第10話 最初と最後にお茶を飲んだ者②

 美土里がティーポットといくつものカップを載せたワゴンを押して、部屋に入ってきた。


「手伝います」

 すかさず藍子が立ち上がる。美土里のそばに寄り、「ここは任せてください」と目配せしながら微笑んだ。


「ありがとうございます」

 美土里も笑顔を返す。そのやりとりを、宇佐美はじっと見ていた。

 それはペンションの女主人と客という枠を超えた、互いに気心の知れた者同士の笑みのように見えた。


 この宿は、美土里と蒼真の二人だけで切り盛りしている。

 客が多く、仕事が山積みなのは明らかだ。

 それでも、美土里がこうして客たちを和ませに来たのは、首を切られた人形の一件で場の空気が悪くなったことを気にしたのだろう。


「もう数分、蒸らした方がいいと思いますよ」

 美土里はそう言い、軽く頭を下げて部屋を出ようとする。


 宇佐美は、その後を追った。


「美土里さん」

 声を潜め、美土里にだけ聞こえるように話しかける。

「受付の裏の部屋に、水酸化ナトリウムの瓶が置かれていましたが、厳重に保管したほうが良いと思います。間違いが起こってからでは遅いですし」


 美土里は、はっとした表情で宇佐美を見た。


「パイプの詰まりには効果的ですよね」

 宇佐美は微笑んだ。

「ここは女性のお客さんが多いようですし、髪の毛の詰まりは厄介でしょう」


「教えてくださり、ありがとうございます」

 美土里は足早に部屋を後にした。


 美土里が去ると、宇佐美はドア近くの長椅子に腰を下ろし、再び宿泊客たちの様子を観察した。


「みんな、夕方には翠眼すいがんさまを見に行くんでしょ?」

 藍子が、テーブルにカップを並べながら言った。

蒼真そうま君がボートで岩場の下まで連れて行ってくれるよ」


「いい匂い」


 朱美がポットの蓋を開けて、ふわりと漂う香りを楽しんでいる。

 シホは身体を屈めて、ポットに描かれた模様をじっと眺めていた。

 彼女はまだ宇佐美のサンダルを履いている。


「これ、すごく綺麗」


 シホの言葉に、ユカとマミもポットの近くに集まった。


「ホントだ!」

「キラキラしてる!」


 白いポットの底付近には、波のような模様が光っていた。


「美土里さんが青貝を細かく砕いて、ピンセットで貼り付けたんだよ」


 藍子の説明に、女の子たちが一斉に感心した。


「すごい、手がかかってますね」


 女の子たちがポットの写真を撮るのを眺めながら宇佐美は考える。

 貝殻を硬化させるには、どんな樹脂を使うのだろうかと。


 そこへ、とおるが食堂に入ってきた。

 手に鍵をブラブラさせながら、宇佐美の隣に腰を下ろす。


「夜、遊びに行くね」


「ここを予約する時、本当に一階の部屋をお願いしたんですか?」

 宇佐美は透に尋ねた。


 食堂の中央では、藍子がカップにお茶を注ぎ始めている。


「言ってなかったかも」

 透は肩をすくめる。

「——でもいいじゃん。あんたの部屋、俺たちが使う予定だったんだ。泊まりたくなっても、部屋がなかったかもしれないんだよ」


 朱美が何か言いながら、今井にカップを手渡している。

 今井は少し顔を赤らめ、恐縮しながらそれを受け取った。


「あのおっさん、ただ旅行を楽しんでるだけにしか見えないのに、祖母ばあちゃんに目をつけられて、かわいそうだな」


 透が小さく笑いながら耳元で囁く。

 囁きながら、鍵を指先でクルクルと回す。


 朱美と今井が何を話しているのか、宇佐美は気になった。

 二人の近くに行こうと腰を浮かしかけた、その時——

 

「おっと」


 小さく声を漏らし、透はわざとらしく鍵を持つ手を滑らせた。鍵は狙ったように宇佐美の膝へ落ちる。

 

「失礼」

 透は鍵を拾い上げるついでに、宇佐美の内腿を指先で軽くなでていった。


 今井はカップを手に、お茶を一口飲んでいる。

 悪くなかったのか、朱美に向かってぎこちなく笑い、うなずいた。

 朱美も微笑みながら、自分のカップに口をつける。


 女の子たちも、香りを楽しんだり、スマホで写真を撮ったりした後、お茶を口に運んだ。

 梅子も腰を下ろし、静かにカップを傾ける。


 部屋中にカモミールの柔らかな香りが広がり、さっきまでの騒動が嘘のように穏やかな空気になった。


「お二人も、どうぞ」

 藍子が、宇佐美と透の分のカップを持ってくる。


 宇佐美は礼を言って受け取った。

 一方、透はカップに鼻を近づけると、眉をひそめた。


「変な匂い。薬みたいだ」

 そう言い、口をつけずにカップをサイドテーブルに置いた。


「フェリーで会っただけなのに、みんなすっかり仲良しだね」


 藍子は笑いながら部屋の中央へ戻り、梅子の隣に腰を下ろす。

 お茶を飲みながら、ゆったりと話し始めた。


 しかし、その穏やかな時間は長くは続かなかった。


「——く、苦しい……」


 突然、今井が胸を押さえ、椅子から崩れ落ちた。

 床に転がるカップ。


「——しんぞう……くすり……へやに、くすり……」


 絞り出すような声。

 今井の顔は蒼白になり、脂汗がにじんでいる。


 隣にいた朱美が、目を見開いたまま硬直する。


 宇佐美は即座に駆け寄った。

 頭の中に浮かんだのは、受付裏で見た水酸化ナトリウムの容器——だが、今井が押さえているのは喉ではなく、胸。


「心臓がお悪いんですか! どなたか、お部屋に行って薬を取ってきてください!」


 宇佐美が声を張り上げた。


 藍子がすぐに立ち上がる——が、数歩進んだところで、ぐらりとよろめき、頭を押さえた。


「——なんだろ……めまいがする……」


 そのまま膝をつく。


「藍子さん! 大丈夫?」


 朱美が駆け寄り、肩を支える。


 ——まずい!

「誰も、お茶に手を触れないで!」


 宇佐美が鋭く叫んだ。

「透くん、AEDがないか美土里さんに聞いて!」


 透はすぐに部屋を飛び出した。


「今井さんの部屋から、薬を持ってきてください!」


 心臓マッサージを続けながら、宇佐美は三人の少女たちに向かって叫ぶ。


 しかし、彼女たちは立ち尽くしたまま動けない。


「早く!!」


 宇佐美の怒声が響く。三人は弾かれたように駆け出した。


 その瞬間——


「お茶! かかった!」


 梅子の甲高い悲鳴が食堂に響いた。


 彼女の膝には、ひっくり返ったカップ。

 熱い液体がスカートに染み込み、じわじわと広がっていく。


「毒のお茶! かかった! かかった!」


 錯乱したように叫ぶ梅子。


「おばあちゃん! スカート脱いで!」


 マミが焦りながら梅子のスカートに手をかける。


「私、ここにいるから、みんなはおじさんの薬を探して!」


 ユカとシホが「わかった!」と短く返し、足音も荒く部屋を飛び出した。


 しかし——もう手遅れだった。


 心臓マッサージの甲斐なく、今井の体はすでに動かなくなっていた。


 宇佐美は、今井の首元に指をあてる。


 ——脈が、ない。


 短く息を吐き、すぐに視線を床にうずくまる藍子へと移した。


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