第42話 黒い海③
あまり物事に動揺する性格ではないし、人に対する同情心も子供の時から薄かった。
だが朱美の惨たらしい姿を見た時は、さすがの藍子も凍りついた。
窓枠に打ち付けられた材木に手をかけ、隙間から顔を覗かせた状態で朱美は死んでいた。
念入りにネイルされた爪は剥がれて、指先は血だらけ。
苦悶に歪んだ顔は、血と吐瀉物にまみれている。
大きく開いた口からは『出してくれ』との叫びが聞こえてきそうだ。
死因はわからないが、朱美が死の間際まで苦しみ続けたのは確かだ。
「……ほ、
蒼真が震えながら叫んだ。
「静かにしな! うちの人じゃないよ。宇佐美がやったんだ!」
この場所で藍子が宇佐美と会話したのは、小一時間前。
その時宇佐美は、木を打ち付けてこの窓を塞いでいた。
——あの時まだ朱美は、部屋の中で生きていたのか? 声が上げられないような状況にいたのか?
「……あいつ、警官じゃないのか……ニセモノなのか……」
「だったらいいんだけど、本物だったらもっと厄介だ……あいつ、
201号室のベランダでタバコを吸っている時に、藍子が蒼真と連絡を取り合ったのは宇佐美の推察通りだが、分かった風な口を利いて心を読んできたのには、今だに腹が立つ。
「……藍子さん、どうしよう」
情けない声出すなよと、藍子は腹が立ってきた。
天を見上げる。
宇佐美といた時と同じように、丸い月が光っていた。
だが今、風は吹いていない。
間もなく隣の島から船がやってくるだろう。
「まずいね。もうすぐ警察が来る」
「大丈夫だよ。俺が連絡したのは宝生さんだけだ。警察は呼んでない」
「蒼ちゃんが連絡してなくても、
「……あいつもしてないと思う……あいつのスマホ、海に落ちたんだ……」
「透くんを突き落としたって、本当?」
「違う! もみ合っているうちに勝手に落ちたんだよ。あいつ、車の中で、まずいことやってんなら、宇佐美さんに白状した方がいいとか、言い出して……その後も、ずっと張り付いてくんだ」
顔色を伺うような目つきで、蒼真が見てくるのがわかる。
子供みたいに頼ってくる男を、可愛いと思える自分を気に入っていた。
自分にもこんな感情があったんだと、気分が良かった。
だが男と女の関係になって数ヶ月でピークが去り、あとは引き算が始まった。
相手に取り入るために、その場しのぎの嘘を平気で並べる、中身のない男——。
この島に来て、美土里と出会わなければとっくに蒼真を捨てていた。
「あいつに、宝生さんがどんなに怖い人か教えといた……」
藍子は鼻で笑った。
「梅子さんのダイヤも狙われてるって脅しといた——」
「梅子さんのダイヤ?」
「味方してくれたら、ダイヤには手を出さないように、宝生さんに頼んでやるって、言っといたよ」
蒼真と透の間に何があろうと、どうでもいい。
今の状態をどうやって打破しようか、藍子は考えた。
「……俺、やっぱ、こんなことするの宝生さんだと思うよ……」
「かもね」
藍子は適当に返事をした。
自分の夫が、関わっているとは考えられない。夫は善人ではないが、人殺しまではしない。
宝生と手を切り、美術品売買の新たな闇ルートを探した蒼真が、危ない連中をこの島に招いたのではないかと考えていた。
——この島を買いたいと言ってきた和恵や妹の朱美も、その一味なのだろうか?
宇佐美は金で雇われた悪徳警官なのか?
