第21話 あの頃と変わらない姿
幼い頃なら相手が十代半ばだったとしても、ものすごく大人に見えたはずだ。
だからラミアを母と同じくらいの年齢だと感じていても、そう不思議じゃないかもしれない。彼女が着ていたドレスは貴婦人のそれだったし、あの城の女主人は間違いなくラミアだったからだ。だが、あれから十年以上経過しているのに、目の前にいる女性が未だ少女のように見えるなんて現実が起こりえるだろうか。
「熱がありそうね。痛みはある?」
ふくらはぎの傷を確かめた彼女は、木製の小さな丸い入れ物をひねって開ける。中に入っていたのは濃い緑色をした軟膏だ。指ですくい取り傷口に塗ってくれる。
「変なものじゃないわ、蜂蜜に薬草を混ぜてあるから色が黒くなってるけど、舐めたって平気なものだから。どう、痛みが強いなら煎じ薬を作るけど」
上目で問うてくる灰色の瞳を避け、おれは傷口を見ていようとした。でも、どうしてもちらちらと彼女の様子をうかがってしまう。見れば見るほどラミアに似ている。
黒髪の艶もそうだし、眉毛の細さや真っすぐな鼻筋、彫刻のような完璧なラインを描く頬、首筋に小さなほくろがあるのだって、記憶にあるそれと一致する。彼女を見ていると忘れかけていた光景が次々と思い出されて、ますます彼女がラミア本人なのだと思ってしまう。
けれどもラミアであるはずがない。もちろん何年も容姿が変わらない女性もいる。
十年やそこらでは、時の影響を全く受けない人は珍しくない。貴族ならなおのことだ。けれど長く十代後半に見えるというのはおかしくないだろうか。彼女はおれと同じか、それより年下に見えるのだ。
「薬」と彼女はしゃがんでいた姿勢を戻していう。そこからだとベッドにいるおれを見下ろす恰好になり、ふと既視感を覚えた。おれは自分が五歳の頃に戻ったような気持ちになる。
「薬?」
惚けたように返している自分の声が不思議だった。
「ええ、薬。苦いけど。飲む?」
「いらない」
おれは首を振って不貞腐れたように横になった。そして背を向けまた言った。
「いらない、何も。気分が悪い」
「あらそう」
彼女の返事はそっけなかった。怒らせたのだろうかと軽く振り返ると、ずっとこちらを見ていたらしく、ばちりと目が合う。
「あ、ありがとう」おれはごくりと唾を飲んでいた。
「治療してくれて。あなたはここで一人?」
「そうよ」
彼女はまだ手に持っていた軟膏の入った木のケースと指で軽く弾いた。
「傷口は深くないわ。でも清潔にしとかないと腐るわよ」
「毒?」
「毒の心配はないと思うけど」
彼女は少し口をすぼめ、
「わたし薬草に詳しいから安心して。膿まないように気を付けていたらすぐ治るわ」
と微笑んだ。それから、
「森の奥深くに女が一人で暮らしているの」
茶目っ気を出したのか、彼女は肩をすくめて小首を傾げた。でもおれは愛想笑いすら返せず、また唾液を固いもののようにゆっくり飲んでいた。
「名前は?」
上体を起こし、何気なく会話を続ける風に言ってみた。でも胸は痛いほど緊張で脈打っている。
もしかしたら、この女性は、ラミアの娘なのかもしれない。そっくりの母娘。ラミア本人より、あれからの年月を考えると、その可能性のほうがあり得る。
ただラミアの城に子どもはいなかった。娘は他所で暮らしていた? 彼女が、おれより数歳年下ならどうだろう。大人っぽく見えてまだ十代初め頃だとしたら……、でもその年齢で一人で森で暮らしているなんて不自然な気がする。
「あなたは?」
思考していると、彼女はそう返してきた。
その灰色の瞳は悪戯を楽しむように揺らいでいた。
おれは何も答えず視線を外した。背を向けて横たわる。彼女が動く衣擦れの音がした。こっそり隠し見ると、彼女は軟膏を棚にしまい、代わりに何か乾いた薬草が入っている瓶を手に取っていた。
「煎じ薬を作っておくわ。気が向いたら飲んで。べつに悪いものじゃないから」
それからおれが見ているのがわかっていたように視線をこちらに向け、楽しむように口角を上げた。
「毒の心配なんてしないわよね。眠くなることもないし、ただ治癒力が上がるの、本当よ?」
