第32話 再び貧民区へ

 慈善活動と称し押し車に大量のパンと果物を積んだおれたちは、貧民区に来ていた。今回も下っ端のドニは留守番。以前と違うのはフォア卿の存在だ。


「馴染みのお嬢さんがいるんでしたっけ?」


 押し車の横を歩いていると、フォア卿が身を屈めて囁くように聞いてくる。咄嗟に浮かんだのはラミアのことだ。でもすぐに貧民区で親しくなった少女を指しているのだと気づく。


「そうです、今向かっている家で会えますよ。他の子どもたちも一緒にいるでしょう」


 押し車を引いているジャンが、おれの様子を気遣うように振り返る。フォア卿はその視線に気づいてか姿勢を戻すと、「そうですか」とにこりとし、おれより前へと移動していく。


 感謝を込めてジャンに目で合図すると、「うむ」という感じで顔を引き締めてから彼は顔を前に戻した。


 貧民区は静かだった。襲撃に遭った前までは、おれたちの存在に慣れ、小さい子などは姿を見つけるとすぐ駆け寄ってきたのに。今日はそれがない。


 もちろん、あれから日数がかなり経過していたし、この日はフォア卿も一緒だから、初めてここへ来た時のように警戒が増しているのかもしれない。


 でも、そうじゃなかった。少女が住む家に到着すると、そこは無人。周囲の建物も確認したが少女だけでなく誰も見つからないのだ。


「何かおかしくない?」


 運んできたパンを振りながらジャンが訝しむ。


「パンがこんなにあるのに。どうして誰も来ないんだろ」

「いないからだろ」


 押し車に寄りかかるアルベールがそう応じる。最年長のガスパールが「日を改めようか」と指揮を取ろうとした。でも。


「もうしばらく探してみましょう」


 フォア卿がぱんと手を打ち鳴らす。前に出ると、おれたちをぐるりと見回した。


「三手に分かれませんか。わたしとミシェル、ジャンとアルベール、それからトマ卿とジェルマン。この組み合わせで良いですね?」


「良くないでーす」


 挙手したのはアルベールだ。だがフォア卿が視線を向けたのはガスパールだった。


「トマ卿、何か問題でも?」

 ガスパールはまっすぐフォア卿を見たまま、硬く返事する。

「いいえ。副隊長の指示に従います」


 うっそだろ、と声を上げるアルベール。ジャンはパンを持て余すように抱えて目をぎょっとひん剥いているし、ジェルマンは「真面目」とぼやいている。


「おれがミシェルと、副隊長はジャンと組んでください。行くぞ」


 アルベールはおれの腕をつかむ。


「わたしの指示に従わないのですか?」


 フォア卿の冷たい声に、おれは立ち止まろうとしたのだが、「ええ」とアルベールは大股で歩き続けるので、じたばたとついていくしかない。


「いいのかよ、その態度。おれはあいつと組んでも平気だよ?」

「だめ、おれが平気じゃない」


 アルベールは肩越しにフォア卿をにらんでいる。


「あのなあ。そもそもアルベールがフォア卿をこの作戦に誘ったんじゃん」

「ミシェルに関して断固した態度に出る、それがおれだ」

「でもさあ、副隊長だよ?」

「何が副隊長だ。新入りの癖に横柄なんだよ、むかつく」


 角を曲がり、やや傾斜のある路地裏を、彼は何か目的があるようにずんずん進んで行く。と、アルベールが止まった。


「お前、あいつの味方するのかよ」

「まさか。冷静な判断してるだけ」


 ハア、とアルベールは手を放して嘆息する。


「お前のためを思ってよぅ」

「ああそう。で、こっちに向かったのには何か考えがあるわけ?」


 あたりを見回しながら問うと、アルベールは「何の意味もない。フォア卿からミシェルを守るため移動したにすぎません」とお辞儀だ。


 路地は狭い。両脇にある建物は薄橙色で所々が剥げ、骨組みの木がむき出しになっている。


「どこ行っても静かだね、不気味」


 おれは視線をアルベールに戻した。


「フォア卿って本当に支部と手を組んでないんだよね?」

「それはおれも怪しみ始めてるとこ」


 アルベールは壁に寄りかかる。


「でも本部から来たばかりで支部の奴らと繋がるか?」

「金や権力になびいてすぐ取り込まれたのかも」

「うーん、あの男ならあり得るな」


 険しい表情で考えに耽った様子のアルベール。


「でもフォア卿って結構あれで潔癖だと思うんだよ」と言い出した。


「規律に厳しいっていうか。支部を周って不正を正してた人なんだろ?」

「でもあの人、男色には理解あるみたいだったよ。教会で禁じてるのに」

「あ、何だ?」


「あれ、聞いてない?」

 意外だ。この話を知らなくておれを守るとか言ってたのか?

「おれ、リュシアンとカロン助祭相手に二股疑惑が浮上してんの。でも許すってフォア卿が」


 と、肩をがしっと捕まれる。


「ミシェル、お前は皆のヒヨコちゃんじゃかったのかよ。いつからリュシアン専用のモン・プサンぼくのヒヨコちゃんになったんだ」


「いや二股してて」

「カロン助祭より当然隊長のほうを選ぶだろうが、なあ?」


 このこのーぅ、と肘をぐりぐりしてくるから、ぷっ、と吹き出してしまった。


「やめろ、アルベール」

「おれのヒヨコちゃんになれよ、ミシェルちゃん」

「お断りだ」


 じゃれついてくる腕から逃げようと動き回っていると、突然、鋭く響く鳥の鳴き声がして驚く。見上げると白い鳥が上空を旋回していた。


「伝書鳩か?」

「何かあったのかな」


 目を細めて見上げていたアルベールと視線が合う。


「向こうへ飛んでった。行ってみるか?」

「もちろん」


 こく、とうなずき一緒に駆け出す。真っすぐ路地裏を突き進んだつもりだったが、湾曲していたようだ。出た道の先で、同じく鳥の姿を見て駆けてきたであろうジャンとジェルマンに出くわす。


「あの鳥は何事だよ」

 とアルベール。ジャンが、

「知らないよ、今、駆けつけてるんだから」と振り返りながら答える。


「押し車は置いてきたんだ。ミシェル、戻って見とけよ」


 そうジェルマンが言い、足止めしようとするので、おれは彼の脇をすり抜けた。


「やだね、ジェルマンが戻れよ」

「っていうか組み合わせ変わってね?」

「アルベール。こっちだって、フォア卿と組むなんてごめんなんだよ」

「ジャンが嫌がるから、ガスパールがあいつと組んだ」

「で、二人はどっちに行ったの。こっちの方向?」


 でも返事は必要なかった。ガスパールとフォア卿の姿が見えたからだ。半壊している土塀の裏に二人してしゃがんでいる。


「おーい、何が」とアルベールが声をかけるのを、しっ、とガスパールが制した。


「血を荷台に積んでいるところらしい。どうやら住人のほとんどは……」


 濁そうとしたガスパールなのだが、フォア卿が続けてしまう。


「死んだようですね。血液だけ抜き取り始末したのでしょう」


 ふいに風が運んできた臭気に鼻を覆う。断言できないが、フォア卿の言葉のせいで、その臭いにしか感じられなくなった。血。石積みの倉庫らしき場所から、まるで手招く影のようになって、その臭いは漂ってくるようだった。

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