第4話 かわいそうなママン

「かわいそうな子」


 それが母の口癖だった。


 おれの容姿は母譲りだ。濁りのない金髪に碧眼。


 癖毛で毛先にかけて弾むように波打つブロンド。外出時や祝宴、来客時は母さんも、その光に愛される眩しい髪を結い上げ布で覆っていたが、自室では軽く櫛を通すだけで広がるままに下ろしていた。


 彼女の寝椅子は日当たりの良い一階の窓辺にあった。


 そこへ横たわり、気だるげにいつも半ば目を閉じていたママン。赤みのない白い肌。でも青白いわけではなく少し黄色味を帯びていて、幅の狭い肩は、動くたび鎖骨がすぐ浮き出でぽきりと折れそうだった。腰も細く頼りない。寝そべる裾から覗く素足は、人魚のヒレのように薄く、爪は貝みたいだった。


 ママンは、そのまま光の中に溶けて行きたい人に見えた。


「ミシェル」


 稀に名を呼んでくるが、手招いてはくれない。視線は合っても自分を見ているとは感じなかった。まるでおれは透明で、その後ろの壁のほうが興味深いとでも言いたげで。ミシェル。吐息が漏れたように、そう呼ぶ。「かわいそうな子」。


 けれどおれの目には、かわいそうなのは彼女だった。

 おれは何も不幸ではなかった。当時を思い返せば、いつも陽だまりの中にいた。


 両親は、おれが四歳の時に別居した。


 おれは母の生家があるプリュイ領に移り、そこで母と暮らした。領地では、兄夫婦がすでに当主になっていたから、おれたちに与えられたのは本家から離れた邸宅で、鬱蒼とした森に覆いつくされそうな場所にぽつりとあった。


 ママンは退屈していたのだと思う。


 祝宴を開いても訪ねてくるのは、騎士だといっても洗練さに欠けた粗野者しかおらず、女は女で野暮ったく、小領主の女主人でも使用人とそう変わらない風貌だった。


「肌を見たらわかる」


 海底から泡を吐き出すように母さんはいった。おれの髪をなでながら、眠たげに。


「お前とわたしは白いだろ。ほら、白い」


 腕を並べこすりつけ、何度も何度も繰り返し手をなでてくる。

 ママンの肌はしっとりしていた。柔らかく傷跡ひとつない美しい肌。


「ミシェル。かわいそうな子」


 ママンはたまに口づけしてくれた。頬に。ひたいに。唇にも。

 ママンのキスは冷たかった。氷に触れたように寒くなる口づけだ。


 だからおれはママンの気まぐれな愛撫が引くとすぐ厨房に下りて行って、おやつをねだった。温かいハチミツが入ったミルクを飲むと海底から浮上できた気がしたのだ。邸宅の使用人たちは全員優しかった。おれは可愛い「プティおちびちゃん」だった。乳母から庭師のおじさんまで、笑顔でおれを見つめ、愛情の温もりで守ろうとしてくれた。


 だから「かわいそうな子」はいつもママンのことだった。

 浜に打ち上げられた人魚のママン。どうしてこんなところにいるのだろう、と嘆いているママンを、それでもおれは愛していた。きっと、今も愛している。


 いつ両親の離婚が成立したのか知らない。


 でもママンに恋人ができて、おれは十歳で修道院付属の寄宿学校に入れられた。


 それからママンとは手紙のやり取りすらない。数年後、平民と再婚して子どもが生まれたと父親経由で耳にしたが、その相手がママンを口説いたあの恋人、異国出身の楽士なのかどうかもわからない。そもそもその話だって真実かどうか。


 ママンはきっと再会しても、おれを、あのミシェルだと気づかないだろう。

 それとも一目で気づくだろうか?


