第2話 九人の客
海は凪いでいた。
まるで湖のようだ、と宇佐美は思う。
太陽は頭上に昇りきり、雲ひとつない空と輝く海は、水平線の向こうで一つの色に溶け込んでいた。穏やかな波音が耳に心地よく響く。
早朝に東京を出たフェリーは、島々を巡りながら進み、昼過ぎの今、ほとんどの乗客が下船していた。次は終点、
「見て! 翠眼島だよ!」
甲板にいた若い女性の声が響いた。
その声につられ、宇佐美は目を凝らした。遥か彼方、水平線に黒い影が揺らめいている。
「うるさいね!」
車椅子に座る老女が顔をしかめ、不機嫌そうに声を上げた。
付き添いの男が膝をつき、老女をなだめている。二十歳前後だろうか。プラチナブロンドに染めた髪、多数のピアスと指輪。派手な装いと整った顔立ちは、一見ホストのような印象を与える。
甲板の隅では、小太りの中年男がベンチに腰掛け、缶ビールを片手に海を眺めていた。その目は細められ、酔いが回っているのか、ややぼんやりしているようにも見える。
「すみません、写真を撮ってもらえますか? 島をバックにお願いします」
ショートヘアの女性が近づいてきて、宇佐美に声をかけた。
宇佐美は快く応じ、スマホのカメラ越しに視線を合わせる。
写真を確認した女性は満足げに頷き、宇佐美に笑顔を向けた。
「お一人ですか?」
「そうです」
宇佐美も穏やかに微笑む。
女性は色白で愛嬌のある顔立ちをしており、笑うと口元に小さなえくぼができた。
「私も一人なんです。翠眼島のペンションで働いている姉に会いに行くところなんです」
「そうなんですね。僕は宇佐美俊介といいます」
「——倉田朱美です」
朱美は人懐っこい笑顔で答えた。
「宇佐美さんも写真を撮りませんか? もうすぐ『黒岩』が見えますよ」
「黒岩? 有名なんですか?」
「光の加減で、緑色の眼のような模様が岩に浮かぶんですって」
「太陽の下じゃダメだよ」
不意に背後から声がした。振り向くと、ジーンズとタンクトップ姿の女性がタバコをくゆらせながら立っていた。
日に焼けた肌と引き締まった腕が印象的だ。年齢は四十代後半だろうか。
「陽が昇るか沈むか、そんな時じゃないと『
「フェリーからじゃ見られないんですね」
朱美が少し残念そうに言う。
「二人とも、パワースポット巡りかい?」
女性は興味深げに尋ねた。
朱美が笑顔で頷く。
「姉が翠眼島のペンションで働いていて、訪ねに行くんです」
「……あそこ、婆さんと息子しかいないはずなんだけど……新しい人を雇ったのか」
女性は驚いたように眉を上げた。
「息子の方なら、この船に乗ってるよ。『翠眼亭』って書いたTシャツ着てるから、すぐ分かるよ」
朱美はハンドバッグから封筒を取り出し、女性に見せた。
「姉からの手紙なんです。旅行中に島が気に入って移住を決めたらしくて」
封筒を受け取った女性は、中身を読んでから眉間にしわを寄せた。
「……長期滞在の客がいるって書いてある……あたし、何度もあの島に行ったけど、そんな話聞いたことないよ」
女性は顔を上げ、宇佐美と朱美を交互に見た。
「あたしは
朱美が頷いた一方で、宇佐美は首を振った。
「昼食を取ったら帰るつもりです」
フェリーが翠眼島に近づき、桟橋が見え始めた。
「お差し支えなければ、封筒も拝見していいですか?」
「どうぞ」
朱美は笑顔で封筒を宇佐美に差し出す。その仕草には、どこか無邪気さがあった。
朱美の耳には、ピアスがきらめいている。
——本物のダイヤだろうか。
粒が大きい。本物なら、相当高価な品に違いない。
封筒を受け取る際、朱美の袖口から覗いた腕時計が目に入る。細いベルトに控えめなデザイン。それでも、文字盤には高級ブランドのロゴが刻まれていた。
さらに、肩に羽織ったサマーカーディガンも、白いハンドバッグも、どれも質の良さが一目で分かる。
宇佐美が封筒の宛名を確認していると、藍子が笑顔を向けてきた。
「宇佐美さん、忙しい人なんだね。今どき景気いいんだ」
「公務員です」
宇佐美が簡潔に答えた瞬間、甲板の方から女の子たちのはしゃぐ声が響いた。
「あれが黒岩だね!」
女の子たちはスマホを片手に黒い崖の写真を撮り始めた。崖の上には白い建物が建っている。
三人の女の子たちは、それぞれスリムジーンズ、カーゴパンツ、ロングスカートを身に着けているが、上は赤・黄色・青と色違いの同じロゴ入りTシャツだった。
「彼女たち、友達じゃないんだよ。昨日のライブで初めて会ったんだって」
藍子が新しいタバコに火をつけながら言った。煙が風に流れていく。
「SNSで知り合った推し活仲間らしいよ。あの子たちが着てるシャツの色、推しカラーなんだってさ」
朱美は頷きながら、小さく微笑んだ。
「二次元キャラに惹かれる気持ち、分かるな……。三次元の男って、がっかりな人ばかりなんだもん……」
言った途端、朱美は顔を赤らめて宇佐美を見る。
「宇佐美さんは別ですよ!」
その言葉に、藍子が大笑いした。
「うん。確かに、あんたは結構イケてる方だね」
「どうも」
宇佐美は笑顔で軽く頭を下げた。
その時、朱美の左手の薬指に指輪の跡があるのが目に留まった。
フェリーは翠眼島に到着した。
小さな港には一つだけの桟橋があった。しかし、そこには人っ子一人見当たらない。静寂が、波の音と共に広がっている。
「一泊ぐらいしたらどうだい?」
藍子が大きなリュックを背負いながら、宇佐美に言った。
宇佐美は軽く微笑む。
「僕の上司は仕事が好きではないんですよ。下の者がフォローしなければなりません」
藍子は可笑しそうに笑った。
「あたしも若い時、使えないジジイの下にいたことがあるよ。そいつの給料を知ったら、バカバカしくなってソッコー辞めたけどね」
フェリーから降りた乗客は九人だった。
藍子、朱美、推し活仲間の三人。
車椅子の老女と付き添いの男。
缶ビールを片手にした中年男。
そして宇佐美。
空は雲一つなく晴れ渡り、海はまだ穏やかにきらめいていた。
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