第40話 ミシェルの結婚

 修道院から父の住むレネ伯爵邸に引き取られたのは、十三歳の時だった。


 幼少期に両親が別居して以降、父との接点はまったくなかった。おぼろげにも残る記憶すらない。それは当然で、一緒に暮らしていた時期でも、あのレネ伯爵が娘のおれに関心を寄せなかったからだ。


 あの人はおれが生まれた時、娘だとわかると会いに来もしなかったという。


 ママンはお酒が入るとその時の事を口にした。「わたしはキスしたのよ、ミシェル」。ママンは髪をなでながら囁くのだ。「あなたにキスしたの。お父さんとは違う、その事はわかってちょうだい。わたしのちっちゃなお姫様」と。


 それでもママンは恋人を優先し、幼いおれを修道院に捨てた。


 あの頃は、なぜママンは自分にこんな仕打ちをするのだろうと考えていた。愛を失った理由を知りたかったのだ。


 修道院での食事は質素の限りを尽くしていた。硬いパンに味のないスープ。それだって満足な量は出ない。そして学習室では鞭の音が毎日していた。手の甲を打たれた傷は治ったが、太ももの裏には当時ついた傷跡が、今でも深く残っている。


 まるで囚人だった。良い娘ではなかったかもしれないが、希望を打ち砕く、陽の光さえ遠く感じるような暗い生活を強いられるまでの罪を犯した自覚はなかった。


 そんな日々が三年続き、すっかり悲嘆していたからだろう。父からの知らせを、まるで物語の英雄に救い出されるヒロインのような気持ちで迎えたのを覚えている。


 あの日は冷たく息が凍る礼拝所で祈っていた。自ら進んでしていたとは言えない。あそこでは、そういう習慣が定められていただけで、自分でも何を祈っているのかわかっていなかった。


「ミシェル、お父様から手紙が来ていますよ」


 修道女の声は幻聴のように思えた。震える手で受け取った手紙に記してあった「伯爵家で暮らすように」の父の一言にいたく感動してしまった。その魂胆など少しも見抜けずに。


 顔も覚えていない父親だけど、きっとわたしを不憫に思って救い出してくれるのだ、そう甘い夢想に心弾ませたのだ。


 そうして到着したレネ伯爵邸だが、懐かしさは何もなかった。驚くほど、他人の家に来たと感じた。堅苦しい表情しかしない使用人たちの出迎えにあった瞬間、十三歳のわたしは大きくなり過ぎているのだと理解した。可愛いお嬢様の時代は終わっていたのだ。そして執務室で会った父を見て、その確信は強くなった。


 これが自分の父親なのか。

 そしてこの人がママンの夫だった人なのか。


 レネ伯爵は年老いた男だった。痩せていた。まるで完成途中に投げ捨てた木彫り人形みたいだった。顔や身体つき全体がゴツゴツしている。美しいママンが彼を嫌った理由がわかった気がした。


 事故の後遺症で支えなしでは自力で動けなくなっていて、そのせいで短気に拍車がかかっているようだった。再婚したが妻と幼い子を事故で失い、自身も後遺症に悩まされている男。


 それを思えば少しは同情できるかもしれない。何よりあの修道院から連れ出してくれた英雄のはずだから。わたしはまだわずかばかりに残る淡い希望を抱いていた。でもそれもあっけなく散った。 


「初潮は迎えているのか」


 まともなあいさつもなく、この一言だ。嫌悪を抱くのはこの経験ひとつで十分。わたしが返事しないでいると、父は執務机を強く叩いた。


「どうなんだ。言葉も話せない愚鈍なのか」


「去年」

 わたしの声は悲鳴を上げる寸前だった。

「去年、なりました」


 男は満足した様子だった。わたしが震えあがりながら頬を染めているなんてお構いなしなのだ。


「その点は十分だな。お前が母親に似ないといいが。あの女は女児ひとり産んだだけで使い物にならなくなった」


 ママンが恋しくなった。

 誰よりもママンにハグとキスを贈りたくなった。

 彼女の無気力な瞳の理由が、ようやくわたしにも届いたのだ。


 それから三日後のことだった。


「お前の結婚相手だ」


 まだ新しい生活になれていないのに、次なる試練を与えられてしまった。


 引き合わされた相手は、同い年の少年だった。家門の中で年頃が合うものを選んだようだ。今思えばその点だけは父の温情を感じる。いやそれも偶然の産物だったのか。思うように動く婿を選ぶなら、自らとそう変わらない年齢の大人より、十三歳の少年は都合が良かったのかもしれない。


