第47話 黒い海⑧
「みなさん、深呼吸しましょう」
宇佐美の突然の提案に厨房にいた全員が怪訝な顔をした。
「目を瞑って、大きく息を吐いて下さい」
美土里が真っ先に、「はーっ」と息を吐き出した。
藍子も、仕方がないというように従う。
「次に息を大きく吸います。鼻からでも口からでも構いません。翠眼島の大いなる力を、体中に頂きましょう」
宇佐美の指示の下、全員が深呼吸を続けた。
「はい、目を開けてください。今から行動に移ります」
全員の視線が宇佐美に集中する。
皆の目からは、怒りや不安、怯えが少し緩和されていた。
「藍子さんには、ボートで港に行ってもらいます」宇佐美は藍子を見た。「港に着いてから、ここに戻って来るまで、どの位の時間がかかりますか?」
「またここに来るの?」と藍子は眉を寄せる。「一時間——いや、急げば四十分かな」
「二班に別れます」と宇佐美はまた全員の顔を見回す。「マミさん、ユカさん、シホさんは藍子さんと港に向かって下さい。透くんと蒼真くんは、僕と一緒に美土里さんの美術品を運び、入江に向かいます」
「いやいや、こっちの方が命がけなんだよ」と藍子が抗議してきた。「向こうはダイバー使って、島へ上陸しようとしてるかもしれないんだ。女の子のお守り押し付けられても、困るよ」
「私、戦えます!」とマミ。
「よし、あんたは合格!」と藍子はマミに向かい親指を立てた。「透くんもおいで」と透を見る。
「俺は宇佐たんチームがいい」と透。
ユカが、うさぎさんチームみたいと吹き出した。
シホは宇佐美の横に素早く立った。離れたくないと、力強く宇佐美の手を握る。
「今からみなさんで美土里さんの荷物を詰めて下さい。美土里さん、後の指示はお任せします」
宇佐美に言われて、美土里はうなずいた。
美土里を先頭に全員がキャンドルを手にしながら部屋を出ていく。
「藍子さんは、残って下さい」と宇佐美は藍子だけに声をかけた。
「何? お説教?」と藍子は腕組をしながら宇佐美を見る。
今厨房に残っているのは、藍子と宇佐美の二人きりだった。
「逃げないで下さいね」
「はあ?」
「今は非常時ですから、助けがいります。あなたがなぜ朱美さんと共謀したのかは、後で聞かせて下さい」
「……事情があったんだよ」
「みんなそうです。犯罪を犯す人は、みなさんそれぞれ事情を抱えています。でも紙一重の差で踏みとどまる人もいるんです」
「私は、大したことしてないよ」
「梅子さんの遺体を、205号室に運びましたね」
藍子はフンと鼻を鳴らした。
「マミさんと透くんを港に連れて行ったら、必ずまた戻って来て僕たちを助けて下さい」
「——もう一人、乗せられるよ」
「では、蒼真さんをお願いします」
「蒼真? 女の子のうちのどっちかじゃないの?」
「母親に叱られて、ヤケを起こされても困ります」
「美土里さんの前で、いい格好し続けたかったのに、こんなことになってバツが悪いだろうね……私もだけど……」
急ぎましょうと、宇佐美は歩きだした。
「ねえ、さっきから歩き方ヘンだけど、足、どうかした?」
「——長時間拘束されて、痺れただけです」
「そこまで長い時間じゃないよ」と藍子はニヤリとした。
美土里の部屋の仏壇前は、地下通路への入口になっていた。
狭い急な階段を下りていくと、徐々に波の音が近づいてくる。
いったいこの階段はどこまで続くのかと、宇佐美は重い荷物を担ぎながら痺れた足を動かした。
傷口から悪い菌でも入ったのか、めまいと共に、吐き気もしてくる。
先頭の美土里がライトを振って合図してきた。
入江に着いたようだ。
荷物を下ろした宇佐美は、美土里を労った。
疲労困憊といった体で、美土里は岩に寄りかかっている。
「私のわがままを聞いて下さり、ありがとうございます。こんな物より、命を大事にしなければならないのに」
美土里は宇佐美に礼を言った。
「藍子さんが迎えに来るまで、休んでいて下さい」
「あのボートは四人しか乗れません。藍子さんが来たら、私を置いて、皆さんで乗って下さい」
「藍子さんが来た時に考えましょう」
宇佐美は双眼鏡を手に水辺に向かった。
シホとユカが石の上に座り、海水に足を着けている。
双眼鏡で沖を見るが、船の姿はなかった。
朝が近いのか、夜の色が変わっている。
青いライトを手にしたシホが、宇佐美に近づいて来た。
波に足をさらわれて、シホがよろける。
よろけたすきに片方のサンダルが脱げて、波に持っていかれてしまった。
シホはライトを捨てて、もう片方のサンダルを手にすると、流されたサンダルを追っていく。
「気をつけて下さい! ここは離岸流が起こりやすいところです!」
岩場から美土里が叫ぶ。
宇佐美は、ユカに梅子の指輪を渡した。
「持っていて下さい」
「へっ?」
「透くんに渡すのを忘れてました。海に落としたら大変だ」
「……宇佐美様、透くんとのこと、真剣だったんですね……」
なぜか感動しているユカを置いて、宇佐美は海に入って行った。
「宇佐美様! 死亡フラグみたいでイヤですよ! こういう大事なものは、御自分の手で、渡して下さい!」
シホは腰まで海につかりながら、サンダルを拾おうとしていた。
「シホさん! 岸に戻って!」
宇佐美に言われて振り返ったシホは、泣いていた。
泣きながら、首を振る。
宇佐美は動く方の足と手を使い、サンダルを取るとシホの手を引いた。
「戻りましょう」
左足の感覚が全くない。
今、麻痺は宇佐美の右足にも始まっていた。
「——駿」
波が膝丈ぐらいまでの所に来た時、シホが小さく言った。
「膝、本当に平気?」
「膝?」
「ナイフ、毒が塗ってあるって……」
ああ、それでかと宇佐美は合点がいった。
岸辺ではユカがライトを振りながら、大声で呼んでいる。
「シホさん、ユカさんの所まで競争しましょう」
「絶対、負ける」
「シホさんが勝ったら、ラインの交換します」
シホはサンダルを抱えて、走りだした。
岸から走ってくるユカとシホが手を取り合うのを見届けると、宇佐美は膝をついた。
もう限界だった。
波に身体を持っていかれそうになるのを片手だけで防ごうとしたが、自然の力には叶わない。
もがけばもがくほど、岸から遠ざかっていく。
何度も水を被りながら、宇佐美は溺れる恐怖と戦った。
夜が白々明けていく。
遠くにボートらしき影が見えた。
藍子だろうかと、宇佐美はぼんやりした頭で考える。
だがボートは宇佐美に気づかないのか、遠ざかっていった。
何か、合図するものをと、思い出したのがズボンに入れていた拳銃だった。
今では唯一自由がきく右手で、宇佐美は天に向って銃を撃った。
だが、それは不発に終わった。
暴発よりかはマシか——。
宇佐美はそのまま力尽き、沈んでいった。
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