第47話 その願いは叶わない

 吸血鬼レゾンになりたい。

 そうすればあなたと手を繋ぎ、この世界で永遠に生きてゆけるから。


 でも。


「ミシェル、それは無理なの」


 ラミアは目を伏せ、それから表現しがたい笑みを浮かべた。嘲笑ではない。でも喜びも悲しみもない、彼女さえ捉えかねている感情の端っこが零れ落ちたような笑みだった。


「失敗してもいいんだ」

 おれの思いは切実だった。

「その時はあきらめがつくから」


 生きていくことに夢は見てない。


 それでも続くのが人生なら、人間として生きて何になるだろう。おれはもう魔女だ。そして吸血鬼のラミアと一緒にいたいんだ。


 おれは今十九歳。彼女は十七の年齢で止まっている。

 あまり歳が離れるのは嫌だった。同じ魂を分け合った双子のように存在したくてたまらない。


 でもラミアの返事は、希望の片鱗すら見せようとはしなかった。


「レゾンになるには条件があると話したでしょう、ミシェル。できないのよ」

「ラミアがおれを吸血鬼にしたくないから? だから無理?」


 彼女がおれを「レゾンにしたい」と望まなければ、この願望は果たせない。噛めば、一か八かでレゾンになるというわけではないから。だからラミアを納得させたらいいんだ、そう思ったのに、彼女の返事は違う方向へ動いていく。


「一度」とラミアは言った。おれと視線を合わせず、自分の手のひらを見て。


「あなたを仲間にしようと思ったわ。昔、わたしをレゾンにした男と同じようにね。相手の許可なんて取らずに、気に入ったという理由だけで、自分の運命に巻き込もうとした」


「そうしてよ」


 彼女が見つめている手を掴み、こちらを向かせる。灰色の瞳が動揺に震える。そして微笑んだかと思うと、その緩んだ眼から涙が溢れ出てきた。


「無理なのよ、ミシェル。無理なの」

「だからどうして」


「森で見つけて。あなたが怪我した時よ。森で倒れていた男が、昔遊んだおチビちゃんと似ていると思ったわ。面影があったのでしょうね。一目で当時の記憶と感覚がよみがえって、体中が歓声を上げたみたいでね。息をするのも苦しくなったわ。体温が上昇して落ち着かなくなった。だから誘惑に駆られた。この男をわたしの伴侶にしてやろう、って」


 ラミアの細い首筋で喉のうっすら動くのを、おれは黙って見つめていた。彼女の声は涙交じりにかすれている。いつからか階下から聞こえてくる歌声は、女性の静かなものに変わっていた。恋を歌っているのか、愛を歌っているのか、それとも自分の定めを粛々と受け入れているだけの歌なのか……。


「男を家に連れ帰って服を着替えさせようとして気づいたわ。この人は間違いなく、あのおチビちゃんだわ、って。歓喜した。わたしの可愛いお嬢ちゃんにまた会えたのね、って。でもそれと同時に」


 つん、と軽く頬をなで、微笑む。ラミアは視線をそらし、また自分の手の平を見つめた。


「今あなたが感じている絶望を、わたしもその瞬間に感じたわ。ミシェル。これは人間の感覚なのか、吸血鬼が血を欲する衝動と繋がっているものなのかわからない。でもわたしは、あなたと似た男と見つけたと感謝し、それがあなた自身だと知って絶望した。あなたではだめなのよ、ミシェル」


「どうして?」

「レゾンは」


 ぽろん、と弦を弾く音がする。曲が変わった。低い男の歌声が重なる。どこか耳に懐かしく、その原因を探して記憶の淵に見つけた。異国の楽士が好んでママンに聞かせていた歌だ。それが今聞こえるのは、幻聴なのか、それとも残酷な運命がなしたものなのか。


