第38話 何気ない日々を綴る日記と懐かしい童話
レゾンの女は森へと逃げた。
アルベールがすぐに追ったが、女は素早く、また雨の森は薄暗く視界が悪いため、それ以上の捜索は困難だと判断した。
おれたちは雨が止むまで山小屋で休むことにした。気絶しているジャンとガスパールは、運び込んでから、フォア卿が神聖力で回復させた。二人とも首が痛いと言っていたが、自力で動くには問題なさそうだった。
それから何か他の手がかりがないかと小屋の中を探した。でもレゾンと教会支部の関係を示す明確な証拠は見つからなかった。あるのは平凡なものばかり。数種の食器に大小の鍋、服、仕立てる前の生地、保存食。小説や料理本もあったが何か挟まっているようなことはない。
引き出しから日記を見つけたが、日常の他愛のない記録が綴られているだけ——東側の高台でキノコをたくさん収穫できた、乾かして保存しよう。今年はいつもより早く木苺の花が咲いていた。たくさん実りそうで楽しみだ。ジャムにしよう、それから飴も——そんな内容が細やかな文字で記してある。
「レゾンのくせに丁寧な暮らしぶりですね。森の老婆ですよ、老婆」
「若かったじゃない」
「でもレゾンだぜ?」
ジャンの言葉にアルベールが胡散臭げに鼻に皺を寄せる。
「見た目が若くても何年生きてるかわかったもんじゃない。百どころか二百歳でもおかしくないんだ、レゾンってのは」
おれは落ちていた本を拾い、棚に戻した。タイトルは平民でも良く知る童話だった。
昔、彼女が読んでくれた記憶がある。『塔の中のお姫様』。お姫様は王子様が迎えに来てくれるのを待っている。何年も何年も。ある日、誰も来ないと気づき、塔から出ようとしたけれど、仲良しの小鳥に止められて足を引っ込めてしまう。
だからお姫様はずっと待ち続けているのだ。塔の中で外の世界を思い描きながら、決して自分からは出ようとしないお姫様。ラストのページにある挿絵は、窓辺で月を見上げている、そんな姫の姿が描いてある。お姫様の人生は塔の中にしか存在しないといわんばかりの、寂しい物語だ。
「あのレゾンは若くして吸血鬼になった、ってことだよ。それからずっとあの姿なんだ」
フォア卿が窓へ視線を向ける。
「雨が止みましたね」
夜が来ていた。外に出ると風が止んだ静かな木々の上に、三日月が月光を放って浮かんでいた。修道院に戻ると、リュシアンとフォア卿はカロン助祭に仔細を伝えに行き、残りのおれたちはまず食堂に向かい腹を満たすことにした。
でもおれはほとんど食事が喉を通らなかった。貧民区の後処理に残っていたジェルマンに、アルベールとジャンが、追跡やレゾン発見など、森での事を口々に話すのに耳を傾けながら、スープをひと匙すくっては落とす、すくっては落とすを繰り返す。
「若い女だったんだよ。結構な美人」
「黒髪でね。古風な服装だったよね?」
「そうか?」
「お上品だったよ」
「まあなあ」
「それで」
アルベールの視線が向いた気がするが、見上げるとジェルマンに話しかけているだけだった。
「いろいろあって隊長が怪我して」
「結果、取り逃がしたんだよねえ」
「誤射したのか」
ジェルマンが茶化すように笑い、おれを小突く。
「やるな、お前は大物になると思ってた」
「ジェルマン、からかうなって」
「そうだよ。ミシェル、ほんと気にしないでいいからね」
「隊長ならもう回復して、ぴんぴんしてるし」
「ミシェルだって捕まえようと撃っただけなんだし」
「あの時、隊長が斬りかかってたら生け捕りは無理だっただろ?」
「神聖力でズバッと消滅よ。その点、ミシェルなら杭で——」
「当たった瞬間、灰になった。使ったのは銀の杭だったから。でも実際に当たったのはリュシアンの背中で、人間だから刺さって血が出た。ほんとフォア卿がいて良かったよね」
おれは匙を置いて席を立つ。
「ごちそうさま。部屋で休むよ」
「ああ、うん」
アルベールとジャンが目配せしている。わっ、と泣き崩れたい気持ちだったけど、喉の奥で堪えてその場から離れる。食堂を出たが、自室には戻らず、外に向かう。あんなに森では雨が降ったのに、こちらは雷鳴が聞こえるだけで一滴も降らなかったそうだ。夜空には星がたくさん瞬いている。
特に目的もなく歩いた。ふと気づけば正門近くの礼拝堂にあるバラが咲く庭園にいた。そのまま歩き続けながら考える。湧いてくるのは疑念だ。皆、おれが何をしたのかわかっているのに、とぼけてるんだろうか。でも何のために?
おれはリュシアンを撃った。誤射ではない。撃った。
自分の衝動が信じられない。レゾンを撃つべきだとわかっていた。そのために銀の杭をつがえて弩をかまえたのだ。
「バカだろ。おれはバカだ、大バカ者だ」
夜空があまりに綺麗で、自分の中のどす黒い感情が暴かれるようだった。このまま神罰が下り地面に朽ちてしまいたい。リュシアンを撃つなんて。彼を尊敬していた。大好きだった。憧れていた、頼りにしていた、ああなりたいと夢見ていた。そんな相手を撃ったのだ。
おれは自分がどうしたいのか、わからなくなった。結局、おれは騎士ではなく魔女ということか。見上げていた星が滲んできた。そのまま上を向き、込み上げるままにしようとして、背後から近づく足音に気づき、急いで袖で拭う。
「ミシェル。さっきは悪かったよ」
ジェルマンだ。おれを探して追いかけてきたらしい。
「からかうつもりはなかったんだ。表情が暗いから、冗談めかそうとして失敗した。動揺して当然だよな」
「リュシアンのこと?」
「ああ、そうだよ」
ジェルマンは大きく一息つくと、腰高の花壇の縁石に腰かけた。おれも隣に浅く座る。
花壇に植わっているのはラヴァンドゥの低木で、銀色の枝葉が肩に当たり、甘く澄んだ香りがした。安眠効果があるという香りは癒しを呼んでくれるはずだが、おれの心はそんな優しい香りすら嘲笑しているように思えるのだから笑えもしない。
「ミシェル。おれも昔、仲間を斬ったことがある」
ジェルマンは夜空を見上げながら、静かに言った。
「うんと若い時だ。まだ騎士見習いだった頃に先輩をこう」
彼は斜めに斬り落とす仕草をした。
「ばっさり、な。敵襲を受けて混乱していた。仲間も何もわからず無我夢中で振り回した先が先輩で、しかもここに」
ジェルマンは頬に斜めの線を引いた。
「美男子で有名な先輩だったんだけどな。やっちまったんだ、おれは」
ジェルマンは隊の中ではガスパールに次ぐ二番目に年長の隊員だ。騎士の爵位も持っている。確か子爵家出身だったはずだ。
「おれが顔を傷つけたせいで破談になりかけたと言われた時は、冗談でもヒヤッとした。だからまあ、その」
ジェルマンは後ろ頭を乱雑にかく。
「気に病むなってことが言いたくてさ。お前は笑ってたほうが良い。じゃないと、隊全体が暗くなる。あ、これも責めてるわけじゃなくて」
うーん、と悩みだすジェルマンに、おれは笑った。
「うん、なんとなくわかった」
「そうか」
でもおれは、と口に付きそうになり飲み込む。
ジェルマンの昔話と違うのは、彼は死に物狂いの中での失敗で、おれは瞬時に天秤にかけた結果の選択なのだ。
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