第15話 それは絵画を引き裂くように

 自分では決して覗きに行かない湖畔に、無理やり突き落とされた感覚だ。


 押しやったはずの過去を、フォア卿なんて奴に引きずり出されてしまうなんて。


 いっそ、発狂したように笑い狂ったら、彼はどんな顔をするだろうか、と。そんな誘惑にかられるが、おれはなるべく平然を装って立っていた。なぜなら、今ここで問題を起こせばまた居場所をなくしてしまうと思ったから。


 討伐隊を追い出されたら、おれはきっと父の元へ帰るだろう。

 そして再び結婚するよう言われる気がした。

 それは命令で、おれに拒否権はなくて。


 一度目の結婚だって、嫌で嫌でたまらなかった。何もかも勝手に進んでいった。おれの結婚なのに、おれが選んだものは何一つなかった。日取りも袖を通した服も、その日、口にした飲み物ひとつですら、何もかも決まっていた。


 それでも運良くミシェルとは良好な関係を築けた。


 ミシェルは繊細で儚げで、おれの脅威になるなんてものはひとつもなくて、優しいというより、ひたすら臆病で弱い人だった。


 それでも寄り添って手を握り合い、父という強大な敵から——それは十四歳のおれたちにとっては『大人』という言葉と同義だったが——守る盾に、互いがなろうとした。


 そんな矢先だ、ミシェルが死んだのは。


 うららかな日和だった。流れゆく風は花の香りを含んでいて、柔らかく暖かった。


 ミシェルはあまり外出したがらない人で、そこがおれと気が合わない点だったが、あの日は、どうしてもミシェルも一緒に外に出たくて引っ張り出していた。海の見える高台に一本立つ広葉樹の木蔭に布を広げて座り、簡単なものを摘まみながら会話できたら、それで楽しいと思ったのだ。


 乗り気じゃなかったミシェルも、いざその場に来てみれば、心地よさに微笑んでいた。おれにはそう見えた。


 二人とも菓子が好きだった。甘くてほろりと崩れる焼き菓子が好きだった。口内で転がす飴の甘さが好きだった。蜂蜜をかけたパンを齧ると、二人とも目を合わせて自然と微笑んでいた。そのひと時は今思い返せば口づけするより秘めやかな瞬間だ。


 そして。


 それは一枚の絵画を引き裂くように消えた。


 茂みから出てきたのは狂った吸血鬼一匹で、そいつはミシェルの腕をつかみ押し倒した。今なら、あんな貧弱の限りを尽くした、取るに足らない吸血鬼など、おれの欠点だらけの剣技でも倒せただろう。でもあの時は何もできなかった。おれはただ見ていた。


 ミシェルを置いて逃げなかった自分が立派か?

 違う。ただ怖気づいて足が動かなかっただけだ。


 一緒に来ていた侍女のほうがよほど勇敢だった。彼女はおれの手を取って走った。襲われているミシェルより、おれを優先した。おれが伯爵の実子だからだ。


「ミシェル、ミシェル」


 それはおれの声だったか、それともミシェルの声だったか。 

 あんな弱々しく口から落ちた涙声を、おれはあの日出して、君の名を呼んだのだろうか。


 侍女の叫び声を聞いて、家門に所属する騎士が二人、慌てて駆けつけた。彼らとすれ違ったが、おれは何の言葉もかけられなかった。頭が麻痺していた。助けがきた。ミシェルはもう大丈夫だろう、いや、もうだめだろうか、あの子は死んだだろうか? 


 答えは雨と共に知った。暖炉の火に当たっていると騎士がミシェルを抱きかかえて戻ってきた。おびただしい血はミシェルのものか、吸血鬼か、それともミシェルを助け出した立派な騎士様のものなのか。医者が駆けつけ、手当をするのを暖炉の火を背に浴びながら見ていた。あのうららかな日和は嘘のように消えて寒々しく灰色の景色が辺りを満たしていた。


 光はなかった。

 四日後にすべて終わった。


 騎士のひとりが軽傷を負ったが、聖水による浄化が間に合って無事に回復した。でもミシェルはだめだった。あの子は吸血鬼になった。口数の少ない小さな口から牙が見えた時、おれはすがっていた希望から手を放した。


 貴族ならどの家でも教会から大枚はたいて購入した聖水と銀の杭が保管してあるものだ。レネ家にも当然あった。その銀の杭を心臓に打ち込むとき、あの子はもう正気でなかったと信じている。おれがやらなくても良かったが、むしろ、細腕のおれじゃないほうが適任だったが、それでも馬乗りになり、ミシェルの胸に先の尖った銀の杭を打ち込んだ。


 けれどその時の光景は血が巡る熱の記憶だけで、あとは何も脳内に残っていない。あるのは、ただがむしゃらに手を動かしていた、その感覚だけだ。


 フォア卿が「ミシェルの無念を晴らしたかったのか」と言った時、おれはそれもいいかもしれないと思って「ロマンチック」という言葉で返した。けれどあの頃のおれは、そんな客観性に根付いた考えなどこれっぽっちも抱いちゃなかった。


