第48話 エピローグ①
離岸流の知識はあった。
あったが、知識があるからといって対処できるものではない。
麻痺がおこり、自由がきかなくなった身体を岸から離された時、溺れる恐怖心を押さえて、力を抜くことに努めた。
なんとか持ちこたえ、海面に浮かんでいたら突然、身体が一回転した。
左右に引っ張られたかと思ったら、下に引きずり込まれる。
ああ、これが離岸流かと、宇佐美は覚悟を決めた。
塩水が口の中に流れ込み、潮流がものすごい勢いで宇佐美の身体を海中に引きずり込む。
死の間際、人は走馬灯のように人生を振り返るというが、本当だろうか?
選択を間違えた事もあった。
人を傷つけたことも。
だがその都度、自分に出来る最善を尽くしてきたつもりだ。
悔いなく死ねるか? 最後に会いたい人は?
家族でもなく、友でもない顔が浮かんできたのは意外だった。
そうだ——。
あの人に会って、事件の顛末を報告したい。
宇佐美は力を振り絞り、再び海面に浮上した。
天恵か、微かにボートの影が見える。
離れていくボートに合図を送るため、宇佐美は天に向かい銃を放った。
だが、銃は不発だった。
最後の望みがついえた時、宇佐美は力尽きた。
——なんと心地いいのだろう。自分はこのまま重たい身体から抜け出て、魂だけになる。
わずかに残った意識の中、強い力で腰を抱かれるのを感じた。
無理やり上へと上昇させられる。
——もう結構です。このまま沈ませて下さい……。
宇佐美は引き上げられ、乱暴に水を吐かされた。
口から空気が入ってくる。
——藍子さんですか。
やはり、逃げずに戻って来てくれたのか。
人工呼吸を続ける相手の頭に手をやり、力なく押しのけた。
「——藍子さん……みなさんは、無事ですか」
「おまえ、泳げないのか!」
その声を聞き、宇佐美は我に返った。
「……九我さん?」
宇佐美の上司、
宇佐美は微かに身体を起こし、辺りを見回した。
相変わらず海の上だが、朝日が昇り始めている。
「どうして、ここに?」
「お前の電話が来てから、すぐ島に向かった!」と九我は不機嫌そうな顔をした。「風が強くて船は出ないし、治まったと思ったら、上から島に近づくなと止められた」
宇佐美は朝日を背にした多数の船を見た。
九我は、船に向かいボートを漕いでいる。
「あの船は?」
「警視庁だ」と九我は鼻で笑った。「『警視庁のうさみさん』が殺人犯を追って、凶悪な組織と一人で戦ってるらしい」
「透くんの通報ですね」
「警視庁には何人も『うさみさん』がいる上、麻薬組織に囮捜査に入ってる『うさみさん』からの音信が途絶えてるらしい。国際的密売組織がこの島に向かってるという情報まで入ってきて、大騒ぎだ。島の人間とは連絡取れないし、情報が錯綜してるもんだから、船の上では延々会議が続いてる」
「九我さん、一人で上陸する気だったんですか?」
「明るくなってきたから、ちょっと見て回ってた」
「よく、僕を見つけられましたね」
「何かが光った——たぶん、それだ」
九我は、宇佐美が手に握りしめている銃を指した。
「それ、どうしたんだ」
「南部式自動拳銃です。旧日本軍の将校に支給された大変高価な物です。ほら御賜の刻印がありますよ」
宇佐美は自分の命を救った銃を、感謝を込めて見つめた。
「そんな豆知識はいい。どこで手に入れた」
「話すと、長くなります——九我さん、西に向かって漕いで下さい」
九我は言われるまま、ボートの方向を変えた。
「おまえに言われて、倉田朱美を調べた。大きなスーツケースを近所のゴミ集積所に捨てる姿が防犯カメラに写ってた。中から女の遺体が出てきたぞ」
「和恵さんでしたか?」
「ウジ虫だらけでひどい有様だが、身につけていた身分証は、朱美の姉、和恵のものだった」
「やはり殺されてましたか」
港が近づいてきた。
青、赤、黄色のライトがぼんやり見える。
「コンサート会場かよ。港につけるか?」
「いえ、このまま西に向かって下さい」
「うさたああん!」と宇佐美を呼ぶ声がした。
双眼鏡で宇佐美の姿を確認したのか、三色のライトが激しく揺れている。
「宇佐たんって、おまえ?」と九我が笑った。「俺も今度、そう呼ぶ」
赤いライトが点滅を始めた。
『全員無事』と信号を送ってくる。
青いライトが揺れるのを見ながら宇佐美は、生きていてよかったと改めて思った。
自分が死んだら、あの子は責任を感じてしまうだろう。
あんな若い子に、そんな重荷を背負わせてはいけない。
「さっき僕を呼んだ透くんのお祖母さんも、殺害されました。犯人は恐らく朱美さんですが、僕、まだ彼にそのことを伝えてないんですよ。九我さんから伝えてもらえませんか?」
「それ、おかしいだろ。なんで急に現れた男が、君のおバアちゃん殺されたよって、言わなきゃならないんだ!」
「僕、そういうの苦手なんです」
「得意な奴、いるのか」
「彼とは気が合うと思いますよ」
「どういう意味だ?」
「陽気なパートナーが出来るかもしれません」
「俺には無愛想で偏食家の相手がいるから、気遣うな」
「この事件、大きいものになりますよ。中国の流出文化財を売買してきた組織が挙げられます。僕たちが捜査の中心になりましょう」
「おまえ、本当に仕事好きだな」
「九我さんに上に行ってもらいたいんです。(あなた、家柄だけはいいんですから、トップを狙えますよ)」
九我は鼻で笑った。
黒岩が見えてきた。
「これが見たかったんです——」
「犯人逮捕に向かってるんじゃなかったのか」
「九我さん、あれが翠眼様です」
宇佐美は朝日を浴びる黒岩を指した。
岩に一つ大きな目玉が浮き出ている。
「なんか、不気味だな。絵の具が滲んでるみたいだ」
「ええ、泣いているみたいですね……この島には清朝時代の宝物が運び込まれているんです。後宮の貴婦人達が身につけていた装飾品も多く保管されています……」
宇佐美は、まだ闇が残る西に顔を向けた。
「その品々が、この先にある生まれ故郷に帰りたいと、泣いているのかもしれません」
「……うさたん、海水飲みすぎた?」
宇佐美は感慨深げに翠眼様を仰いだ。
「黒岩の上から見る海は、とてもきれいな緑色をしているんです——翠眼様の涙が、そうさせているのかも——」
「おい、犯人はどうした? 朱美は捕まえたのか?」
「はい。部屋に閉じ込めています……ただ……朱美さんが、殺されたと言う人がいるんですよ……次から次へ色々あって、確認していないんですが、朱美さんには、捜査に協力して欲しいので死んだ振りをしてくれと言って、部屋に閉じ込めたんです。危険な人なので、他の人達から隔離することにしたんですが、あれからずいぶん時間も経っているので、心配です」
「すぐに向かうか」
「後の事は、警視にお任せします」
「だから、俺は部外者だ!」
「病院に行きます」
「どうした?」
「僕、清朝時代の毒に身体を侵されているんです」
「おまえは、どっからタイムスリップしてきたんだ!」
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