第48話 血を出す、血を飲む

 古城は幼い頃に見たそのままの姿に見えた。


 記憶にある城壁にも、あちこちに苔や草が生えていて、ひび割れた箇所もたくさんあったから、過ぎた年月を感じなかったのだろう。


 でも中は違った。荒れ果てている。家具はどれも使い物にならない。土砂降りの中に放置したみたいに汚れて腐り、洪水に遭ったように配置もめちゃくちゃだ。机は逆さで脚は三本、椅子は窓を割り半ば飛び出している。


 だからわたしたちは燃やせる家具はすべて外に運び出した。食器棚の中には見覚えのあるカップやポットが残っていたけど、ほとんどが割れてしまっていた。使える物だけ並べ、残りはさらに砕いて裏庭の砂利に混ぜた。


 最上階にあるラミアの寝室も様変わりしている。女王様の部屋はすっかり落ちぶれた。ベッドは真ん中がくぼんで折れていたし、白かったはずのシーツは黴で黒くなっている。垂れ下がる破れた天蓋が、涙を拭っている老婦人みたいで怖くもある。


「街まで出かけましょう」

 ラミアが言った。それからわたしの頬を触り、

「一人で行ってきましょうか?」と気遣う。その理由がわかっていた。


「知り合いに会うとは思えないから一緒に行くよ」

 わたしは自分のシャツの裾を引っ張り、皺を伸ばす。

「この服装なら知り合いだって、あのおチビのミシェルだと思わないでしょ」


 それでも市場に到着すると緊張した。すれ違う人の中に、幼いミシェルを知る者がいたらどうしよう。動悸がして手足が冷える。ラミアが優しく腕を組んできた。


「行きましょう、ほら顔を上げて」


 市場の通りは栄えていると感じた。どの店も活気がある。この街に新しく越してきた人間みたいに振舞いたかった。そうすることで信じたかったんだ。この瞬間がずっと続くって。おれとラミアの新生活がこのあと何十年も続くのだ。


 馬に悪いと思うほど、あらゆるものを買いこんで古城に帰った。


 掃除して料理して。夜になると壊した家具に火を点けて旅していた時と同じように歌って踊った。空は綺麗だった。星は味方で微笑んでいる気がした。わたしは幸せだと思おうとした。本当は薄氷の上を歩いていると知っていたけれど。


「ラミア、明日は何をする?」

「何でも」

 ラミアはわたしを見つめて微笑む。

「目覚めてから考えればいいわ。今日は何をするかって」


 その夜、わたしたちは草地に並んで寝そべり星を見上げていた。流れ星を見つけた気がした。勘違いだったかもしれないけど、きっとそうだ。わたしは願い事をしようとした。でも相応しい言葉がわからなかった。そうしているうちにまた一つ流れ星を見た気がした。


 わたしたちは目覚めると予定を立て、実行し、夜になると火を囲んで歌う。ラミアの寝室は以前のように美しく整えた。剥がれ落ちていた壁を修復し、綺麗な布地に刺繍して飾った。軋んでいた両開きの窓は蝋を塗って滑りを良くする。


 晴天が続いていた。たらいに水を入れ、服を浸して足で踏んだ。絞ると木々に渡したロープにかけて干す。風が気持ち良かった。


 古城に到着して何日経過しただろう。三日、それとも三週間? 過ぎていく月日に興味をなくした。でも朝起きてシーツを汚していることに気づいた。ラミアが言った。


「カミツレ茶を飲む? 冷やしたらだめよ」


 憂鬱な三日間を過ごした。三日を過ぎたら楽になるはず、いつも通りなら。でも元々不順で、さらに月経を止めると聞いた薬草を噛んで常用していたから——そうすると不妊になるそうだが、かまってなどいられなかった——久しぶりの感覚に感情が狂う。鈍痛と不快などろりとした熱は無防備だった少女の頃を思い出して辛い。


