第20話 迷子の森で出会った貴婦人
——
良い思い出があるからだ。五歳か六歳だったと思う。
当時、両親の別居もあり、おれは母方の領地、プリュイ領に住んでいた。新任地でもあるこの地域だ。でも母と暮らしていた場所は周囲を森に囲まれた自然豊かな場所で、良く言えばのどか、母の言葉を借りると「世間に顔向けできない者」が暮らす寂しいところだった。
近くにはまともな民家すらなく、普段、顔を合わすのは母と数名の使用人だけ。食料などは月に数回、荷馬車で運び込まれていたが、それ以外、母が開いたパーティーでもなければ、近隣住民の往来なんてほとんどなかった。
一応、貴族の別荘だから、たいそうに何々荘と名前がついていたが——思い出そうとしたがすっかり忘れてしまった。
それでも童心にはその優雅さのくずれ落ちるままにしたような世界が、秘密めいた気ままさに満ちていて魅力的だった。父の城は厳格で冷たく、常に鎖帷子で締め付けられているように感じていたからなおのことだ。陽光は真っすぐに窓から差し込み、気まぐれに吹く風が室内を自由に通り過ぎる。そこでおれは小さな妖精になったような気分で暮らしていた。
その一方で、母の気だるげな吐息が少しばかり影を落としさえしていたのも事実だ。でも、それすらも冒険の中の暗い洞窟に潜む魔物みたいなもので、勇敢さを示す良い退屈しのぎになっていた。そんな日々の中だった。
大人の目をかいくぐり、敷地から森へ迷い込むのが楽しくてならなかった時期がある。今思えば使用人たちが、どれほど肝を冷やしたかと想像すると申し訳なさで身がすくむが、かといって母はそんな我が子の行動など知っても大した反応は示さなかったろうとも思える。
それでも大方、木立で木の実を拾って遊んでいると乳母に見つかり、小言を浴びながら手を引かれて帰るのが常だった。きっとそこまでが楽しかったのだと思う。探してくれる人がいると信じて疑っていなかったのだ。小言や叱責もその時だけ。乳母のしかめっ面もすぐ笑顔に戻ると知っていたから。
でもあの日は加減を知らなすぎた。じっくり思い返してみると、周囲を本当に困らせてみようとしたように思う。特に母。ママンを心配させたくて、そうだ、ママンに迎えてに来てほしくて、いつもより森深くに入っていった。真っすぐ、真っすぐ。ひたすら真っすぐ。
あの時、まるで恐怖はなかったはずだ。楽しいとは違うが好奇心でいっぱいだった。
でも影が落ち薄暗い森の木々たちが頭上を厚く覆うようになって、やっと自分がひとりぼっちなのだと気づいた。そうなると恐ろしさはいくらでも心を侵食する。くすくす笑いの幽霊さえ呼んでしまうのだ。
小声を出すのも怖かった。誰かに見つかると食われると思った。
狼に?
それとも怖い怖い大人が来るかもしれない。
吸血鬼のことを当時知っていただろうか?
生活に根差した存在でありながら空想の産物に似たものでもあった吸血鬼と、貴族の子どもが接する機会はほとんどなかったように思う。あっとしても童話や絵本、説教に出てくる言葉だろう。きっとおれは吸血鬼を知らなかったはずだ。恐怖したのは闇と狼とひとりぼっちの世界だったのだ。
そしてうずくまり泣き出したい気持ちを押さえていた瞬間、甘い甘い匂いがした気がして、水音を聞くようにふらふらとそちらに進んで行こうと思って、でも怖くて足に力が入らなくてまた泣き出しそうになっていた時だ。その女性と出会った。
「あらあら。久しぶりのお客さんはずいぶんおチビさんね」
女性は若い貴婦人だった。
ママンが祝宴でめかし込んだ時よりも豪勢なドレスを着ていた。白地に金色の刺繍がしてあるタイトなチュニックに、真紅のベルベットのガウンを重ねていたのだ。ぴったりと体にそう上半身とは反対にウエストから広がる裾は花が開くように膨らんでいた。
彼女はどこか女王様みたいだった。妖精の女王様だ。魔法が使えるステッキを持っているような気がした。でも彼女が握っていたのは白い日傘で、淵がスカラップ模様になっているのが珍しかった。きっと当時最先端のデザインだったのだろう。
「おチビさん、お名前は?」
彼女の声は柔らかく、気品に満ちていた。