 ラミアの温もりある手が、おれの両頬を包んだ。瞼を閉じるとそこへ唇が触れる。


「レゾンはね、ミシェル。異性間でしか誕生しないの。わたしがあなたを噛んでも、あなたは吸血鬼ヴァンピールにはなるでしょう、でも決して吸血鬼レゾンにはなれないのよ」


 すとんと頬を包んでいた手の感触が消える。目を開けると彼女は窓へ視線を向けていた。おれも同じ方向を見る。夜は暗い。星はない、月もない。風も消え、草木の呼吸さえなくなってしまったかのように沈んでいる。そこはまるで海底だった。


「おれはレゾンにならないってこと?」

「わたしがレゾンにできるのは男だけってこと」

「おれが女だからレゾンにはなれない?」

「煩わしい定めよね」


 ラミアは片足をすっと上げた。闇に溶かすように窓へと爪先を向けている。


「吸血鬼は繁殖能力をなくす。わたしは子を産めない。でも男をレゾンに変えることはできる」


 気に入った男をレゾンにして。

 永遠の恋人を作ることはできる。ラミアはそう言って歌うようにコロコロと笑った。


「ロマンチックでしょう。でもわたしの望みとは違う」


 伸ばしていた足が糸を切ったように落ちた。

 ラミアの目尻から涙の筋が流れ落ちる。彼女を抱きしめた。わたしも泣いている。


 悲しみの理由がわからないほど悲しくて悲しくて、恐ろしいほど悲しくて泣いている。彼女の過去が、わたしの心臓をノックする音が全身に響いているようで苦しく、それでも頭の片隅では、ラミアの人生のひとかけらの記憶さえ、わたしは知らないとよくわかっていた。


 闇雲に想像を巡らせても辿り着けそうにない彼女の過去を飲み込めず、その苦しさが涙になって溢れ出るのか。それともただ、わたしはおれ自身の孤独を泣いているだけなのか。

 

 おれが男だったら、ラミアと生きてゆけただろうか。そんなまさか。問うまでもない。わたしがわたしだから、ラミアと会い、ラミアを今こうして抱きしめているのだ。この腕はわたしのものだ、おれのものではない。ラミアが好きだ。


 でもこの気持ちに名前はない。恋でもなく愛でもなく同情でもない。なにものとしても形容したくない。名前をつけた瞬間、この想いはきっと陳腐に変わるから。


「あとどれくらいで古城に着く?」


 深海から浮上し、空が白んできていた。


 眠っていたのか、起きていたのか、わからないまま夜を過ごし、互いの体にずっと触れていた。こうすれば、わたしはラミアに、ラミアはわたしになれると、信じるかのように。


 宿を出ると空気は冷たく、胸の奥まで吸い込むと何を悲しんでいたのか理解しがたいほど、さっぱりした気持ちになった。夜は怖い。魔女と吸血鬼でさえ、泣くほど震え上がるのだから。


 だからそれからの道中は野宿するようにして、火を焚き、それを囲んでラミアと歌った。


 手を取り合ってぐるぐると回って踊り、抱きしめ合ってまたくるくると回った。火はわたしたちを照らす。今聞こえたのは何? 遠吠え。狼の? 牙はわたしのほうが強い。わたしを守ってラミア。わたしは強い。わたしは弱い。炎を照らす、影が伸びる。踊る、歌う。


 古城は昔のまま、あの森にあった。


 ラミアはなぜこの古城に住み、そしてなぜここを離れて別の森にある小さな小屋で暮らすようになったのか。わたしはその理由を知らない。聞けば教えてくれたかもしれない。でもわたしはそうしなかった。


 ラミアの過去を知れば知るほど、きっとわたしは自分との違いを感じてしまうだろう。それが嫌だった。一緒に今いるラミアと溶け合いたかった。落ちた海水の中で息がしたいと願うように、わたしはラミアになりたかった。ラミアの強さが欲しかった。わたしにはない力。彼女はどうやって一人で生きてきたのだろう。吸血鬼になればそれができるのだろうか? 


 でもわたしはレゾンにはなれない。それがとても憎い。

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