 嫌だ嫌だ、まるで裸で通りに放り出されたような気分だ、羞恥でいっぱい、おぞましい、痛い、おぞましい、苛立つ、腰が重くてだるくて石をぶらさげているようだ。


 ラミアはこの災難から解放されたという、吸血鬼になった瞬間から。羨ましい。わたしも吸血鬼になりたい、レゾンになりたい、でもなれない、わたしはただの人間のまま、女のしるしに縛り付けられて生きていくしかない。


 その日は憂鬱さが募りすぎて昼からベッドで眠っていた。物音がして目が覚めた。ラミアが窓辺に立っていた。


「外を歩く気はない?」


 でも、わたしは別のことを聞いた。


「何してたの?」

「べつに」彼女は窓に目を戻した。

「鳥と話してたのよ。小鳥さんとね」


 疑えばよかった。本当に鳥と話していただけなのか、と。でもわたしはベッドから出ると裸足のまま窓辺までつたたと駆けた。


「お腹が痛い。でも外に出たほうが良いよね。寝てても楽しくならないから」


 今日も天気が良い。ずっと天気が良い。

 でも翌々日雨が降った。さらさらした雨、濡れても寒くない雨だ。


 虹が出た。わたしは挟んだ布を汚さなくなった。それだけで羽が生えた気がした。わたしは単純。それだけで幸せ。


 その夜。

 ラミアに血を飲ませた。くらくらするというから。


 手首の内側に刃を当てて切ると、わたしの血はむくむくと盛りあがりすぐに滴る。慌てて小皿で受けた。そんなにいらないわ、とラミアはわたしの手首に布を巻いて縛る。


「最悪な気分だわ。きっと一昨日のあなたより最悪な気分よ」


 ラミアは後ろを向いて血を飲んだ。舐めたというのが正しいかもしれない。それほどの量しか血は出していなかったから。


 振り返った彼女の唇は赤くなっていた。わたしの血の色。胸が裂けるほど痛くなった。ラミアはなぜ吸血鬼なんだ、どうして血を飲むのだ。ラミアの灰色の瞳に涙がせりあがり溢れ出た。頬を伝う雫を素早く拭ってあげる。


「美味しくないわ、全然欲しくない。でも飲まないとだめなの、だめなの」


 彼女の口から見えた歯も赤く染まっている。わたしの手首に巻いた布にも血が滲んでいる。わたしも泣いた。


「一生、わたしの血を飲み続けるといいよ。だから他の人の血は飲まないでね」

「そうしようか」ラミアは泣き笑いした。

「あなたがおばあちゃんになったらどうする? その時もわたしに血をくれるの?」

「あげるよ、ずっと」


 わたしが年老いても彼女は少女のままだ。十七歳の女の子のままで、腰の曲がったわたしの手を引いて歩いてくれるのだろうか。彼女がくらくらしたら、わたしは手首でも足首でも首筋でも、どこでも切って、血を分けてあげよう。


 でもそんなうんと先の未来を思い描くけど、彼女の顔はそのままでも、わたしの顔は黒塗りにしか描き出せない。わたしは十九歳。年老いるまで生きると考えるとその年月を思い恐ろしくなる。彼女はこんな人生をずっと生きているのだろうか。永遠に続くその道を、一人で歩くなんて、わたしにはできそうになかった。


 古城に来てすぐは少しでもラミアを離れると、捨てられたような気がして、悲鳴が口をつきそうになった。でもそれも徐々に二人の生活に慣れてくると、常に一緒じゃなくても平気になった。だからこの日は、ラミアが森に食材を探しに入り、わたしは洗濯をして絞った衣類やシーツを干す仕事をしていた。


 風がふわりと麻生地のシーツを膨らませる。眺めていると気分が良かった。雲の上にいるよう。鼻歌を奏でる。


 シーツとシャツ、ブラウスを触りながら、またシーツに戻った。すると、その裏から彼が突然現れた。悪夢で戦慄で死刑宣告だったけれど、まるで天界の住人がたわむれに人間界へ下りてきたようでもあった。きっと画家が見かけたらそんな絵を描き残そうとしただろう。晴れやかな日、銀髪の彼は逃げようとするわたしを捕まえた。


「ミシェル」


 リュシアンから香るロマランの清浄な香りに眩暈がする。くらくらと世界が回った気がした。

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