 これまでだって、おれの人生は常に灰色が囲むように存在した。いくら陽の光に目がくらむようでも、そこにはいつも影が潜んでいて忍び寄り、押しやっても必ずそこから離れなかった。


 それはおれの首を絞めつけるが、最期の一瞬で力を抜くのだ。


 ミシェルの死後、すでに横っ面を地面にこすりつけて生きているというのに、まだ這い上がっていかねばならない現実が、自分自身に余っていることが苦でしかなかった。


 だから聖騎士団の試験を受けた際、シアン・ド・ギャルドの刹那主義に引かれた。彼らはお飾り集団ではない。常に戦う者たちなのだ。吸血鬼を滅ぼしたい? 違う。おれは吸血鬼に近づきたかった。そこにあるのは死だ。死のど真ん中にいて、それでも這いずり回るのが吸血鬼だからだ。


 けれどもいつからだろう。

 ひとりぼっちの世界に、彩を感じ始めたのは。

 早鐘を打つ心臓に、血が駆け巡るこの熱に、生を感じたのは何がきっかけだったか。


 おれはいつの間にか人生を楽しんでいた。

 男たちを仲間と呼ぶようになり、討伐隊を家だと感じた。

 リュシアンのように、あんな風に頼りになる存在に自分もなりたいと思った。

 

 まばゆく暖かな陽光に目を細め、思いっきり空に手を伸ばして、その生の喜びを享受していても、気づけば背徳を感じなくなっていた。


 ミシェル。


 あの人を消したい過去の記憶として追いやることに、おれは罪の意識を感じなくなっていた。フォア卿の口から、つらつらと語られるその名前を耳にした、その瞬間までは。


「——その後」とフォア卿は続け、書類をめくった。


 もう十分すぎる過去を引きずり出してもらった気がしたのだが、まだ残っていたらしい。うんざりする時間ほど、感覚を研ぎ澄ませ記憶に跡を残すものだと痛感する。この一瞬一瞬の呼吸の狭間に吸った空気の味さえ、おれは一生覚えているだろう。


「君は剣の腕がさっぱりだった」

「ええ」

「入団しても訓練についていけなかったね」


「修道院ではまったく剣術の稽古なんてしませんでしたし、父の元へ移った後も、まともな教育は受けていませんでしたから」


「伯爵が剣術の稽古を疎かにしたのかい?」


「父の意向は知りません。ですが」

 おれは大げさに両手を広げて体を見せるように胸を張った。

「この通り、どう見ても武芸に強い体型ではないでしょう? 十五の時なんてなおさら酷いもんです。これでも四年で背が伸びましたし、体も鍛え上げたほうですから」


 フォア卿は醜いものでも見るように目をすがめ、軽く否定するかに首を動かした。


「稽古に全くついていけなかった君に声をかけたのがカロン助祭だ。入団後の約二年間、助祭の仕事を手伝った。聖具を用意したり、武器の製造にも関わったりした、そうだね?」


「正確には二年もやってないです、一年と半年ですかね。ロマランを燃やして聖灰を作るのが上手かったんです。どの枝でも刈ってくればいいってもんじゃないですし、灰にする火力だって加減が難しいんです。助祭よりおれのほうが質のいい灰を作りましたよ」


 自慢げに言ってみたのだが、フォア卿は隠すことなく鼻で笑ってやがる。


「その後」と書類に目を向けたまま続けた。

「ベルナルド卿が最年少隊長として支部に配属されてから、君の処遇も変わったようだ」


 おれは苦笑していた。

 リュシアンが来てから、確かにいろいろ変わった。

 莫大な神聖力を持つ彼は、十八歳で隊長になり、その存在感は別格だった。

 おれのような役立たずのチビを隊に引き入れても、何のリスクにもならないほど、絶対で圧倒的な存在なのだ。


「隊員として配属されました。下っ端でしたけど。実戦に出るようになったのはその頃からです。もちろん、それまでもカロン助祭について現場に駆け付けることはありましたけどね、聖水やら浄化の灰やらを撒くんです。割と命がけですよ、楽な仕事じゃない」


「ベルナルド卿は——」


 フォア卿が、また一枚書類をめくった時だ。ドアが荒っぽく開いた。


「ミシェル」


 あんなに焦っているのは珍しい。リュシアンの息が上がっているのを、驚きの目で見てしまった。常に冷静、呼吸は一定、疲労は目元が少しかげる程度にしか見せない彼が、おれと目が合うと、魂が抜けて飛んでいきそうなほど安堵している。


「勝手な真似はするなといったろう」


 瞬時に荒っぽい口調で厳しい顔をする。でもこの言葉はおれに向けてのものじゃない。視線はフォア卿を見ている。

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