第49話 近寄らないで

 リュシアンを突き飛ばす。古城のガラスのはまらない低い窓枠を乗り越えて中に逃げた。わたしの名前を呼びながら追いかけて来る足音に、城内ではなく森へと逃げたほうが良かったと後悔する。


 彼は襲いかかる亡霊のようだ。狂ったように悲鳴を上げたくなる。


 誰か彼を止めてくれ。誰か彼を倒してくれ。助けて助けて。泣きそうな気持ち。救いを求めている。誰か誰か、いいや誰かではない、誰かを求めるのはやめたはずだ、わたしがやるんだ、自分でやるんだ。


 恐怖に絡まる足取りのまま逃げ惑う。リュシアンに捕まったら終わり、何もかも終わってしまう。ううん、もう終わっているんだ、終わりが見たくなくて逃げているんだ。それがわかっているから恐怖が喉元までせりあがって息を止めようとしてくるんだ。


 厨房に下りる階段を転がり落ちるように進んだ。地下というほどでもないが、やや下がった場所にある厨房は、ひやりとした冷気を含んでいる。


 まだ掃除を完璧には済ませていない場所だ。埃とカビ、湿気の臭いがする。隅に寄せただけの腐った椅子や木箱、使い物にならなくなった料理器具などが、雑然と投げてある。それでも目的の物を探すのには手間取らなかった。それは新しく買ってきたばかりだもの。きらりと光るそれを手に取ると、わずかだが恐怖が薄れた。


 わたしはそれを持ち身構える。壁の上部にある狭い明り取りから差し込む陽光が、戸口に姿を現したリュシアンを照らした。銀髪がきらめく。彼は何をしていたって光の住人だ。握った包丁を突き刺すように向けているわたしを見て、リュシアンは動きを止めた。


「来るな」


 力強い声が出た。でもリュシアンは近づいて来ようとする。怯える小動物でもなだめるような表情をして。眉は下がり、目はひたむきにこちらを見て、「ミシェル、落ちつけ」と静かに諭してくる。


 侮辱にあった気がした。刃物を突き付けても彼は何も動じない。こんな包丁ひとつで何ができるだろう。リュシアンの腰には聖剣と名高い立派な剣があるのだから。もっとも神聖力がある彼が使えば、刃こぼれしたナイフだって聖剣と謡われるだろうけれど。


 わたしは包丁を自分の首筋に当てた。


「止まれ、動くな」


 今度は効果があった。リュシアンはじりじり迫ってきていた歩みを止めた。


「ミシェル」

「何しに来たんだよ」


 弱々しい声音はリュシアンで、鋭く言ったのはわたしだったけれど、どちらが不利な状況にいるかなんてわかりきっていた。


 リュシアンの視線はわたしから動かない。その瞳は透き通った紫色だ。あの瞳に焦がれていた。どの宝石より、どんな星のきらめきより美しい。と同時に、あの瞳に触れるのを恐れていた。それはちりちりと指先を焦がす神聖な炎に見えたから。


「何で来たんだよ、どうしているんだ」


 叫んだ声に、彼はぶたれたように目を細める。


「ここにいると聞いて」


 か細く、それでも耳に届いた言葉の意味を反射的に突っぱねようとして押しとどまった。ラミアだ。窓辺に立っていたラミア、小鳥と話していたのよ、と言った彼女の行動の意味が脳内に浸透していく。


 彼女は動物と話せた。意のままに操る。きっと鳥に伝言を頼んだのだろう、伝書鳩のように文を足先に括り付け、リュシアンの元へ飛ぶよう促したのだ。


 裏切りだ。儚く崩れ落ちた夢。終焉を永遠に変えようとしていたわたしに、彼女は現実を突きつけた。でも憎くはない。隣り合っていたとしても感じあっている部分が、わたしとラミアでは違うとわかっていたから。わたしは未来を必死で積み上げようとしていて、ラミアはいつわたしが積み上げたそれを崩すべきか悩んでいただけだから。


 リュシアン。彼が答えだ。彼は現実を連れて来る。夢から覚めろとわたしを叩く。その拳が甘く柔らかに包んだ言葉であっても、仕草であっても、眼差しであったとしても、たたき起こす力を容赦なく振るう。


