気になった。


 だから疎遠にした恋人に謝るように、おれは塩漬けの豚肉を厨房からもらってくるだけでなく、菓子店に寄って焼き菓子を数種類購入した。


 宿で馬を借り、城門の橋を渡る時だ。見上げた空は明るくすっきりとした青空だった。それが森へ入った途端急転した。生温い風、周囲が湿り気を帯びてくる。


 そして雨はどっと降ってきた。小石がぶつかるように、殴るように、視界が霞むほどの勢いで。でも馬は止まることなく、あの家へ連れて行ってくれる——いつも、そうだ。どの馬でも指示は何もいらなかった。


「突然降って来たでしょ。とんでもない音よね」


 下馬したと同時にドアが開く。彼女の招く仕草にためらいなく中に入った。床に水滴が落ちるのを見て、慌てて謝罪する。


「床、あとで拭くから」

「それより着替えたら?」


 一部屋だけの家は暖かかった。暖炉では薪が小気味よく音を立てて燃えている。

 彼女は棚から衣類を出すと机に置いた。


「これに着替えるといいわ。あなたとわたしならサイズもそう違わないだろうし」


 それからいったん彼女は背を向けたが、おれが動かないのを気にして、「どうしたの」と振り返る。眉をひそめている表情に、おれは濡れた髪に触れながら口ごもる。「うん、着替えるけど」と、彼女は「恥ずかしがる必要はないわ。じろじろ見たりしないから」と笑う。


「スープを作ってあげる。忙しく働くからあなたの裸を見物する暇はありませんから安心して。それとも着替える間、わたしはこの雨の中、外に出てなくちゃいけないの?」


 腰に手を当て、窓を指差している。土砂降りの音が薪の燃える音をかき消すほど響いていた。


「ごめん。ちょっと恥ずかしくて」


 彼女は小さく肩をすくめた。品の良い仕草だった。


「いいのよ。風邪ひいちゃう前に着替えなさい」


 そして再び背を向けスープの支度に取りかかる。おれは「肉を持ってきたよ」と革のポシェットから、塩漬けの豚肉を出して置く。それから、彼女が服と一緒に置いた布を広げて髪を拭いた。「あとでいただくわ」と背を向けたまま返事。


 上着を脱ぎ、椅子の背にかけると、窓側を向いてシャツのボタンを外した。雨は降り続いている。まるでこの世を水底に沈めるみたいな勢いだ。風も強さを増し、柱や天井が軋む。


「馬は大丈夫かな」

「平気よ、人間よりうんと強いから」


 彼女はまだ背を向けていた。具材を切っている様子だ。こちらをいつ見るかと警戒して、ボタンは外しても、まだシャツを脱がずにいると、彼女が手を止め、大きく息を吐く。


「ミシェル」


 その声は昔からの友が名前を呼ぶようだった。


「いい加減にして。本当に風邪をひくわ。それともこんな時に、女物のシャツ一枚着るのが嫌な理由でもあるの?」


 おれ、と発した声はかすれていた。呆れているのか、怒った目をしている彼女は、少しだけ横顔を見せた。


「あなたに名前、教えたっけ?」

「昔ね」


 彼女は前を向き視線を手元に移した。何かを切っている音がする。いや、音は雨で聞こえない。彼女の仕草でそう感じただけだ。おれは神経が過敏になっていた。耳の奥が詰まったような、くぐもった感じがする。


「君、ラミア?」


 彼女は手を止めた。戸棚へ向かい、背伸びすると何かを取ると、おれと向き合った。

 木の小箱だ。彼女は中を開けて見せた。紅色の飴が入っている。


「まだこの味が好き?」


 一粒摘まみ、おれの口に近づけてくる。体を引くと彼女は笑い、自分の口に放った。


木苺フランボワーズ


 微笑する。当時のラミアより、うんと妖艶。視線は射るよう。

 食べていないのに。おれの口の中で飴の味が広がっていく。


「着替えなさい」彼女は用意した服へと顎を振る。

「濡れネズミは可愛くないわ、ミシェル。下着もあるから全部着替えるのよ」


 そして何事もなかったようにスープ作りを再開する彼女に、おれは奇妙な夢を見ているようだった。熱っぽくも感じる。風邪を引いたのだろうか。胸元に提げている十字架を握った。弩は持ってきていない。戦う術はこれ一つだ。


