第5話 ゼロ号室の客①

 島で唯一の宿泊施設、翠眼亭は二階建ての真っ白な洋館だった。青緑色の飾り雨戸が爽やかな印象を与え、海と空の青と美しく調和している。


 藍子と朱美は並んで真っすぐ洋館に向かい、推し活女子たちはぬいぐるみを抱えて笑顔で写真を撮り合っていた。


 宇佐美はふと足を止め、庭を歩きながら建物を観察した。


 手入れの行き届いた花壇には白とブルーの花が咲き誇り、低い柵越しに見える海の青さが一層引き立てられている。


 テラス席では、フェリーで缶ビールを飲んでいた男がスマホで写真を撮っていた。  宇佐美がうっかり映り込みそうになり、一歩下がると、男は気まずそうにスマホを引っ込め、軽く頭を下げた。


「海がきれいですね」


 宇佐美は笑顔で声をかけたが、男は何か口の中で呟くだけで、そそくさとガラス扉を開けて建物の中へ消えていった。


 宇佐美は視線を戻し、建物の裏側へ向かうため角を曲がった。その先に、車椅子に座った老婦人の姿があった。


「頼んでいたのに、一階じゃなかったんですよ!」


 老婦人は宇佐美に気づくなり、宿への不満をぶつけてきた。


「足が悪いから、一階の部屋にしてくれって頼んだのに、二階だったんですよ! 船旅で疲れているのに、まだチェックインもできないんです!」


「それは、大変でしたね」

 と柔らかい口調で応じながら、老婦人に近づく。


「私、白河梅子といいます」


 梅子はじっと宇佐美を見つめながら名乗った。その筋張った手には、大きなダイヤモンドらしき石が嵌められた指輪が光っている。


 宇佐美の目は無意識にその指輪へと引き寄せられた。粒の大きさだけでなく、透明感も輝きも目を瞠るほどだった。


(……さすがにこれは偽物だろう)


 本物なら一億や二億では済まない。朱美のピアスなど、足元にも及ばない代物だ。


「宇佐美俊介です」


 名乗った宇佐美に、梅子はゆっくり頷きながら声をひそめた。


「どうやらあなたは、まともな人みたいね。宇佐美さん、このホテルの人は怪しいわよ——」


 梅子の表情には、単なるクレーム以上の不信感がにじんでいた。


「一階にしてくれって言ったら、一階に客室はないなんて、嘘をつくんです! でもね、私は見たんですよ。一階の部屋から、このホテルの女主人が食器を下げて出てくるのを!」


 梅子は力を込めて続ける。


「その時、彼女は部屋の中に向かって頭を下げていました。あれは、客がいた証拠ですよ!」


 宇佐美は返答に迷いながらも、梅子の言葉を頭の中で整理していた。その時、テラス席から蒼真そうまと、梅子の孫らしき男が歩いてくるのが見えた。


「白河様、お部屋のご用意ができました」


 蒼真は汗を浮かべながら告げる。


「海が見えませんし、エアコンもありませんが、本当に宜しいのでしょうか?」


「お祖母ばあ様、二階でもいいんじゃないの?」


 孫の男が、疲れた声で言った。


「一階にしてくれと事前に頼んだんですよ。早くお部屋で休ませてちょうだい」


 梅子は孫に車椅子を押すように促した。


「そうは言っても、物置だった部屋なんですよ」


「どんなお部屋だったか、東京に戻ったら旅行好きのお友達にお話ししますわ」


 梅子は皮肉っぽく言い、孫を促した。


「——ああ、宇佐美さん。この子は孫のとおるです」


 紹介された透は、宇佐美を一瞥すると、微かにうなずいた。その瞬間、宇佐美の胸がかすかに跳ねる。


 品よく整った貴族的な顔立ち。加えて、どこか漂う冷たい空気。


(……九我さんに、少し似てるな)


 透は宇佐美から視線を外し、口元に皮肉めいた笑みを浮かべると、車椅子を押してその場を去って行った。


「ランチコースをご予約の宇佐美様ですね」


 蒼真は、何事もなかったかのように愛想の良い笑顔を向けてきた。


「お席の用意ができています。こちらへどうぞ」


「お世話になります」


 宇佐美は軽く頭を下げ、蒼真に案内されながらテラス席を抜け、ガラス扉から館内へ入った。


 室内は清潔感があり、ターキッシュブルーのクロスがかかった四人がけのテーブルが五つほど、ゆったりと配置されている。窓際の席からは青い海と空が見渡せた。


 蒼真は、宇佐美をその景色がよく見える席に案内した。


 近くの席には、庭で写真を撮っていた男が座っていた。瓶ビールを手酌で飲みながら、ブルスケッタをつまみに海を眺めている。彼のチェックインはスムーズに済んだらしい。


 ほどなくして、前菜と冷たい水が運ばれてきた。


「何かお飲み物をお持ちしますか?」


 蒼真がメニューを差し出した、その時——


「そんなの信じられません! 私はさっき、姉さんを見たんです!」


 朱美の声だった。


 蒼真は宇佐美に「すいません、ちょっと失礼します」と告げると、急いで声の方へ向かった。


 奥の扉が開き、藍子がワインのボトルとグラスを二つ手にして入ってきた。


 すれ違いざま、藍子が蒼真の耳元で何かを囁く。


 蒼真は一瞬驚いたような表情を見せたが、短く頷くと、そのまま足早に食堂を出ていった。


 藍子は何事もなかったかのように宇佐美の前に座り、白ワインを注ぐ。


「おごり」


 一言添えて、グラスを差し出した。


「朱美さんのお姉さん、やっぱりいなかったよ」


 宇佐美は礼を言い、ワインを口に含んだ。


「泊まりには来たらしいけど、帰ったんだって。おかしいと思ったんだ。ここ、経営難だから、人を雇える状況じゃないんだよ」


「さっき、朱美さんのお姉さんを見たんですよね?」


 宇佐美が尋ねると、藍子は首を傾げた。


「あれ、たぶんオーナーの美土里さんだったんじゃないかな……黒いチュニックワンピースを着てたのは分かったんだけど、まぶしくて顔がよく見えなかったんだよ……」


 宇佐美も同じだった。自分の位置からは、顔どころか、黒い影が動いていることしか分からなかった。


「家出じゃないかな?」

 藍子はあっけらかんとワイングラスを空けた。

「未成年ならまだしも、いい年のオバさんがいなくなっても、どうせ警察は動いてくれないよね」


 その言い方に、宇佐美は微かに眉をひそめた。


 黙って藍子のグラスにワインを注ぎ、椅子から立ち上がる。


「僕、ちょっと話を聞いてきます」


 藍子は目を丸くしたが、すぐにおかしそうに笑った。


「へーっ、見かけによらず野次馬さんなんだね」


 宇佐美は苦笑いを返しながら、朱美の声が響いた奥へと足を向けた。

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