「ここにいたのね」


 ラミアだ。終わりを告げる鐘の音のようにその言葉が響く。リュシアンが腰の剣に手を当て、ラミアを向き合った。


「やめろ、動くな」


 制止すると、リュシアンはちらりと視線を寄こしたが、手は剣に当てたままだ。


「リュシアン」


 もう一度強く言うと、剣に添えた手がわずかに動く。が、やはり離そうとしない。するとラミアが「ミシェル」とわたしの名を呼んだ。こわばる空気をあしらうように、いつもの調子で。軽やかに余裕たっぷり、優雅だけど親しみやすい足取りでわたしの元へ近づいて来る。


「なぜそんなものを首に当てているの、危ないでしょ」

「リュシアンが剣から手を離すなら、おれも離す」


「とんでもないことを言うのね」

 ラミアはおどけた調子で目をくるりとさせ、リュシアンへと振り返る。

「騎士様、どうなさいます?」


 ラミアはすぐにまたわたしへと顔を戻し、微笑んだ。


 リュシアンの視線はどこを向いているのかわかりにくかった。わたしなのかラミアなのか。でも剣から手が離れる。ラミアは振り返らずに、わたしを見つめながら言った。


「ミシェル、あなたも下ろしなさい、約束でしょう?」


 それでも躊躇っていると、ラミアが握る手に手を重ねてくる。彼女に渡した。ラミアは包丁を床に落とした。そして、からんと音を立てたそれを蹴り、彼女は遠くにやる。


「二人で話し合いなさい。逃げたり」とラミアはわずかに振り返り、

「追い詰めたりせずに。わたしは外に出ているわ」


「ここにいて」

 わたしは出て行こうとするラミアの腕を素早くつかんだ。

「行かないでよ。あいつと二人にしないで」


「すっかり怯えちゃって」


 わたしの頬を、ラミアは撫でる。


「可愛いおチビちゃん。わかったわ、ここにいましょうね」


 それでも怖くて、ラミアの腕にしがみつき引き寄せた。身体を触れ合わせていても不安でいっぱいだ。ぬくもりがなぜか冷たく感じる。失うことを恐れすぎて、幸せであるはずのものが、暗い影ばかり際立たせているのだろうか。


「どうして呼んだの。鳥でしょ、わかってるんだから。どうしてあいつを呼んだの」


 しがみつく腕を揺さぶり訴えると、ラミアは伏し目がちに微笑んだ。


「あの騎士様が好きでしょう? だから呼んだのよ。もしも一人で来たのなら、あなたを任せても良いかと思って。ねえ」


 ラミアの視線が、わたしからリュシアンに移った。彼は、剣に戻ろうとする手をなだめるためか外套の胸元あたりを握り締め、ラミアを注視している。


「あなた、ちゃんと一人でいらして?」

「探ったらいいだろう、その優れた聴覚で」

「嗅覚でもわかるわ」ラミアは鼻をくんくん嗅ぐように揺らす。

「ちゃんと一人なのよね、お利口さんの騎士様ですこと」


 ラミアがリュシアンと話しているのが気に入らなかった。どうしてあんな口調で舐めるように話すのだろう。艶めかしさを醸し出す彼女に、うんと遠くにいってしまったようで憤りを感じる。


 それにリュシアンも、なぜ横柄な目でラミアを見るのだろう。彼女の素晴らしさを何一つ知ろうとせず、なぜ、あれほどまでに断じる振る舞いができるのだろう。


 どちらも好きになれなかった。自分一人だけが取り残されてしまったようで。おろおろと大人の顔色を見ては、意味を測りかねて泣き出してしまう子どもの気分だ。


 ラミアに定めていたリュシアンの視線がおれに移った。胸元を握っていた手が、今度は力なく救いを求めるように前へ出る。


「ミシェル。怖がらせるつもりで来たんじゃないんだ」

「怖い」


 ラミアにしがみつきながらその陰に隠れようとすると、彼はまた被害者ぶった表情で悲しむ。


「来ないで。二度と会いたくない」


 ミシェル、とラミアだ。それは囁き声だが、少しだけ怒声が含んでいる。


「なぜ嘘をつくの」

「嘘じゃない」

「お茶すると、いつもリュシアンリュシアンと隊長さんの話ばかりしていたじゃない」

「そんな昔の話をしないで」

「昔? あら、あれからもう百年経っていたかしら?」


 信じられない思いでラミアを見返す。


「やめてラミア。あんな男、どうして呼んだの。追いかけて来るなんて気味悪い。あいつの首をへし折ってよ、ラミア!」

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