第27話 ミシェルにかまうな!
フォア卿の爪は伸びすぎているのか、手首に当たる感触が歯で噛まれるようで気持ち悪かった。
「何するんです」
振り解こうと揺さぶったが、そんな抵抗すら楽しいというようにフォア卿の笑みは広がった。なんて奴だろう。股間を蹴っ飛ばしてやりたい、というかやりかけた。でも、その直前に奴の視線がおれの背後に動き、つかんでいた手が放れた。
振り返るとこちらに駆けてくるリュシアンの姿があった。彼の銀髪は暗がりでも白い薔薇と同じで目立つ。
「ミシェルにかまうなと言っただろ」
来るなり、リュシアンはおれの肩を引き寄せると背後に隠した。フォア卿は降参とでも言いたげに小さく両手をあげる。おどけた雰囲気だが、リュシアンのほうは今すぐにでも殴りかかりそうなほど怒っているのが、後姿だけでも見て取れる。
「べつに何でもないよ」
上着を引く。宴会から戻ったばかりのようで、隊服だったが任務時にいつも着用している外套は羽織っておらず、腰を見ても剣は提げてなかった。リュシアンは肩越しにちらりとおれを見たが、すぐに向かいに目を戻した。
「フォア卿。あなたは、わたしを隊長として認識していないようだな」
「そのようなことはありませんよ、ベルナルド卿」
フォア卿は心外だというように目を丸くする。背に隠れてコソコソ見ているだけでも腹が立つ表情だ。思わず顔をしかめてベーッとしてやろうかと思ったが、目が合いそうになったので慌てて顔を引っ込めた。
リュシアンがわずかに動いた。ヤバいと思って、片手でつかんでいた背を、今度は両手で握りなおして体重をかける。このまま突撃して乱闘でも始まったら大変だ。
リュシアンが来てくれた。それだけで恐怖は吹っ飛んでいて、今はもう何を怯えていたのか不思議なくらい肝がしっかりしてきた。一体、あの筋肉量の少ない弱っちそうな——といってもおれより強そうだが——フォア卿の何を怖がっていたんだろう。神聖力があるといってもリュシアンと違い治療系だというのに。
それでもまだ怖さの名残があったのか、手首をつかんだあの爪の感触がよぎるとリュシアンの背を握る手に力が入る。それがリュシアンに伝わったのか、彼はまた肩越しにこちらを見て、「殴りかかったりしないから落ち着け」と小声で言ってきた。
「ほんと?」
こっちも小声で聞き返す。リュシアンは微笑んだ。月明りに紫の瞳がきらきらしている。
「何も心配するな」
と、すぐ前を向いてしまう。
おれは上着を握った手を放さずにいた。むっと口が尖る。何に怒っているのか自分でもよくわからなかったけれど。
「何をお怒りなんです」
ぎくっとしてしまったが、フォア卿はリュシアンに言ったのだった。彼はまだ余裕のある表情を浮かべている。リュシアンの微笑とはまるで違う、あの見ているだけで腹が立つ表情だ。
「わたしは仲間と親睦を図っていただけですよ。それともわたしが、ミシェルと話してはいけない決まりでもあるのですか?」
「ある」と即答のリュシアン。フォア卿は少し面食らったようだ。おれもびっくりした。まさか「ミシェル接近禁止令」をここで持ち出すつもりじゃないだろうな。
リュシアンは怒りを鎮めたくなったのか、ふっと大きく呼吸する。
「いいか、君はミシェルにかまうな。あとレネ隊員と呼べ」
「酷いですね。他の隊員は彼をミシェルと呼んでいるではありませんか?」
「わたしは君を信頼できない」
「というより」
フォア卿の目が細くなる。笑ったのだろう、まるで獲物を食う前の獣だ。
「その態度は嫉妬ですか」
「何?」
「わたしだってミシェルと親しくしても何も問題ないでしょう。同じ隊員同士なのですから。友情です。ねえ、ミシェル?」
横に体を曲げ、リュシアンの背後にいるおれを見ようとする。リュシアンが隠すように横に動き、おれは鼻が上着に付くほどしがみついた。
「だからミシェルと呼ぶなと言っただろ。なぜ言うことをきかないんだ」
「そうでしたね、失礼しました」
姿勢を戻すと肩をすくめるフォア卿に、リュシアンが「貴様は」と低い声で詰め寄ろうとする。
「ま、待て、ダメだって」
リュシアンがキレると地面が割れる、とアルベールが言っていたのを思い出す。もちろん比喩だろうけど。
でも今まで小言くらいは聞いたことがあるけど、おれはリュシアンが激怒している姿を見たことがなかった。穏やかでどんな状況でも冷静な男だと思っている。でも周りが言うには「触れてはいけない裏の顔」があるらしいのだ。むしろミシェルの前だと「猫被ってる」と言っていたのはジャンだったか、やっぱりアルベールだったか。
「ダメだぞリュシアン。殺人は出世に響くぞ」
投げ飛ばされてでも止めようと腹に抱きつくと、「何言ってるんだよ」と気の抜けた声が返ってくる。片目を開けて見上げると、リュシアンが眉を下げていた。
「お二人は本当に親しいのですね」
フォア卿が鼻で笑うようにして言う。それから小ばかにした態度で会釈すると背を向けてさっさと庭園から出て行ってしまった。
「何なんだよ、あいつ」
おれがぼやくと、
「お前こそ何なんだよ」
リュシアンがまだ抱きついている手の甲を軽くつねってきた。
「放せ、無理して飲んだワインが口から出る」
「えー、吐くなよ」
ぱっと両手を上げた。
「ねえ今日も宴会?」
「どこいっても酒だ料理だで耳が痛くなる」
リュシアンはうんざりだと息を吐く。
「でも富裕層に顔を売るのは重要な仕事なんだろ?」
「どうだか。宴会ばっかじゃ体がなまる一方だ」
「太った?」
「かもな」
……よし、いつものリュシアンだ。
安心した。激怒した彼を見るのも怖かったし、止めるのは一人では荷が重すぎたから。胸に手を当てホッとしていると、リュシアンは腰を曲げ、視線を合わせてくる。
「何、心配してたんだよ。おれがあいつを殴るとでも?」
「……殺すかと思った」
ふっと笑うリュシアン。頭を撫でてくる。ぐりぐりと。
「ミシェルの前で殺すわけないだろ」
うわー、やっぱりコイツ、裏の顔があるのかな。
今は月光より眩しく、月の騎士様みたいな彼を見上げながら、おれは胸の奥が少し、ちくりとした。それは薔薇の棘が刺さったのに似た、ぷくりと血が滲むような痛みだった。
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