第41話 今日は血だらけの日ね

「ミシェル」

「ミシェル」


 同じ名前を持つわたしたちは、特に用もないのにそう呼び合うと、おかしくなって笑い合っていた。


 ミシェルは笑うと目尻が下がり、顎が上向く。その様子がさらに彼を幼く見せた。わたしとの生活に慣れていくほどに、彼は年齢が下がっていくような人だった。当時のわたしはそれがさほど嫌ではなかった。癒されるような、そんな心地になっていたのを憶えている。


 初夜が失敗に終わっていると知った父からは怒りの文言と、早く後継ぎを産むよう急かす手紙ばかり届いた。でも直接怒鳴りこんでくるわけでもなく、日々は穏やかだった。


 けれども、わたしは自分の義務を自覚していた。父が自分を引き取ったのは再婚が事故により失敗に終わり、なおかつ後遺症で子をなす能力を失ったからなのだ。そうして娘の存在を思い出し、わたしを引き取ったわけで。課せられた義務は、早く父の血を引く男児を産むことだった。


 でも焦る必要はないとも思っていた。父の急かす言葉も聞き流せるほど日々は静かに過ぎていた。わたしたちはまだ十四歳だった。隣を歩くミシェルと肌を触れ合わせるなんて、想像するだけでも信じがたかったが、それでも五年もすれば、この想いも成熟していき変わるだろうと感じていた。


 わたしに課せられた義務は、同時に彼の義務でもあった。そして、それ故に父を恐れているのも同じだった。レネ伯爵は共通の敵なのだ。だからこそ寄り添い合おうとしたし、慰め合う中で築いていける二人の未来に期待した。


 近い将来、わたしは自分よりも細く頼りなげな男に、恋をする日が来るだろう。今は同じくらいの背丈のミシェルだって、やがて身長は伸び、肩幅も広くなって、力強い腕でわたしを守ってくれるはず。


 それまで待つ気だった。求められるのは辛抱強さなのだと信じた。


 でも現実は、それをわたしの甘えだと示した。

 試練がまたわたしの元にやって来る。


 あの日は春風が吹いていた。


 爪先が勝手に踊り出すような、心浮き立つうららかな日和だった。わたしは侍女と一緒に海が見える丘でピクニックしようと準備を始めた。最初は二人で行こうとしていたはずだが、籠に昼食の用意を詰め込んだあとで、夫のミシェルも誘おうという話になった。


 なぜそういう話になったのか思い出せないでいる。

 わたしがふと思い立ったのか、侍女がそう勧めたのか。

 ともかく、その日、ミシェルは吸血鬼の襲撃に遭い、感染したのだ。


 そして四日後だ。牙が生えた彼を見て、わたしはミシェルを殺した。


 銀の杭を心臓に打ち込んでから、首をはねた。浴びた血を拭っていて違和感があり下着をまくり知った。生理だ。下着の内側にある赤い点々を見てわたしは笑った。今日は血だらけの日ね。侍女も笑ったはずだ。そうでなくては悲しい。


 その後の日々は喜劇だった。


 父は思い通りにならない自分の人生に苛立ち狂ったのだろう。ミシェルの葬儀が終わったその日だった。わたしを呼び出したかと思うと、「お前は息子だ」と言い出した。まだ日が落ちる前、真っ赤な夕陽が窓から見える庭園を染めていた。


 新たな婿を取るよう言われるのと、息子として男装して生きろと言われるの、どちらが幸せだったろう。


 いくらか正気である証なのか。父はママンと、その生家にも手を回した。記録を書き換え、ママンが産んだのは息子であり、修道院に入っていたのも息子のミシェルになった。ママンに、そしてママンの兄である当主やその使用人たちには、金を支払い口止めと協力を頼んだ。


