第51話 エピローグ④

 あの日、正義感にかられた梅子は、ユカのスマホをこっそり持ち出した。

 207号室を出た梅子はドアノブに杖を掛けて、両手を使って何かを——恐らく宇佐美に見せる前にスマホに撮られた画像を確認——しようとしたのではないか。

 そして206号室から出てきた朱美と出くわす。

 ドアが隣り合った部屋同士だ。梅子が朱美に誘われて206号室に入ったのなら、時間はわずかで済む。


「その時、僕は201号室で自分の荷物に入れられた黒いワンピースを見ていました。そして足音を聞いたんです……多分、朱美さんの足音です……梅子さんの靴はゴム底のスリッポンで足音をたてにくいものでした。宿のスリッパも音をたてません。でも朱美さんは、足首にストラップがついたサンダルをずっと履いていました。スリッパに履き替えてくつろぐ暇が、彼女には、なかったのでしょう。206号室で朱美さんの話を聞いている時、僕は廊下に注意を払うためにドアにスリッパをかませて隙間を作りました——もし、朱美さんがスリッパに履き替えていないことに、注意を払っていれば……」


「バカバカしい」と九我くがは嫌な顔をした。「どこの名探偵だよ」


「僕が一階に梅子さんを探しに行った後、朱美さんと藍子さんの間に何があったんですか? どうして藍子さんは梅子さんの遺体を205号室に運んだのでしょう?」


「朱美が部屋に来たんだ」そこに全部書いてあるというように、九我は調書の束をチラリと見た。「蒼真が梅子を殺害して逃げたと聞かされたらしい——朱美は裸足だったようだ。自分で死体を運び出そうとしたが、無理だと分って、藍子に声をかけたんだろう」


「藍子さんは、朱美さんの話を信じたんですか」


「蒼真と朱美の仲を疑っていたし、蒼真が港から戻ってくるのが遅すぎると怪しんでいた。おまえに見つかる前に、蒼真に事情を聞きたかったようだ」


 九我は愉快そうに、ニヤリとした。


「『お願い、蒼真くんを助けてあげて』と泣かれたそうだ。いけ好かない女から犯罪の片棒を担がされたと知った時、あの女、はらわたが煮えくり返ったろうな」


「朱美さんは『隣の205号室から物音がする』と言って、藍子さんは『人が這いずってる音がした』と言ったんですよ……二人で牽制しあってたんですか……」


 今から考えるとペットボトルの水を渡しながら藍子は、どんな顔で朱美を見ていたのか……。


「死体遺棄とはいえ、藍子さんには執行猶予がつきますよね」


 九我が答えるまでにわずかな間があった。


「あの女は、不起訴処分になる」


「どういうことです?」


「——おまえ、あの女にねじ伏せられたんだな」


 痛ましそうな顔で見られて宇佐美はムッとした。


「薬をかがされたせいです」


「堪えてくれ。上からのお達しだ」


「藍子さんには、警視を息子に持つ友人がいると聞きました。どういった立場の方です?」


「俺の親父だ」


「……正思しょうじさんのお知り合いでしたか。それにしても不起訴は、ないでしょう」


 宇佐美の抗議に、九我は無言で視線を逸した。


「もしかして、僕の免責と引き換えですか?」


「——旦那がやっていた悪事と、蒼真が取引しようとしていた組織の情報も手に入った。悪くない取引だ」


 陽が傾いてきた。

 話を切り上げたいのか、九我が書類を片付け始める。


「規則違反だが置いていくか? 目を通しておけば、職場復帰しやすいだろ」


「結構です。足のしびれも残っていますし、微熱も続いています。当分職場に戻れそうもありません」


「仕事のできない上司を持って、苦労掛けるな」とカバンに書類を詰めながら、怒ってる風でもなく九我が言う。


 藍子から何か吹き込まれたのか——。


 どう返答しようか迷っていたら、九我は再び宇佐美を見てきた。


「——なあ、どうして和恵さんは、あの島に移住する気になったんだと思う?」


「蒼真くんとの関係は?」


「なかった。蒼真も否定したが、和恵さんには男関係の話が全く出てこない。家と職場の往復を何十年も続けて、親の遺産が入って仕事を辞めても、週三日はファミレスで働いていた。相変わらず堅実な生活を続けて、安い旅行ツアーに一人で参加して、友人を作るでもなく、海を見たり山を眺めたりしていたそうだ——そんな女がなぜ突然、初めて見た島に、全財産つぎ込んで移住する気になったのか理解できない。蒼真も何かに取り憑かれているようで気味が悪かったと言っていた——朱美がもっていた和恵さんの手紙は朱美が書いた物だったが、内容は和恵さんが思い描いた生活のように読める」


 宇佐美は考え込んだ。


「——人間は合理的な行動ばかりとれるわけじゃないし、何を考えてるかなんて、本人にしか分からないがな」と、九我は腰を浮かしかけた。


 本人に聞いても納得できるような答えは得られないかもしれませんと、宇佐美が呟く。


「……僕は、どうしてあの日、帰りのフェリーに乗らずに『翠眼亭すいがんてい』に残ったのか、自分でもまだ不思議です。朱美さんの行動が不自然だった、今井さんが怪しかったと辻褄を合わせようとしても、やはり自分らしくない。港に戻ってから地元警察に連絡をするべきでした——好きな男が殺人を犯したと聞かされて、後先考えず死体を担いでしまったり、友人の人形の首を切ったり——人間には、つい情動にかられてしまう瞬間がやってくるんですね」


 それを『ごう』というのかもしれないと宇佐美は思った。

『業』には本来良い意味も悪い意味もなく、自分では制御できない力に突き動かされる、人の行為そのものを指すという解釈がある。

 ——つまり、想ってもどうしようもない者を想ってしまうのも業なのだ。


「いい所だが」と九我は立ち上がった。「俺には、旅行先で充分だ。美土里さんが、生まれてから一度もあの島を出たことがないと聞いて、驚いたよ」


 美土里の名を聞いて、宇佐美は物思いから我に返った。

 あの人はどうしていますと聞こうとしたら、足早に離れていく九我の背中があった。


 窓の外から夕日が差してきた。

 201号室から見た光景を思い出す。

 頼みの息子が逮捕され、大切な屋敷が殺人現場となった。あの実直な老婦人はどうしているだろう——。

 退院したらすぐに『翠眼亭』に行き、美土里に会おうと宇佐美は心に誓った。

 だが、すぐに自分を恥じる。


 死に損なったばかりだというのに、まだ明日ありと思うつもりか!


 近くの島まで行く夜行の船なら今からでも間に合う。

 漁師に事情を話せば、船をだしてもらえるかもしれない。


 宇佐美は立ち上がり、駆け出した。

 行き先はもちろん、翠眼島だ。

 




 

 

 

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翠眼島の怪事件 こばゆん @kobayun

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