 彼の名も、わたしと同じでミシェルだった。


 一見して気弱そうで意志薄弱な少年だと思った。わたしと目を合わすのも困難そうで自分の指先ばかりに見ていた。ありきたりな挨拶でさえ、泣き出しそうに震えている。


 同い年だとしても、二つ三つ年下に見えたし、わたしのほうもすっかり姉気分になった。当主の娘の結婚相手に選ばれた彼は、魔物の生贄そのものに見えた。彼もまた両親に売られ、良いように扱われている子どもにすぎないのだ。何事において彼の意思はなく、当然わたしの意思もない。


 わたしが十四歳になるとすぐ、わたしたちは結婚した。


 花嫁衣裳はあったが特別仕立てたものではなく、親族の誰かが使ったもので、サイズもあっていなかった。わたしには袖が短かったし、肩のあたりが張っていて少しでも動けば破けてしまいそうだった。一方で夫のミシェルのほうではサイズが大きすぎ、彼の成長不足をより誇張していた。


 父と家門の重鎮が数名参列しただけの挙式だった。司祭は来ていたが、いかめしく何も祝福する気がない様子だった。


 式は早々に終わり、夜になった。初夜の準備はしていた。叔母だという女から教育を受けていたのだ。それでも肝心な部分は理解させてもらえないままでいた。抵抗するなと。それだけ強く言われた。ただ目を閉じ、されるがままにしていろ、と。


 けれどすべて徒労に終わった。ミシェルはその義務を果たせそうになかった。彼は震えていた。まるでわたしに生きたまま食われるとでもいうように。いくつか言葉を交わしてみたのだが、彼はわたしよりもこの手に関して知識がないのは明らかだった。


「おやすみ、ミシェル。明日にはここを出て、わたしたちの家に行きましょう」


 だから、苦痛も今夜まで。そう安心させて横になった。


 もしかしたら大人たちに叱られるかもしれない。天蓋の向こうで聞き耳を立てている者がいることは知っていた。


 それでも十四歳の男と女に、一体何を期待するのだろう。


 まして、こうも震えあがっている夫を相手に、妻のわたしが出来ることといったら、隣に横になり、静かに目を閉じるくらいのことだけだ。そう、わたしは叔母に教わった通りに、ただ大人しく横たわり目を閉じていたのだ。


 そして朝が来た。不安に思っていた叱責はなかった。


 わたしたち夫婦は領地内にある別邸で暮らすことになっていた。父の目を離れることができる。それだけでも既婚者になったかいがあったというものだ。別邸は海岸沿いにあり、貴族の屋敷にしては小さな家だったが、それでも若い夫婦が暮らすには広いと感じるものだった。


 新しく雇った使用人とはうまくいきそうだった。特に侍女になった家門の娘と親しくなるのにそう時間はかからなかった。彼女はわたしより年上だったが未婚で婚約者もなく、その手のことには疎いようだったが、だからこそ煩わしい態度をほのめかされることもなく、少女同士のように仲良くなれた。


 その輪の中に夫のミシェルを混ぜるのにも、さほど苦労しなかった。


 彼は読書を好んでいたが、外に連れ出そうとすれば大人しく従い、やがて植物や小動物が好きなことに気づいた。二人での散歩が日課になった。交わす会話は少なかったが、良好な気候が、わたしたちを励ましてくれていた。海は青く、いつ見てもきらめいていた。潮風の香りが花のそれより好きになった。

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