宇佐美の部屋にあった黒のチュニックワンピース——あれは、朱美が和恵だと言い張った人物が着ていたものだ……。
「蒼ちゃん」藍子は蒼真の髪を掴んで、顔を上げさせた。「この女とは、いつからだったの?」
蒼真は固く目を瞑る。
凄まじい形相の朱美から目を逸らす。
「……向こうから、連絡してきたんだ……姉が島に移住したいって言ってるけど、どういう訳なのか、知りたいって……」
「フェリーで、お互いに他人のフリしてたのは、私への思いやりだったんだ」
蒼真は髪を掴まれたまま、そっぽを向いた。
「今井さんは? あの人とこの女はどういう関係なの?」
「知らないよ。ただの旅行客だろ……朱美さんに気があるんだか、フェリーで何度も話し掛けてたけど……」
「朱美さんのお姉さんがいなくなった話は、本当に今日聞いたんだね? 朱美さんは、事前に何も言ってこなかったの?」
「……今日泊まりに来ることしか聞いてないよ……」
本当だろうかと、藍子は蒼真を疑った。
この男は自分可愛さに平気で嘘をつく。
「電話線切ったのも、停電も、蒼ちゃんは、関係ないんだね?」
「そんなこと、やるわけないじゃん……藍子さん、痛いよ……」
「宇佐美を拘束するよ」
藍子は乱暴に蒼真の頭を放した。
「蒼ちゃんは宇佐美を見張ってな。私は港に行く。知り合いの元警官に連絡して、話を聞いてもらうよ。宇佐美がニセ警官だか、悪徳警官だかしらないけど、その人に動いてもらう」
「……藍子さんがいない間、俺が宇佐美を見張ってるってこと?」
「そうだよ」
「……自信ないなあ……宝生さんに母さんの部屋の美術品全部渡して、もう最後にしてもらった方が、いいと思う……」
蒼真の頭の中では、あくまで全ての黒幕は藍子の夫の宝生ということで固まっているようだ。
体格と顔がいいだけで、意気地もなければ頭もよくない。
藍子は呆れたが、説得している暇はなかった。
「なら、私が宇佐美を見張ってるから、蒼ちゃんは港まで行って、
藍子はペンを取り出すと、蒼真の腕に電話番号を書いた。
「
藍子は計画を蒼真に伝えると、『翠眼亭』の前庭を横切り、遊戯室に向かった。
「藍子さん!」
透が懐中電灯を振り回して、藍子を呼んだ。
「遠くに行かないで下さい! 宇佐美さんから言われてるでしょ! 中に入って下さい!」
藍子はごめんと笑って透に近づいた。
「吸う?」
藍子がタバコを差し出すと、どうもと透は素直に受け取った。
「海に落ちた時、タバコ全部ダメにしちゃって——ここ売ってないんですね」
「美土里さんが嫌いだからね」
藍子は透のタバコに火を点けた。
「スマホは? 濡れちゃった?」
透は顔をしかめた。「海に落としちゃいました」
「じゃあ、警察に連絡してないの?」
「そこは大丈夫です」透は煙を吐きながら胸を張る。「港に一軒だけ、売店あったじゃないですか。無人でしたが窓壊して中に入ったんです。そこの電話は使えましたよ」
突然、遊戯室から物音がした。
タバコを咥えたまま、藍子と透は窓を見つめる。
「藍子さんと
宇佐美の声が聞こえた。
「やべっ!」と透。
「中学の修学旅行、思い出すね」と藍子は笑った。
窓が開き、宇佐美が顔を出す。
「部屋に戻って下さい!」
宇佐美に言われて透は慌てて頭を下げた。すぐにタバコを消す。
「風がやんできたよ。お仲間がやっと来るね」と藍子はタバコの煙を吐いた。
すいませんでしたと頭を下げて、窓から部屋の中に入っていく透を藍子は横目で見た。
——反抗的な目つきは、蒼真より気骨がありそうだが、こいつは宇佐美に毒気を抜かれてる。
協力させるのは無理そうだ。
早いとこ眠らせるか……。
「部屋に戻って下さい」
きつく言ってくる宇佐美を、藍子は冷ややかに睨み返した。
(今にあんたの化けの皮をはいでやる!)
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