第19話 襲撃と錯乱

 矢はジェルマンの腕をかすめ、おれの背後にあった木の幹に刺さった。


 その後、何の動きもなかった。まるで時が止まったようだ。


 それでも本当に静寂だったのは一瞬だったと思う。でもこの攻撃一度で終わったのかと錯覚するには十分な間があった。でもそんなはずもなく。


 どっと降るように四方から矢が放たれた。


 その場で固まっているわけにはいかなくなる。言葉を交わす間もなく、散らばった。


 おれは馬には乗らず、外套のフードを被り、襟元を握り締めると、身を低くして走った。討伐隊の制服は外套だけでなく他も頑丈に作られている。でも完璧に防御できるわけじゃない。特におれの場合、接近戦を想定してないので、他より軽装なのだ。上半身は一応皮の鎧を着こんでいるが足元はブーツくらいしかなく、防御は期待できない。


 間をおかず放たれている矢が行く手の幹や地面にも刺さる。敵がどこにいるのかわからなかった。そこら中、ぐるりと囲まれているように感じる。逃げているつもりなのに、これでは走ることが正解かどうかわからなくなった。結局同じ場所をぐるぐる回っている、そんな焦りで一杯になる。


 それでも止まったらやられると思い、前へ前へと足を出した。頬の横、肩、わき腹にひやりとする瞬間があった後、ふくらはぎに痛みが走る。刺さった感覚はない。矢がかすめ、皮膚を切ったのだろう。怪我の具合を確かめる余裕はない。


 呼吸のリズム、吸う、吐く、の繰り返しがつかめなくなるほど走り続けたところで、速度を緩めた。先ほどから矢の攻撃が止んでいる。敵を巻けたのか、それとも諦めたのか。様子見しているだけかもしれず、足は動かし続けながら周囲へ神経をとがらせて様子を探った。もう大丈夫だろう、そう思った時には視界が息苦しさで霞んでいた。


 咳き込みながら呼吸を整え、幹に片手をかけた格好で傷の具合を確かめる。裾をめくるとぱっくりと肉が裂けていた。その割に血が出ていないのが幸いなのだろうが、思ったより酷い傷に、見るんじゃなかったと後悔した。


「矢尻に毒なんてついてないよな」


 汗と動悸がする。でもまだ走るのをやめたばかりなので、毒の作用かどうかなんて判断できない。やはり出血の軽さが気になる。


 膝を布で縛り止血をしたあと、もう一度しっかり傷口を確認してみた。じっくり見ているとそう酷い傷じゃないような気がしてきた。最初の衝撃で過度に心配しすぎたようだ。膝を絞めていた布を解き、傷口を縛ることにした。立ち上がり進む。痛みがじわじわ湧いてきたが歩けなくはなかった。


 毒でないことを祈る。でも毒以外の心配だってある。


 この件には吸血鬼、しかもレゾンが関わっているはずだ。もしも吸血鬼の体液が付着していたらどうなる。おれはリュシアンのように強い神聖力があるわけじゃないから、感染したら一巻の終わりだ。


 動悸が収まってもひたいや脇から汗が伝って落ちる。体が冷えてきていた。毒か、それとも感染したのか。焦りで歩く速度が上がる。討伐の時なら少量だが浄化の灰と聖水を持ってきていた。でも今は腰に下げた袋にナイフと飴が入っているだけ。何やってんだ、遠足気分かよ。


 自分にイライラする。裏にレゾンが関わっているかもと思いながらも、軽く見ていたと認めるしかない。お遊び気分だったのだ。暇で、時間を持て余してて。相手はただの人間、それも仲間が一緒だからと気が緩んでいた。


 まさかいきなり襲撃に遭うなんて。追跡がバレていたのか、それとも端からおれたちの計画は露呈していて、うまく罠にかかったのかもしれない。


 狩り対象の吸血鬼は、どう見ても異常で、正気を失い、行動もおかしくなる。言語は崩壊していて意思疎通は不可能。人間を食らうことだけを考える化物だ。


 さらには痛覚がなくなっているらしく人間ならざる動きを平気でするし、能力値が上がるようで、跳躍力や腕力が人間より強くなる。しかし同じように能力値が上がるレゾンは、容易に世間に紛れ込める。知らぬうちに共存している可能性もあると聞いたことがある。


 もしかしたら追跡していた男の中にレゾンがいたのだろうか。それなら聴覚も発達しているはずだから、こちらの行動が筒抜けだったのもわかる。


 おれはレゾンをこの目で見たことがない。本当に世間に紛れ込めるほど人間と同じ振る舞いが出来るのだろうかと訝しむ一方で、気づかずにレゾンと会っている可能性だってあるのだ。


 足が痛む。焦りと共に思考が乱れてくる。毒かな。それとも感染?


 吸血鬼になるのかな。こんなところで、森の中で。

 寒い。震える。それなのに汗が止まらない。


 朦朧としていく中でも歩だけは進めている感覚はあった。でも頼りなく宙を歩くようで確かじゃない。まっすぐ進んでいるつもりでもその場で回っているようにも感じた。夜になった気もして、さんさんと降り注ぐ陽光に照らされているようでもあった。


 どこか懐かしいような匂いがする。そんな気がして。

 おれは歩くのをやめた。崩れ落ちる瞬間に、頭の片隅で浮かんだ記憶。



 それは優しく、暖かな羽毛に包まるような……。


 そして。


 薪がはぜる音で目が覚めた。

 寝台は固く、板に布を張っているだけなのだろうと思った。


 あたりは薬草を焚く匂いに満ちていた。蝋燭の灯りが影を長く伸ばして周囲を妖しげに揺らす。夜だ。深夜かもしない。土塀には蜘蛛の巣がついていた。壁面のあちこちに雑然と物が掛けてある。傾いた古い棚には大小の瓶が所狭しと並び、ドライフラワーが天井に渡したロープがたわむほど干してあった。


 ギ、と軋む音に目を向ける。木戸が開く。入ってきたのは若い女だった。


 目が合う、それだけで芯が冷える灰色の瞳をしている。女は一瞬焦った顔をしたが、すぐに余裕のある素振りで微笑した。安っぽい薄地の外套を着ていて、フードを外すと下ろしたままの黒髪が蝋燭の灯りに照らされて艶めく。彼女は微笑を浮かべたまま近づいて来て、おれがいる寝台の端に腰かけた。


「傷口を見せて。膿んでないといいんだけど」

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