 ママンはその金で恋人の楽士と共に異国に渡ったと聞いた。ママンはわたしを迎えに来ることは二度とないのだ、そう思い知った出来事だった。


 死んだミシェルは、妻のミシェル。

 おれは生き残った伯爵家の嫡男、ミシェルになった。


 祝祭の男装であっても、余興と受け取られるか大罪と受け取られるか危険な橋を渡る行為だというのに、おれは日々罪を犯し続ける。


 貴族の娘には多くの権力があるように見えるだろう。でも個人の権利がないのは女である以上、庶民も貴族令嬢も同じだ。たとえ父親の指示だとしても、真実が露呈した時、彼が「娘が勝手にやったことだ」と言って追放したら、わたしの人生はそこで終わる。


 貴族でない女の末路、男装の罪を犯した魔女の末路なんて、わかりきっている。火刑、よくても獄中死だ。


 きっとその恐怖が反抗へとおれを駆り立てたのだろう。教会の聖騎士団に入るよう言われたにもかかわらず、おれが選んだのは吸血鬼討伐組織のシアン・ド・ギャルだった。


 秘密を暴かれる前に。神の裁きを受ける前に。

 死と隣り合わせの討伐隊は、まるで甘い菓子のようだった。


 その結果、父の怒りを買ったがために金がなく、伯爵家の嫡男であるにもかかわらず、十九の歳になっても騎士の爵位を得ていないレネ隊員が誕生したが、周りの人々に恵まれて、四年もの月日を男として過ごすことができた。


 それももう終わる。


『いつまで続けるつもりなの?』

『父が死ぬまでかな。あの人が始めたことだから』


 ラミアとの会話が脳裏に過ぎる。


 病床の父はおれを呼んで何を言うつもりなのかな。

 おれは娘に戻る?

 それとも、あの男は頑なにおれが息子だと思い込んで死ぬつもりなのか。


 その後はどうなるのだろう。

 家門の男たちは、おれをどう扱う予定だろう。

 

 また誰かの妻になる未来。

 それとも男装を続け当主になる未来。


 時期が来たら養子をとって、爵位と領地を無事後世に繋ぐよう言われるのか。


 いつ魔女と暴かれるかもしれない恐怖と戦いながら、領地と領地民を守り抜く傀儡として生きるのか。いいや、その危機を家門の奴らは避けるだろう。


 だったらわたしは伯爵の娘に戻り、誰かの子を産むよう指示を受けるのか。


 再び記録をいじる作業をして、周囲に大金を払い、口止めし、監視と暴露の恐怖と戦いながら、死ぬまであの領地で飼殺されながら暮らすわけか。


 それとも二人のミシェルは死に、わたしは誰でもないただの女になって、再び修道院で暮らす……、鞭の音は嫌いだ。寒いのも嫌いだ。


 ああ、なぜまだ人生は続くのだろう。その道はなぜ未来へ未来へと繋がっていこうとするのだろう。


「ミシェル、ミシェル!」


 リュシアンに肩を揺さぶれて、自分が頭を抱えて震えているのに気づいた。


「ミシェル、大丈夫か?」


 リュシアンの濁りのないまっすぐな瞳とぶつかる。

 何もかも冗談だというように、おれは笑いながら彼を押しのけた。


「父上が呼んでいるなら帰らないとな。明日にでも発つよ」

「ミシェル」

「今度会う時、おれは伯爵だぞ。まあお前も次期侯爵だけどな、ベルナルド家の嫡男さんよ」


 陽気に言ったつもりなのに、伸びてきた彼の指が頬に触れてくる。親指で涙を拭ったのだとわかり、おれは慌てて身を引いた。


「泣いてない、絶対」

「泣いてるだろ」

「嬉し泣きだ。父は好かなかった。横暴で醜くて、尊敬できる点はひとつもない奴だった」

「それなのに急いで死に目に会いに行くのか?」

「葬儀をするためだ。そのあと当主になる、レネ伯爵だ」

「ミシェルは伯爵になりたいのか?」


 おれは笑った。わたしは泣いていたけれど、おれは笑ったんだ。


「当たり前だろ。良い領主になるぞ、おれは」

「女なのに?」

「やめろよ、冗談でも——」

「ミシェル」


 その真剣な眼差しを見て悟った。

 この男は知っている。


 わたしが女だと。

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