「ミ」とおれは声を出して口をつぐんだ。小鳥のように貴婦人が小首を傾げて見つめてくるので、「シェル。ミシェル」と小声で秘密を打ち明けるように告げた。
「素敵な名前ね。わたしはラミアよ」
彼女は片手を差し出した。手を繋ぐのだと思った。
乳母がそうしたように、家に連れて帰ってくれるのだと、そう思い手をつかんだ。でもラミアと名乗った女性は握手をしたつもりだったらしい。いつまでも握っているおれの手に少し戸惑っていたがやがて微笑し、そのままゆっくり歩きだした。
連れて行かれたのは石積みに苔が生えていたが頑丈そうな古城だった。
規模はその時母と住んでいた邸宅の半分くらいだったが、要塞のような威圧感に圧倒された。さらには正門の鉄格子の扉を彼女が押すと、まるで悲鳴のような音をたてたものだから、すっかり怖気づいて縮み上がってしまった。
「怖い? でも中は素敵よ」
その言葉通りだった。使わない場所は捨て置いたままになっていたが、彼女のベッドがある最上階の部屋は、女王様の寝室に相応しく華やかで甘く、洗練された雰囲気だった。
そこは石段のらせん階段をあがり、森を見下ろすアーチ状の窓を横目に少し進むと分厚いドアがあって、その奥の丸い空間が部屋になっているのだ。
「良いものをあげるわ」
彼女はベッドのそばにあった小さな箱に手を伸ばすと、そこから何か取って渡してくれた。両手で受け取り、じっと見つめて匂いを嗅いだ。甘酸っぱい匂いがした。
「
「正解。わたしの好物なの。だからすぐ食べられるようにここに置いてあるのよ」
彼女は一粒口に放り込むと微笑んだ。おれも両手で飲むように口に運ぶ。あの頃のおれには大粒でうっかりすると口からこぼれ出してしまいそうな飴だった。
「食べにくそうね。今度はもっと小粒を用意しとくわね」
その日は、どうやって居城に戻ったのか記憶していない。
乳母が泣いていて外はすっかり暗くなっていて。「奥さまが心配しておりましたから、ご無事な姿を見せてあげてください」と背を押されて応接間に入った。ママンに話しかけたのを覚えている。ママンは気だるげにあの人魚のような姿で寝椅子に横たわり、薄目でこちらを見つめた。
「ミシェル。戻ったの?」
「うん。ごめんなさい。もりのなかでね、まいごになったの」
うつむいていると、ママンの手が頭を撫でた。
「かわいそうな子」
それから顎を持ち上げるように触れる。
「探し物は見つからなかったのでしょう?」
どういう意味か分からなかった。
戸惑う目を向けても、ママンは顎から手を離して眠ってしまった。
それからも。何度も何度も森に入り、真っすぐ真っすぐ進んでラミアに会った。
ラミアの住む古城までは、どう用心して道を進んでも、一人ではたどり着けなかったけれど、森でぽつんと待っていると、白いパラソルを差した彼女が迎えに来てくれて、一緒に手を繋いで古城まで連れて行ってくれた。
その城には三人の使用人が暮らしていた。
青白い顔した痩せた中年の男に恰幅の良い年老いた女、それから十代だと思える若い男の子。男の子は言葉が話せないようだったし、中年の男は目が悪く、老婆はいつも同じ言葉を繰り返しては、見つからない何かを探していた。
「あげるわ、小粒よ」
ラミアがくれる木苺の飴は、一度にまとめて二、三粒放り込めるほど小粒になった。ケーキも食べたが、やっぱり一番は飴で、それを口の中で転がしながらラミアと布人形で遊ぶのが楽しかった。かくれんぼもした。鬼ごっこも。木の枝にロープと板をつけてブランコだって作った。ゆらりゆらり、一緒にゆれて遊んだ。
貴婦人のラミアとそうして遊ぶのは新鮮でおかしくて時間はあっという間に過ぎた。あの頃、ラミアはママンと同じくらいの年齢に見えていた。すっかり大人の女性なのだと。
——でも今、それは間違いだったのではと思う。
もしかしたら、うんと若かったのだろうか?
でなければおかしい。
「傷の具合は上々ね。薬が合ったみたい」
そういってふくらはぎの傷を見ている若い女性に釘付けになる。
その横顔はラミアだ。
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