第5話 ゼロ号室の客①
島で唯一の宿泊施設、翠眼亭は二階建ての真っ白な洋館だった。
青緑色の飾り雨戸が爽やかな印象を与える。
藍子と朱美は並んでまっすぐ洋館に向かった。
女の子たちは笑顔でぬいぐるみと一緒に写真を撮り合う。
宇佐美は一人でぶらぶらと、庭を歩いた。
手入れの行き届いた花壇には、白とブルーの花が咲いていた。
海が見渡せるテラス席では、フェリーで缶ビールを飲んでいた男が、スマホで写真を撮っている。
うっかり映り込みそうになり一歩下がると、宇佐美に気づいた男はスマホを引っ込めて頭を下げた。
「海がきれいですね」と宇佐美は笑顔で声をかけたが、男はどうもと口の中で言うと、ガラス扉を開けてそそくさと建物の中に入って行った。
宇佐美は再び歩き出した。
建物の裏側を目指して角を曲がると、そこには車椅子の老婦人がいた。
「頼んでいたのに、一階じゃなかったんですよ!」
老婦人は宇佐美に大声で宿への不満をぶつけてきた。
「足が悪いから、一階の部屋にしてくれって頼んだのに、二階だったんですよ! 船旅で疲れてるのに、まだチェックイン出来ないんです!」
宇佐美は同情するような顔で老婦人に近づくと目線を合わせた。
「それは、大変でしたね」と握手を求める。「僕は宇佐美俊介といいます」
「白河梅子です」と梅子は宇佐美の手を取った。梅子の筋張った手には、本物かどうかは分からないが、大きなダイヤの指輪が光っていた。「どうやらあなたは、まともな人みたいね。宇佐美さん、このホテルの人は怪しいわよ——」
梅子は声をひそめた。
「一階にしてくれって言ったら、一階に客室はないなんて、嘘をつくんです! 孫が受付で手続きをしている時、私は一階の部屋からここのオーナーの女が食器を下げて部屋から出てくるのを見たんですよ。部屋から出る時、女は頭を下げたんです。部屋の中にルームサービスをとった客がいたってことですよね?」
なんと返答しようかと宇佐美が思案していると、テラス席の方から
「白河様、お部屋のご用意が出来ました」と蒼真。「海が見えませんし、エアコンもありませんが、本当に宜しいのでしょうか?」
蒼真の額には汗が浮かんでいた。
「お
「一階にしてくれと、事前に頼んだんですよ。早くお部屋で休ませてちょうだい」と梅子は孫に車椅子を押すように促した。
「そうは言っても、物置だった部屋なんですよ」と梅子の孫は、車椅子に手をかける。
「どんなお部屋だったか、東京に戻ったら旅行好きのお友達にお話しするわ。私はしませんが、みなさんネットに書いてくださるでしょうね——ああ、宇佐美さん、この子は孫の
紹介された透は、宇佐美を横目でチラリと見て微かにうなずいた。
一瞬、宇佐美はドキリとした。
線の細い、品よく整った顔だった。思っていたより大分若い。
それに——顔立ちは違うが、透に纏わる空気がそう思わせるのか、宇佐美の上司にどことなく似ていた。
透は宇佐美から視線を外すと、皮肉っぽく口の端を歪めながら、車椅子を押してその場を去って行った。
「ランチコースをご予約の宇佐美様ですね」とさすがに客商売に慣れているのか、何事もなかったかのように蒼真が愛想の良い笑顔を向けてきた。「お席の用意が出来ています。こちらへどうぞ」
お世話になりますと宇佐美は、蒼真に頭を下げた。
宇佐美はテラス席のガラス窓から洋館の中に入った。
ターキッシュブルーのクロスがかかった四人がけのテーブルが五つほど、ゆったりと間隔を開けて置かれている。
蒼真は海の見える席に宇佐美を案内した。
すぐ近くには、さっき写真を撮っていた男が座っている。こっちはスムーズにチエックインが済んだのか、手酌で瓶ビールを飲みながら食事をし、海を眺めていた。
すぐに前菜と冷たい水が運ばれてきた。
「何かお飲み物をお持ちしますか?」と蒼真がメニューを宇佐美に見せた時だった。奥から女の大声が聞こえた。
「そんなの信じられません! 私はさっき、姉さんを見たんです!」
朱美の声だった。
すいません、ちょっと失礼しますと、蒼真はテーブルから離れた。
奥の扉が開き、藍子がワインのボトルと二つのグラスを手にして入ってきた。すれ違いざまに蒼真となにやらヒソヒソやる。
蒼真は驚いた顔をすると、慌てて食堂から出ていった。
藍子が宇佐美の前に座る。
「おごり」と白ワインを宇佐美に注いだ。「朱美さんのお姉さん、やっぱりいなかったよ」
宇佐美は礼を言って、よく冷えたワインを口に含んだ。
「泊まりには来たらしいけど、帰ったんだって……おかしいと思ったんだ。ここ経営難だから、人雇える状況じゃないんだよ」
「さっき、朱美さんのお姉さんを見たんですよね?」と宇佐美。
「あれ、たぶんオーナーの美土里さんだったんじゃないかな……」藍子は首を傾げた。「黒いチュニックワンピース着てたのは分かったんだけど、まぶしくって、顔がよく見えなかったんだよ……」
宇佐美も同じだった。
宇佐美の位置からは、顔どころか人かどうかも分からない。黒い影が見えただけだった。
「家出じゃないかな?」と藍子はグラスを空けた。「未成年ならまだしも、四十過ぎたオバさんがいなくなっても、警察は動いてくれないよね」
宇佐美は藍子のグラスにワインを注ぐと立ち上がった。
「僕ちょっと、話をきいてきます」
「へーっ、見かけによらず野次馬さんなんだね」と藍子は可笑しそうに笑った。
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