 たまに夢で見るママンは、やっぱり寝椅子に横たわる眠たげな人魚だ。


「かわいそうな子、声を上げて泣くことも出来ないなんて」


 あの日々のどの瞬間にも、おれが声を上げて泣くような事はなかった。部屋は暖かく、食事はたっぷり、叱る者は一人もいない。日々はいつも穏やかだった。鞭の音を聞いたのはその後、修道院の寄宿学校に入ってからだ。


 それでもたまに木霊こだまする。

 おれはかわいそうな子なんだって。


 人魚の子は人魚。それはつまり異質ってことだ……。


 ◇◇


 部屋に入って来る足音で目が覚めた。


 長くは眠っていない。横になってすぐだと思う。


 考えていたのは今夜の戦闘風景だった。吸血鬼特有の瘴気、正気を失った顔、滴る唾液と白濁した目。あれだって、元は普通の人間だったのだ。いつだって、ヘマした自分がああなる可能性がある。そう思うと未だに口内に残る聖水の苦みにも感謝したくなる。


「悪い、起こしたか?」

「眠い」


 宿舎は相部屋で、おれはリュシアンと同室だった。


 ベッドと文机があるだけの簡素な部屋。修道士の宿舎とそう変わらないが、こっちの棟はかろうじて家庭的な温かさがある。向こうはまるで監獄で陰湿。造りは似ていても住んでいる人間の性質で、壁や床も違いを見せるのだ。


 リュシアンは向かいの自分のベッドではなく、おれのほうへ来て、端に軽く腰かけた。ロマランの匂いがする。清浄ですっきりした香り。


「口、あーん」

「あーん」


 まだ眠気交じりで半分目を閉じて口を開ける。何か放り込まれた。


「……飴」

「何味?」

木苺フランボワーズだ」


 自然と口元がほころぶ。


「好きな味だろ」

「うん、医務室から盗ってきたの?」


 砂糖を使った甘味はここでは貴重だ。おいそれ食えるものではない。

 熱を出したとか、死にかけた時に、医者が恵んでくれるものだった。


「頼んだらくれた」

「さすが神聖力の持ち主は扱いが違うね」

「聖水の口直しがいるだろ。腹が減ってるなら食事も運んできてやろうか?」


 おれは眠たくて少し返事が遅れた。


「ううん、寝たい」

「そっか」


 頬で飴を転がしながら、眠りの世界が近づいて来るのを感じていると、リュシアンの手が頭を軽くなでたような気がした。おれは乳母の手つきを思い出しながら、とろとろとした眠りに落ちていった。


 鐘の音が聞こえた。窓を見ると陽はすっかり昇っている。

 たぶん六時課(正午)の鐘だ。


 腹が減っていた。みぞおちに穴でも開いたみたいだ。


「寝すぎた」


 上体を起こすと、向かいのベッドで足を組んで腰かけたリュシアンと目が合う。彼は本を読んでいた。


「他はまだ寝てる」

「腹減った」

「パンならあるけど?」

「ちょうだい」


 リュシアンは立ち上がると文机にあった盆から丸パンを取って軽く投げてよこした。伸ばした手で受け取る。パンは噛むと、じんわりとした甘さが広がる。食べると喉が渇く。期待を込めた目でリュシアンを見つめると、本に戻っていた彼の視線がまたおれに向く。


 苦笑したあと、リュシアンは再び立ち上がって盆から陶器のコップを取り、渡してくれる。ミルクが入っている。にこにこしていると、おでこを軽く突いてきた。


「お前、おれがいなくなったらどうすんの」

「さあ」

「異動が決まった」


 おれはむせた。ミルクが鼻から出そうになる。


 リュシアンは笑うが、おれはどくどくと動悸がした。


 彼の神聖力は強力で騎士としての力量も申し分ない。高位貴族出身でもあるから、そのうち皇室騎士団から勧誘がくるんじゃないかと噂されていた。そうでなくても、彼ほどの逸材が、こんな地方支部の小隊長でいるなんてもったいないのだ。


「ど、どこに行くの、本部?」

「違う」


「じゃあ帝都?」

「いや」

「教皇をお呼びなの?」

「南方に行く」

「へ?」


「おれだけ引き抜きにあったわけじゃない」

「……? だったら異動って」

「小隊の転属が決まった。ついでにカロン助祭も一緒」


 まだ理解が追いつかず混乱していると、リュシアンはさらに驚くことを言う。


「新任地はプリュイ領だ。確かミシェルの故郷だよな?」

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