 ざく、と切る音がした。


 そして気づく。雨がやんでいる。まだ薄暗く、夜のように陰っているが、雨はぴたりと止み、周囲の音は怖いほど良く聞こえる状態だ。


「おれが何者か知っているのに、よく家に招き入れてたね」

「何のことかしら」

 ざく、ざく、と音が続く。

シアン・ド・ギャルド番犬聖騎士団

「わたしを狩るの、ミシェル」


 刃物を持ったまま、彼女——ラミアが振り返る。その姿に危機や焦り、挑発もない。ただ困った子を相手する母のように疲れた顔をしている。


「着替えなさい、ミシェル」

「この十字架は」


「わたしは最初からあなたが誰で、何をしているかも知っていたじゃない。今さら何を威嚇してくるの。あなただって、わたしをただのそっくりさんだと思っていた訳じゃないでしょう」


「銀製の十字架だ。お前を浄化する」

 おれは一歩前に踏み出した。

「お前はレゾン理性を持つ吸血鬼だ、そうだろ?」


 ラミアの視線が十字架へと下がる。


「触れると火傷するのかしら?」

「灰になる、一瞬で」

「まあすごいのね」


 そしてラミアはまた上品な仕草で肩をすくめると、スープを作る作業に戻る。ざくざくざく。おれは十字架を強く握った。手のひらにくっきり装飾の跡が残るほど強く。


 でも。


「さあ召し上がれ」


 スープは具沢山だった。この暮らしぶりにしては贅沢なもてなしだ。豆にカブ、キャベツとサイコロ状の肉。これは以前持ってきた塩漬け肉だろう。今日の分は大事に棚にしまうのを見たばかりだから。


 着替えた服は麻のさっぱりした白のネグリジェだった。寒がっていると思ったのか、ラミアは肩掛けも貸してくれた。スープを匙ですくって飲むとまるで病人の気分だった。


「いつ、あのミシェルだと気づいたの?」

「そうね」


 彼女は食べるわけでもなく、くるくると皿の中で匙を混ぜている。


「森で最初見つけた時」

 と、彼女は「迷子の時じゃなくて怪我した時よ」と付け加えて微笑む。

「昔遊んだ子どもに似ていると思ったの。だから放っておけなかった。成長したらきっとこういう」


 彼女は一瞬混ぜていた手を止め、


「こういう青年になる未来もあるかしら、って」

「だから家に運んだ、って。討伐隊の人間なのに?」

「気絶してたもの。それに人間一人なんて、わたしの相手じゃないわ」


 笑った彼女はおれより華奢に見える。でもその力は、軽くひと捻りで腕の骨を折るくらい容易いのだろう。


「もしも似ているだけじゃなくミシェル本人だったら、君の正体に気づいてしまうよ。歳をとってないんだから。それでも平気だったなんて信じられないな」


 彼女は少し考えてから口を開いた。


「家に運んだあと、あなた、汗をかいていたし苦しそうだったから着替えさせようと思ったの。でもやめた。服が変わっていると気づいたら、あなたが動揺すると思って」


「ラミア」

「何?」

「おれが仲間を連れてここへ乗り込んでくると思う?」

「弱みを握っているから平気よ」


「君は強いね」

「吸血鬼だから当然でしょ」


 おれは匙を口に運びかけたけど、皿に戻した。


「おれは魔女だ。でも弱い」


 ラミアは指先でおれの頬に触れた。


「どうしてそうなっちゃったの、ミシェル」


 どうしてだろう。

 ラミアの瞳を見つめていると、言葉が自然とこぼれ出る。


「ミシェルが死んだからかな。もう一人のミシェルが」


 伴侶のミシェルは吸血鬼に噛まれ、感染し、死んだ。おれが殺した。

 今、目の前でスープを飲んでいる女も、吸血鬼だ。

 彼女はラミアで、古城の貴婦人で、今は森に住む若い娘なのだ。

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