おれは、飲まない、との意思表示をしたくて首を振り、また背を向けた。なんだかやることなすことヘマばかりしている気分だ。
かたかたとお茶の沸かす音を聞きながら、とつとつとラミアとの記憶を探ってみる。どんな些細なことも思い出したかった。それは今いる女性がラミアだと確信するのでなく、否定する根拠が欲しくて探しているのだ。
古城で暮らしていたラミアの境遇を想像するに、もしかしたら誰かの愛人だったのじゃないだろうかと思う。未亡人のようではなかったし、かといって彼女が高貴な血筋の隠し子という雰囲気でもなかった。彼女は世慣れした雰囲気があった。だからこそ彼女を幼心にも母と同じ年代だと感じたのだろう。
古城があったのは、森の奥深くで、人の頻繁な出入りはないように見えた。少なくともおれが通っている間に、他の客に会うことは一度もなかった。
けれどもラミアはいつもお洒落なドレスを着ていたし、食事に出してくれたものも豪華で充実していた。異国情緒あふれる菓子も何度も見たし、調度品の質も時代遅れの感はなかった。
あの場所は妖精の城みたいだった。現実とは違うと感じていた。
現実離れしていると感じた理由を今の年齢になって分析してみると、ラミアは金持ちの愛人だったのだろうな、と結論づけてしまう。贅沢な暮らしぶりのようでいて、どこか寂し気で、だけど現実感のない夢の中にいるような甘い空間。
過去を振り返っているうちに眠気が混じる。うとうとしているとラミアの鼻歌が聞こえた——いや、ラミアではない、ラミアに似た女性の鼻歌だ、まだ彼女をラミアと決定づけるには早い——それでも。
かつて暮らしぶりが良くて。そのあと何かの理由で、そうだ、愛人と決別して没落したとしたらどうだろう。今ではすっかり古城での生活が嘘のように貧しくなっているラミア。
遠慮なく表現すればこの家は小屋と表現したくなる。起き上がって観察したわけじゃないが、部屋はこの一部屋だけだろうと感じられる。埃と薬草と湿気、古くなった木材、そして爆ぜる火の香り、燻る煙の臭いがしている。
昔のラミアは編み上げた髪に毎回違う髪飾りを付けていた。宝石がちりばめてあることもあったし羽根や毛皮で飾っていることもあった。それらの髪飾りを並べて見せてくれたこともあった。「あなたもしてみる?」なんて言って髪に触れてきては、おれの金髪が天使のようにかわいいと言ってくれたっけ。
でも今は髪を後ろで結んでいるだけ。何の飾り気もない。服も質素。それなのに彼女は記憶にある通りに動いた。真っすぐ伸びた背筋、繊細な手の動かし方、鼻歌のリズム、目が合うと微笑む、あの目尻の下がり方だって。
いや違う。彼女はラミアじゃない。
ラミアが、あんなに。あんなに少しも変わらないなんて。
そんなの、あり得ない。
だから結局。
おれは彼女の名前を聞くことなく、翌日の朝にはその小屋を出た。
彼女が言ったようにまっすぐまっすぐ歩いていくと見覚えのある鞍をつけた馬を見つけて、確かめると襲撃に遭った時に乗り捨ててきた馬だとわかった。
そいつに乗り、あっけないほど森を簡単に抜けるとプリュイ領の城門に到着する。
修道院に戻り宿舎に顔を出すと、仲間たちは、おれの捜索に出かけるところだった、といって帰還を喜ぶから、その騒ぎようをいさめつつ、傷の具合を見てもらおうとカロン助祭のところへ行った。
「跡も残らんだろ。森で腕利きの魔女にでも会ったのか?」
それは冗談だったのか、全部を見透かしての言葉だったのか。
おれはよくわからず、「さあ」と曖昧に答えてめくり上げていた裾を下ろした。
奇妙な気分だった。それこそ妖精の国から戻ってきたようなそんな感覚。
時間の流れに変化はなかったし、狂いも生じていない。おれは襲撃に遭った日に帰らず、その翌日には自分の足で戻ってきていた。でも十日、ひと月、一年。そんな月日が経ってしまったかのように、その一晩で、おれの中で何かが確実に変化していた。
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